第十話 内容も何だがあなた方は
ヘルムートが再びフラクタル家を訪れたのは、最初の対面から五日後だった。
今度は釣り書きの席ではない。
南部水路について、新たに確認できたことがあるので意見を聞きたい、と正式に面会を申し込んできた。
「それはお仕事の相談なのではありませんの?」
父へ尋ねると、父はヘルムートから届いた書状を私へ渡した。
「最後に、アプリコット嬢との面会を重ねたい、と書いてある」
「ついでのようですわね」
「どちらがついでなのかは、本人に聞け」
「お父様は、最近そればかりですわ」
「本人に聞けば済むことを、私に長く尋ねるからだ」
*
指定された時刻に、ヘルムートは大きな革鞄を持って現れた。
前回より荷物が多い。侍従と二人がかりでテーブルへ載せると、中から地図、土地台帳の写し、地方官の名簿、古い水量記録が次々と出てきた。
「お見合いの続きにしては、ずいぶん物々しいですわね」
「手土産に菓子も持ってきました」
別の小箱が、書類の下から出てきた。
「潰れておりません?」
「おそらく」
「おそらくで食べ物を扱わないでくださいませ」
箱を開ける。中の焼き菓子は、一つだけ端が欠けていた。ヘルムートはそれを見る。
「食べられます」
「食べられるかどうかを尋ねているのではありませんわ」
「なら、何を?」
「もう結構です」
母が少し離れた椅子で笑いをこらえている。
*
今日は最初から二人だけにはされなかった。
婚約前の男女が何度も会うのだから、家族の同席は当然だ。ただし母は刺繍を持参し、こちらの話へ口を挟むつもりはないらしい。
ヘルムートが一枚の地図を広げた。
「前回、あなたが指摘した地方官と土地所有者の関係を調べました」
「五日で?」
「名簿と登記の照合だけなら、二日で済みます」
「それを調べる方を集め、資料を取り寄せ、結果をまとめる時間が必要でしょう。二日では済みませんわ」
「私が一部を確認しました」
「ご自分で?」
「学術院に写しがあります」
地図の上へ、名簿が置かれる。
「南部の地方官六人のうち、四人が新しい水路の予定地に親族名義の土地を持っていました。本人名義ではありません。妻の実家、成人した息子、弟の家です」
「やはり」
「まだ不正と決まったわけではありません」
「存じておりますわ。『やはり不正でした』とは申し上げておりません。土地を必要とする者へ平等に渡すには、今の審査方法では足りないという意味です」
「言うと思いました」
「でしたら、先に訂正しないでくださいませ」
「あなたは結論までが長いので、途中で確認しただけです」
「長くて結構だとおっしゃったのは、ヘルムート様でしょう」
「長くてよいことと、途中で質問してはいけないことは別です」
「まあ」
この間、私がジョナサンへ言った言葉とよく似ている。
話の内容と、手順は別。気持ちと、責任は別。
私は思わず笑った。
「何です?」
「いいえ。続きをお願いします」
彼は少し不審そうにしたが、構わず名簿の一人を指す。
「この地方官は、次男を別世帯として申請させています。まだ土地の配分は始まっていませんが、すでに予定地の近くへ小屋を建てている」
「では、制度が決まる前から、どこへ水路が通るか知っていたのですね?」
「調査に関わる地方官です。当然、知っています」
「知ることと、先に土地を押さえることは別ですわ」
「今のところ、土地を買ったという記録はありません。小屋を建てた土地は親族の所有地です」
「水路の位置を、自分たちの土地へ寄せることはできますでしょう?」
「可能です」
「それなら、配分方法だけを直しても足りません。予定経路そのものを再確認する必要がありますわ」
「それをすれば、工事は一年遅れます」
「急いで、特定の家の土地だけを潤しても仕方ありません」
「一年遅れれば、来年も若者が流出する」
「水路が完成するのは早くても三年後でしょう? 一年遅れることで出ていく方を、水路だけで引き止めることはできません。でしたら、その一年で別の仕事を――」
そこまで話して、前回の続きだったことを思い出した。
「冬季の仕事ですね」
ヘルムートが言う。
「ええ。ただ、前回申し上げた案には問題がありましたので、少し考え直しました」
「どこが?」
「冬の間に作らせる品を、外へ売ることばかり考えておりました。でも、運ぶ費用が高くなります。南部で必要なものを南部で作り、これまで外から買っていた分を減らすほうが先です。農具の修理、麻袋、荷馬車の部品、保存食。それから――」
彼が書き留め始める。
「ちょっと、待ってくださいませ」
「何です?」
「今、書くほどのことではありません。まだ思いつきを並べているだけですもの」
