【第十二章:智者(ちしゃ)(二)】
部屋からの返事を受け、恋銃癖は扉を押し開けた。真剣な面持ちで問い質す。 「教授。本当に俺の妻を呼び戻せるって、そう言ったな?」
扉の開く音。机上の数式に没頭していた第一学士が、弾かれたように顔を上げた。
狂喜した第一学士は恋銃癖の傍へ駆け寄る。その肩を抱き寄せ、無理やり書斎机の傍へと連れ歩きながら捲し立てた。 「おお、我が教え子よ! 分かっていた、分かっていたとも! 君なら必ず思い直してくれると! 君がここへ来ることは分かっていた! これこそが抗えぬ運命なのだ! ハッ、アハハハッ……!」
「妻が戻ってくるなら……俺は何だってする」 恋銃癖は机の上の紙束をチラリと一瞥し、視線を第一学士へと戻す。そして横に立つ男を紹介した。 「教授。こちらがあの高名なゴブリンの学者だ。あんたが絶賛してやまないあの論説……それを発表したのは彼だ」
「おお、我が世界樹よ! 素晴らしい……素晴らしいぞ! 天才たちがこうして一堂に会したのだ。これで我々は順当に、新たな天地へと向かうことができる……。そして、奴らに取って代わるのだ……!」 第一学士は激しく興奮し、狂特ゴブリンへと向き直る。焦点の合わない目を泳がせながら、全身を震わせて呟いた。 「いや……違う、違うぞ……! 急がねばならん、早くしなければ……ッ! あの侵略者どもに侵蝕され尽くす前に、新天地への『扉』を開かねば……ッ」
恋銃癖は書斎机の上に散らばる紙束を手に取り、眉をひそめて尋ねる。 「教授。これは、あんたが計算した数式か?」
「触るなッ!」 第一学士は咄嗟に手を伸ばし、恋銃癖の手からノートを激しく叩き落とした。
床に散らばった紙束を見下ろし、恋銃癖は再び第一学士へと視線を向ける。 「……教授。誰かと共同で研究を進めるつもりなら、今の進捗状況を共有してもらわねぇと困る。そうじゃなけりゃ、俺たちも手の打ちようがねぇんだ」
それを聞いた第一学士は、ハッと悟ったように目を見開き、そして満面の笑みを浮かべた。 「そうか……そうだな! その通りだッ! さすがは私の自慢の教え子だ! そうだとも! 君もこの数式を見るべきだ! そうでなくては最短で事を進められん! ゴブリンの学者殿、君も見るべきだ! さあ、見てくれ!」
恋銃癖は床の紙を拾い集め、一枚一枚パラパラと捲りながら口を開く。 「今一番重要なのは、その『扉』とやらをどうやって起動させるかを突き止めることだ。それが最大の焦点だろう。この数式だけじゃ足りねぇ。……一体何が必要なんだ? どの元素を使って駆動させる気だ?」
恋銃癖を横目でチラリと見遣り、狂特ゴブリンも以心伝心で話を合わせる。 「あんたがその『扉』とやらを望むなら、どうやって開けるんだ? 『鍵』になるのは何だ?」
狂特ゴブリンの問いを聞き、第一学士は虚を突かれたようにブツブツと呟き始めた。 「そうだ……その通りだ……! 数式だけあっても意味がない……! この『扉』をどうやって開くのかを知らなければ……ッ」
突如、第一学士が狂ったように大笑いする。彼は激しく興奮し、狂特ゴブリンの両肩をガシッと掴んだ。 「ハッ、アハハハッ! ハハハハハッ! さすがは世代を超える大啓蒙者殿だ! 我が教え子よ、素晴らしいぞ! 扉の開き方さえ分かれば、あとは数式に当てはめるだけで……すぐに、すぐに新天地へ旅立てる……!」
だが次の瞬間、第一学士の笑顔がグシャリと崩れ落ちた。異様な切迫感を滲ませ、問い詰める。 「君は……何か知っているのか? 何かを発見したのだろう!? 啓蒙者殿、私に教えてくれッ!」
手元の書類に集中する恋銃癖を流し見し、狂特ゴブリンは目の前で血走った目を向ける第一学士へと視線を戻す。背負っていた金属の箱をゆっくりと下ろし、中を手探りすると――残骸の一部を、力任せにバキッとへし折った。
狂特ゴブリンは、その小さな破片を第一学士へと手渡した。 「俺はただ、綺麗に磨かれたこの『小石』を、偶然拾っただけだぜ……」
第一学士が宝物のようにその破片を両手で包み込むのを見届け。狂特ゴブリンは恋銃癖へと視線を送った。恋銃癖が手元の書類を机の上にそっと戻すのを確認し、口を開く。 「すまねぇな、大博学者殿。俺は他の学者とも面会の約束があってな。またいつか、共に研究できる日を楽しみにしてるぜ」
狂喜の表情のまま、逃げるように部屋を去っていく二人の背中を見送っていた第一学士。 ……やがて、その顔から徐々に笑みが剥がれ落ちていく。
彼はぽっかりと穴の空いたような虚ろな目で、机の上の数式を見つめる。手の中の残骸をギリッと握り締め、氷のように冷たい声で呪詛を吐いた。 「貴様ら……絶対に、後悔させてやる……ッ」
帰路につく道すがら。恋銃癖は、狂特ゴブリンのあの行動が到底理解できず、懸念と冷気を孕んだ声で問い詰めた。 「……お前、あの『鍵』の一部を教授に渡すことが、どんな結果を招くか分かってやってるのか?」
