第九話 長くて結構です
「すでに長いですが?」
「ですから、ここで止めましたの」
「なぜ?」
彼は不思議そうに訊ねた。
「なぜ、と申されましても。初対面の方へ、読んでもいない後半の内容まで推測して話すのは失礼でしょう? それに、ナイヤガラ様は専門家ですもの。見当違いでしたら、お聞かせする時間が無駄になります」
「今のところ、見当違いではありません」
「そうですの?」
「ただし、人手については別の地域から季節労働者を入れる計画があります」
「それでは住居と食料の費用が増えますわ。報告には、その予算が入っておりません」
「後半にあります」
「どの程度?」
「一人につき、月に銀貨十二枚」
「足りません。仮設の住居を建てる費用だけで半分以上なくなります。それとも、既存の農家へ分宿させるつもりですの? それなら受け入れる家への補償が必要ですし、収穫期には元から雇っていた働き手と競合します。さらに南部へ人を集めれば、その人々が来た土地では――」
また止めたが、彼は私の言葉を待つ。
「続きは?」
「まだ申し上げて良いのですか?」
「あなたは、元の土地で労働力が不足すると言いたいのでしょう。その先に、移動距離と賃金の差もあるはずだ」
「ええ。ですが、それだけではありませんわ。雇われる側が毎年同じ人数来るとも限りません。水路は一度造れば維持し続けなくてはなりませんのに、働き手は条件が悪ければ翌年には来ない。でしたら最初から、耕作地を増やすことより、今ある土地で収穫量を安定させる方法へ予算を使うほうが――」
「それには反対です」
「まだ最後まで申し上げておりません!」
ついそう強く口走ってしまった。
「最後まで聞いても反対します」
静かな声で彼は言う。
「どうしてですの?」
「既存の土地だけを改良すれば、その土地を持つ者の利益は増えますが、新しく農業へ入る者の余地が生まれません。南部では土地を持たない次男以下が流出している。水路の目的は、収穫量だけではない」
「でしたら、最初からそう書くべきですわ。報告の第一目的には、食料生産の拡大とあります。若者の定着が目的なら、土地の分配方法と、最初の数年を支える制度が必要でしょう。水だけ引いて、あとは各自で耕せでは、資金のある家が新しい土地まで押さえるだけです」
「その懸念はあります」
「懸念ではありません。今の制度なら、そうなります」
「断定しますか?」
「はい。土地を買える者と、土地を必要としている者は同じではありませんもの」
ヘルムートは冊子を開くと何かを探し、該当する頁をこちらへ向ける。
「ここに、一区画ごとの上限が書かれています」
「一世帯につき、でしょう? 同じ家の成人した息子を別世帯として申請すれば、いくつでも取れますわ」
「審査で弾く」
「誰が審査するのです?」
「地方官です」
「その地方官と親しい家が、最も多く土地を持っているのではありません?」
彼の指が止まった。
「……それは調べる必要がありますね」
「ございましょう?」
「ですが、あなたの案でも、土地を持たない者の流出は止まりません」
「わたくしの案は、まだ申し上げておりませんわ」
「既存農地の改良でしょう」
「それは予算の使い道の一つです。浮いた費用で、冬季に別の仕事を作ります。農業だけで一年を暮らせないから出ていくのであって、土地を与えれば残るとは限りません。まず――」
隣室で、小さく物音がした。見ると、開いた扉の向こうからチェリーの顔が半分だけ出ている。
「何をしているの!?」
「お母様が、お茶のお代わりは必要かと」
その後ろには、母と父もいた。全員、こちらを見ている。
テーブルの茶器を見る。いつの間にか、ポットは空になっていた。
「……お願いできます?」
「ええ。すぐに」
チェリーは引っ込んだ。だが扉は、先ほどより少し大きく開いたままだ。
「……申し訳ありません。話が長くなりましたわね」
ヘルムートは冊子へ紙片を挟んだ。
「いえ、まだあなたの案を全部聞いていません」
「本当にお聞きになりますの?」
「ここまで聞いて、途中で終わられては困ります」
「ですが、かなり長くなりますわよ」
「今日はこのあと、予定を入れていません」
「夕食までかかるかもしれません」
「それなら、途中で夕食をいただけるか、フラクタル伯爵に尋ねます」
隣室で、父が咳き込んだ。彼はそちらを見ず、冊子を私の前へ戻した。
「それと、ナイヤガラ様はやめてください」
「では、何と?」
「ヘルムートで結構です」
「初対面ですわよ」
「この話の間だけでも。侯爵家の名で呼ばれると、水路ではなく家の意見を述べているように聞こえる」
「分かりました。ではヘルムート様」
「様も不要です」
「それはお断りします。初対面の男性をいきなり呼び捨てになどできませんわ。話の内容と礼儀は別ですもの。それに、呼称を変えたところで、あなたがナイヤガラ侯爵家の方である事実は変わりません。家の立場と個人の意見を分けたいなら、最初にどちらとして話しているかを――」
ヘルムートが少し笑った。
「何ですの?」
「いえ。続けてください」
「呼び方の話を?」
「水路の案を」
「では、最初から申し上げますけれど――」
「お願いします」
新しい茶が届く。
侍女がカップへ注ぐ間も、ヘルムートは冊子から目を離さない。
私は南部の冬の仕事について、考えていた案を話し始めたが、途中で三度反対され、二度はこちらの説明不足を認めた。そして一度だけ、彼が報告書の数字を読み違えた。
やがて、話が終わった時には、窓から差す光がずいぶん傾いていた。
ヘルムートは閉じた冊子の上へ手を置く。
「次に会う時までに、地方官と土地所有者の関係を調べておきます」
「次も、この話をなさるおつもりですの?」
私は思わず目を見開いた。
「あなたは、まだ冬季の仕事を誰が買い上げるのか説明していない」
「そこまで申し上げましたら、販売先と輸送の話になりますわ!」
「聞きます」
「さらに長くなりますけれど」
「長くて結構です」
隣室から、今度ははっきりとチェリーの笑い声が聞こえた。