「思いつきを忘れないために書いています」
「では、間違っているかもしれないことも残りますわ」
「あとで消せばいい」
「紙に書くと、正しいことのように扱う方がいるでしょう」
「私の手帳を誰が読むんです?」
「研究なさる方は、後に記録を整理して残すこともあるでしょう。その時に、最初の思いつきと、調査後に出た結論を分けておかなくては――」
「アプリコット嬢」
「はい?」
「今の話は、水路から離れています」
「あなたが書き始めるからですわ」
「では、水路へ戻しましょうか」
ヘルムートは手帳の行へ一本線を引き、横に「未確認」と書いた。
「これでいいですか?」
「わたくしの許可を取ることではありませんわ」
「ですが、気になって話が進まないのでしょう」
「……続けましょう」
母の針が、小さく震えている。
笑っているのだと思う。
「南部で使うものを南部で作るという案には賛成です。ただし、農具の修理には職人が必要です。農閑期の農民をすぐに使える仕事ではない」
「すべてを農民だけで行う必要はありません。職人を招き、若い方へ教える仕組みにすればよいのです。最初の年は修理だけでも、翌年には簡単な部品を作れるようになるかもしれません。水路の工事が始まれば、道具の需要も増えますでしょう?」
「職人はどこから連れてきます?」
「王都からでは費用がかかります。近隣の町で、後継者のいない工房を探しては?」
「住み慣れた町を離れたがらないでしょう?」
「工房ごと移す必要はありません。冬の数か月だけ教えに来ていただきます。宿と食事を用意し、教えた人数に応じて報酬を――」
ヘルムートの眉が寄った。私はそこで話を止めた。
「なぜ止めるんです?」
「……その報酬では高すぎると思っていらっしゃるでしょう?」
「思っています」
「でしたら、まずナイヤガラ侯爵領で熟練職人へ払っている賃金を確認してくださいませ。教える時間には、その方が本来作れた品の代金も含めなくてはなりません。単なる日雇いの賃金で計算すれば、腕のよい方ほど来ませんわ」
「それでも、あなたの想定は高い」
「なら、おいくらが妥当だと?」
ヘルムートが数字を挙げる。私も考えていた額を言う。
彼の額は、私の六割ほどだった。私は首を横に振る。
「それでは来ません」
「来ます」
「来ませんわ」
「なぜ断定できます?」
「職人へ伺ったことがありますもの」
「何のために?」
「フラクタル領の学校で、卒業後に仕事を見つけられない子供たちへ職を教える話が出た時です。教える側へ払う報酬を決めるため、兄と工房を回りました」
「結果は?」
「あなたのおっしゃった額とほぼ同じものを最初に提示しました。三軒に断られましたわ」
「理由は?」
「教えている間に仕事が遅れる。覚えるまでに道具や材料を無駄にする。教えた子がすぐ辞めても、自分には何も残らない。最後の工房では、安く技術だけ盗もうとしているのかと叱られました」
「その後は?」
「報酬を上げ、半年以上続いた子が出れば追加で支払うことにしました。今は五人が働いております」
「その記録はありますか」
「兄が持っていますわ」
「見せていただきたいです」
「見てどうなさるの?」
「あなたの案が南部で使えるか計算します」
「まだ使うと決めたわけではありませんでしょう?」
「使えるかどうかを調べてから決めます」
「それはそうですけれど」
手帳へ、今度は「フラクタル領・職業訓練」と書いた。
「それから?」
「何がです?」
「南部で作るものです。農具、麻袋、荷馬車の部品、保存食。そのあとに、まだ何か言いかけていた」
「覚えていらしたの?」
「聞いていましたから」
「……毛織物ですわ」
「羊は放牧地にいる」
「ええ。でも、今は毛を刈ったあと、そのまま商人へ安く売っています。洗浄と選別だけでも現地で行えば、値が上がります。糸にするところまでできれば、冬の仕事にもなりますけれど、そこには道具と技術が必要になりますけれど――」
また、ヘルムートの眉が動いた。
「今度は何です?」
「止めておりませんわ」
「言い方が変わりました」
「変わっておりません」
「変わりました。道具と技術が必要です、と言い切るところを、『必要になりますけれど』で終えた」
「意味は同じでしょう」
「そのあとに考えていたことは?」
「まだ整理できておりません」
「何も、全部整理してから話そうとしなくていいです。先ほどは思いつきを書くなと言いましたが、口に出すことまで禁じる必要はないでしょう」
「そんな、聞く方が混乱しますわ」
「私は混乱していません」
「今はそうでも、話が長くなれば――」
「長くて結構です」
