70些細な、されど……
息が苦しい。喉が焼けるようだ。
だが、それ自体に恐怖を抱いてはいない。何のことはない、死期が早まっただけだ。
だというのにーー。
胸中に渦巻くざわめきが、消えてくれない。
何故、ここまで抗おうとしている。
国王の為にと、確かに剣を取った。だがそれは、国の行末なんて高尚な物を、慮った訳ではない。
目前の他者の死は耐え難いが、生涯引きずるものにはなりえない。
ロヴロ・ブラッドとは、元来そういう人間だった筈だ。
そんな自分の死が与える影響など、大したものではない。そうありたいとさえ思っている。実際、自身がいなくとも世界は回る。当然の理の筈なのに。
ーー俺は、どうしたいんだ。
思考が鈍い。酷い耳鳴りがして、瞼まで重くなる。呼び覚ましたのは、皮肉にもデヴォンの声だった。
「安心しろ。直に死が訪れる。陛下も、貴様の連れも、すぐに後を追う事になる」
頭を鈍器で殴られたような気がした。想像してしまったのだ。
自分と縁のある者達の死を。それが意識を揺り起こした。
彼らは、無事なのだろうか。無事だとしても、このままでは毒に犯されて激痛に悶え死ぬ。
いつかの訴えるような、エミリーの顔が脳裏に浮かぶ。その顔は救いを求めているようにも、命を投げ出すことを非難しているようにも思えた。
ここで死んだら、彼等は悲しんでくれるだろうか。
「……糞ったれ」
そうではない。
鉛の如き体に、喝を入れる。
どう思われるかなど、重要ではない。
約束したのだ、守り抜くと。
絶望的状況にそぐわぬ異変に、デヴォンは足元を見下ろした。
「何が可笑しい?」
「いや。自分にも、まだ未練がましいなんて感覚があったのかと思ってな」
「何を言っている?とうとうおかしくなったか?」
「ははっ……おかしいのは、元からだ」
自分でも、いかれていると思う。今際の際で、執着らしき物を手にするとは。
生き方を変えるほどではない。余りにも些細な、されど確かに芽吹いた、芽吹き始めた本音。
自分のいない世界、それはきっと想像通りだろう。それでも、考えずにはいられなかった。
あの学び舎の喧騒を、魔術の修練を、街の活気を、まだ見ぬ世界を。
そして彼等の……友の成長を。
もう少し、ほんの少しだけ、見てみたいと思えた。
「何も知らずに死ぬってのは、ちょっと嫌でね」
「世迷言を。知る知らぬの問題ではない。これから貴様等は……」
「生憎、お前にも、お前の悪趣味な毒にも用はない」
「なんだと?」
「だらだらと話に付き合ってくれて、助かった。お陰で間に合う」
視線を天蓋へ。つられてデヴォンも首を上へと向けた。デヴォンの巨体を覆う魔法陣、その複雑な紋様が幾重にも重なりあっている。
「知ってるだろうが、黒魔術は自分の魔力は然程要らない。その代わり、漂う魔素を使う。でも魔界とは違って、地上の魔素はそこまで質が良くないらしい」
あの王笏が放った魔術。あれは己が魔力を魔素へ変換したのだろう。そして、蒼星石から解き放たれた、禍々しい魔術の残滓。最早、条件は充分に満ちている。
「ここまで揃えば、上位悪魔すらも召喚出来る。お前が群れを呼んだようにな」
この魔法陣を知っていたか、デヴォンの表情から、余裕が消えた。
「まさかこれは……」
「お前はやり過ぎた。ヘルハウンドを操って冥界の秩序を乱し、更に大量の人の魂を刈り取ろうとしている。彼がどちらに与するかは、考える迄もない」
魔法陣が光を帯びる。暗雲が立ち込め、大地を揺るがす。黄泉の気配が、降り立った直後ーー。
一筋の蒼炎が疾った。
「ぐあああっ!!」