「一、お前がもっと早く内容を頭に叩き込めていれば、あんなモン渡す必要はなかった。二、コアの大部分は二つとも俺が保持してる。奴にくれてやったのはほんの欠片に過ぎねぇ。解析するには、それなりの時間がかかるはずだ。三、『扉』は開けられるなら、閉じることもできる。こっちも早急にあの代物の原理を解明しなきゃならねぇ。これ以上時間を無駄にはできねぇんだよ。四、あいつはもう手遅れだ。……せめて体面を保ったまま、引導を渡してやれ」 狂特ゴブリンの顔には、常時固定された獰猛な笑みが張り付いている。しかしその眼差しには、隠しきれない哀惜と感慨が滲んでいた。
二人は恋銃癖の仮住まいへと戻った。狂特ゴブリンは背中の金属箱から一冊のノートを取り出し、恋銃癖へポンと投げ渡す。 「さあ、頭に叩き込んだ内容を、残らずそのノートに書き起こせ。急げよ、俺はまだやらなきゃならねぇことが山積みなんだ」
徹夜での書き起こし作業。 窓の外の空が、徐々に白み始めていく。 恋銃癖はバタンとノートを閉じ、狂特ゴブリンへと手渡した。そして、足早に去っていく彼の背中を見送る。
恋銃癖は凝り固まった身体を大きく伸ばし、深く息を吐き出す。部屋の外へと足を踏み出すと、あの円形の木造建築の方から、何やら騒々しいざわめきが聞こえてきた。不審に思い、彼は木造建築へと足を向ける。
「大博学者殿は酒場にもおられなかった! 全ての資料を持ち出している……こんなの異常だ……もうお終いだ……!」 「大博学者殿から目を離すなと言っただろう!? あれほどお加減が悪かったのに、外へ出られたことにすら誰も気づかなかったというのか!」 「もう一度探すんだ! 大博学者殿が理由もなく失踪などするはずがない。きっとまだ、この近くにおられるはずだ!」
パニックに陥り、喧々諤々の議論を交わす学者たち。 恋銃癖は人混みの後方で、その様子をただ黙然と眺めていた。 ……やがて短く息を吐き出すと、きびすを返し、オールドマンのいる廃屋へと向かって歩き出した。
澄んだ水の張られた洗面器を手に、屋内へと入るオールドマン。手ぬぐいを水に浸して軽く絞り、顔の汚れをゴシゴシと拭き取る。 視界の隅に、入り口に立つ恋銃癖の姿を捉えた。
手ぬぐいを洗面器の縁に掛け、オールドマンは傍らの木箱を手で示し、座るように促す。 「……何か進展はあったか?」
促されるまま、恋銃癖は木箱の上に腰を下ろした。そして、昨夜起きた出来事の一部始終を、オールドマンへ報告し始める――。
膨大な情報量を受け、オールドマンは長い長い沈黙に沈んだ。 咥えていたパイプの火が、いつしか完全に消え失せる。……やがて、彼は重い口を開いた。 「もし、お前の言っていることが全て事実だとしたら……。別の(・)世界には……俺の家族や、老友は……まだ生きていると思うか?」
恋銃癖は、一切の感情を交えない無表情で解説する。 「仮に別の世界が存在することが証明されたとしても。あらゆる可能性を考慮すれば、それは絶対に『あんたの知っている人間』じゃねぇ。ほんの些細な分岐点一つで、人間の人生の軌跡は完全に変わっちまうんだ」
それを聞き、オールドマンは再び深い思索に沈んだ。ゆっくりと、吐き出すように答える。 「そうか……」
恋銃癖は淡々と続ける。 「ああ。あんたが今の小隊を組む前にな。もし何らかの理由が欠けていたり、ほんの少しの微小な変化が起きていれば、小隊のメンバーが変わっていたか、そもそも部隊自体が結成されていなかったかもしれない。それと同じことだ」
オールドマンはパイプを口から外し、手で口元を覆う。何かを噛み締めるように、再び問う。 「じゃあ……。別の世界で、あいつらは……幸せに暮らしてると思うか?」
「実質的に断定することは不可能だ。考えてみろ。全ては時の流れに従っている。ある分岐点で変化が起きれば、他の世界では、彼らはあんたを知らないかもしれないし、あんたも彼らを知らないかもしれない。その世界において、それが『幸せ』である可能性はある」 恋銃癖は伏し目がちに、膝の上に置いた己の両手をぼんやりと見つめた。そして、逆に問いかける。 「だが……考えたことはあるか? もしその世界でも、深淵の侵攻に直面していたとしたらどうだ?」
「私情を挟まない奴なんているもんか。もし本当に彼女に会えるなら……俺は心の底から謝りたいと思ってる。だが、少し考えれば分かることだ。別の世界では、彼女は俺のことなんて知らねぇかもしれない。俺自身だって、ただの虐められっ子の臆病者として生きてるかもしれないんだ」 恋銃癖は、無意識のうちに己の指にはめられた結婚指輪を撫でていた。
ギリッと唇を噛み締め、片手でその口元を覆うオールドマン。 やがて、強張った唇をゆっくりと緩め、微かな震えを押し殺したような静かな声で答えた。 「……分かったよ。ご苦労だったな」