同じ言葉を、もう一度言われた。
「途中で反対もしますし、分からなければ尋ねます。疲れたら休憩を求めます。ですから、こちらが言う前に勝手に話を畳まないでください」
「勝手に、と申されましても」
「あなたは相手の顔を見て、話す量を変えていますね」
はっ、と胸を突かれた気がした。手元の資料へ目を落とす。
「……でも、誰でも多少はそうするでしょう。興味のない話を延々聞かせるのは失礼ですもの」
「私は興味があると何度言えば伝わります?」
「……聞きたいとおっしゃることと、すべてを聞いて楽しめることは別ですわ。最初は興味があっても、途中から長すぎると思うことはありますし、相手の時間も――」
「アプリコット嬢」
「はい?」
「長いです」
「ほら、ご覧なさい」
「違います。今の説明は確かに長いですが、聞きたくないとは言っていません」
真面目な顔をしていた。冗談ではないらしい。
「あの、長いことを指摘するのは、止めろという意味ではないのですか?」
「私はただ、長いものを長いと言っただけです」
「普通は、少し短くしてほしいという意味を含みますわ」
「私は短くしてほしい時は、短くしてくださいと言います」
「随分とそのままおっしゃるのね」
ふと口元が緩んでしまう。
「遠回しに言って、途中を省かれても困ります」
「それでは、人と衝突なさるでしょう」
「それは――よくします」
「直すおつもりは?」
「あなたに言われたくありません」
母がとうとう、声を立てて笑った。
「ごめんなさい。続けてちょうだい」
「お母様まで!」
「だって、あなた方、とてもよく似ているんですもの」
「どこがです?」
私とヘルムートの声が重なった。母はさらに笑い、刺繍を置いた。
「そういうところよ」
ヘルムートと顔を見合わせる。
「似ておりませんわ」
「同感です」
「ほら」
母は得意げに言った。何を言っても喜ばれそうなので、話を戻すことにした。
「それで、毛織物の話ですけれど」
「はい」
「最初から申し上げても?」
「お願いします」
洗浄に使う水の量――冬でも作業できる建物――羊毛を保管する場所――糸にした後の売り先。
途中でヘルムートは四度反対し、私は二度話を戻した。
一度は、母がお茶を足すために止めた。
もう一度は、ヘルムートが焼き菓子を口へ入れたまま質問し、むせたためだった。
「だから、先に飲み込んでくださいませ」
「時間が惜しかったので」
「菓子一つを食べる時間も惜しんで、咳き込んで話を止めるほうが余計にかかりますわ」
「その通りです」
「認めるのは早いのですね」
「間違っていたのは確かでしたから」
ジョナサンなら、そこで何か理由を探しただろう。
――菓子が思ったより乾いていた。
――質問を忘れそうだった。
――ほんの少し喉へ引っかかっただけだ。
この人は水を飲み、同じ菓子の残りを今度は黙って食べた。
「それで、先ほどの続きですが」
「まだ続けるのですか」
「あなたが時間を惜しんでまで尋ねたことでしょう?」
「そうでした」
話が一段落した頃には、日が傾き始めていた。彼は書類を鞄へ戻しながら、最後に一枚の招待状を出した。
「来週、学術院で南部の古い水路図が公開されます」
「一般の者も見られますの?」
「紹介があれば。ご覧になりますか」
「見たいですわ。ただ、わたくしをお誘いになるのは、水路のためですの?」
ヘルムートの手が止まった。
「水路のためでもあります」
「でも、でも?」
「あなたと会うためでもあります」
あまりにも普通に言われ、返事が一瞬遅れた。
「……そうですの」
「見合いの続きをする意思がないなら、これほど資料を持って何度も訪ねません」
「研究のために、必要なのかと思っておりました」
「研究のためなら、意見を文書で求めます」
「わたくしが文書にしたら、相当長くなりますわよ」
「それは知っています」
「まだ一度もお渡ししておりませんのに」
「話した量から推測できます」
失礼な推測だ。けれど、否定はできなかった。
「では、学術院へ伺いますわ」
「ありがとうございます」
「ただし、古い図を見るのでしたら、現在の地図も持参してくださいませ。昔の水路が今の村や道とどう重なるか分からなくては、見ただけで終わります。それから、可能なら過去三十年分の雨量と――」
ヘルムートが手帳を開く。
「続けてください」
「まだ、必要なものを挙げているだけですわ」
「最後まで聞いてから、必要かどうか反対します」
「反対するおつもりなのですね」
「全部必要だとは思えません」
「では、最後まで聞いてから間違えてくださいませ」
「分かりました」
隣で母が、また刺繍へ顔を伏せた。