狼の姿に変貌したデヴォンが、初めてのたうち回るほどの傷を負った。何が起こったのか分からないと、御業を放った存在を睨んだ。
炎を放った大司祭が、ロヴロへ並び立つ。背に添えられた手から、じんわりと熱が伝わる。それが傷を癒していると、すぐに理解した。
「俺の毒を……」
呼吸が整う。痛みが、傷が、嘘のように消えていく。
久しい横顔へ、言葉をかけた。
「有難う。それと久しぶり、ルシファー」
「ロヴロよ。お主、最近全く相手をせぬと思っとったのに、随分な場へ呼び出すのう」
「ごめんごめん、教師の見習いも、色々と忙しくてね」
「ほっほっ。年頃の人間に手を焼いとるお主も見てみたいところじゃが……」
射抜くような視線をデヴォンへと向ける。おどけているが、相手の力量を測る目に狂いはなかった。
「今は、そんな事言ってられんのう」
「ああ」
蒼炎を振り払い、斬撃を飛ばしてくる。
それをいとも容易く弾く。しかし陰から、まだ追撃が来ていた。
「ルシファー!」
「分かっとる」
デヴォンの体に隠れていた蝿の大群が、こちらに向かってくる。速度と硬度に手を加えられた、まるで弾丸ような蝿だ。
「物騒じゃのう」
ロヴロが障壁を張るよりも早く、ルシファーは膜を広げた。蝿の勢いごと呑み込み、あっさりと沈静化させてしまった。
「良い魔力じゃ。じゃが、こっちにも手順があるのでな。少し大人しくしてもらおうかの」
デヴォンを指差すと、地面から巨大な骨の檻が現れ、拘束した。もがいているが、すぐには抜け出せまい。
「さて、ロヴロよ。聞かせてもらおうかの。儂を呼んだ訳を」
落ち窪んだ目が、こちらに向き直った。
「助けたい人達がいるんだ。手を貸して欲しい」
「……ほほう。お主がのう」
重々しげに、髭を扱く。大司祭として、そして悪魔として、喚び出した者へ当然の言葉を紡ぐ。
「じゃが良いのか?儂に借りを作るというのがどういう事か、分からん訳ではあるまい」
「分かってる」
上位の悪魔になればなるほど、力の代償を払わなければならない相手も多くなる。
普段は大した事のないお返しで済む相手ばかり召喚しているが、今はそんな事は言っていられない。
「大丈夫、ちゃんと払うよ」
「……お主の命でも、か?」
脅しめいているが、ルシファーなら本当に出来るだろう。だが、それを踏まえたとてーー。
「問題ない。でもちょっと、先延ばしにして欲しいかな」
「……ほっほっ。なんじゃなんじゃ、あの偏屈な小童が、まさかそんな事を言うとはのう」
笑うほどの事か。
抗議しようとした時、ルシファーの魔力が流れ込んでくる。体を包んだルシファーの炎、それは、契約の成立を意味していた。
「ええじゃろう。儂もチェスの相手を失うのは惜しいからのう。それに、今回はこちらの落ち度もある」
「落ち度?」
「此奴の使役した蝿、それにヘルハウンド。よもやと思うたが、あやつが絡んでおると見るのが、妥当じゃのう」
頭が痛いと、ルシファーはこめかみを押さえた。きっと、同じ相手の顔が頭に浮かんでいることだろう。
「ベルゼブブ」
「そうじゃ。よからぬ事を企むのはいつものことじゃが、まさか人間の組織に与するとはのう」
「操られている可能性は?」
「無いとは言わんが、何をするか分からん奴じゃからのう。これが片付いたら、手を打たねばなるまい」
次いで魔法陣が浮かぶ。ルシファーの力、その一部を貸与されたのだ。
魔力が二人の間に紡がれ、心臓に絡みつくように体内へ。
「お主には、然るべき時に手を貸して貰う。それが代償って事で、良しとするかの」




