第十一話 話を畳まれるよりいい
学術院へ出かける朝、母は私のドレスを三度見直した。
「お母様。先ほどから、何かおかしくて?」
「おかしくはありませんよ」
襟元の留め具へ触れ、袖口を整える。
「では、なぜ何度もご覧になるのです」
「学術院へ行くには少し華やかかしら? と思って」
「見合いを続けている男性と出かけるには地味すぎないか? とも思っている顔ですわね」
「まあ。よく分かること」
「お母様のお顔は、わたくしほど話が長くありませんもの」
今日は深い杏色のドレスを選んだ。裾は歩きやすい長さで、袖も細い。学術院の資料室で布を引っかけては困る。
チェリーが私の周りを一周する。
「いいんじゃない? 水路を見に行く服には見えないけれど」
「水路そのものを見るのではありません。古い水路図ですわ」
「余計に服装が分からない」
「あなたは今日、何を見に行くと思っているの」
「ヘルムート様」
「チェリー」
母がたしなめた。
「だって、古い地図より珍しいでしょう。コッティの話を最後まで聞く人よ」
「人を珍獣のようにおっしゃらないで」
「でも、門扉よりはよくなったわ」
「その比喩をまだ引きずっておりますの?」
*
玄関先には、ナイヤガラ家の馬車が止まっていた。
ヘルムートは自分で迎えに来ている。先に降りて、母とチェリーへ挨拶した。
「本日はアプリコット嬢をお預かりします」
「ええ。よろしくお願いいたします」
母は穏やかに答えたあと、少しだけ声を落とした。
「話が長くなりましたら、途中でお茶を飲ませてくださいませ」
「承知しました」
「お母様」
「あなた、自分で止まりませんでしょう」
「止まりますわ」
「前回は夕食前まで続きました」
「ヘルムート様も話しておりましたもの。全部わたくしの時間ではありません」
「そこを競わなくていいの」
馬車の扉を押さえて待ちながら、ヘルムートの口元は少し動いていた。
「笑っていらっしゃる?」
「いいえ」
「先ほど、お母様へ余計なことを言われたと思っている顔ですわ」
「あなたも、母君と同じくらい顔を読むのですね」
「あなたのお顔は、もう少し説明が必要ですけれど」
馬車へ乗ると、向かいに座った彼の膝には、すでに書類鞄があった。
「今日は資料を広げないでくださいませ」
「なぜです?」
「馬車の中で地図を広げると、揺れるたびに折り目が増えます。それに、道中まで話し始めたら、学術院へ着く前に論点が三つほど増えるでしょう」
「二つです」
「なぜ断定できるのです?」
「話したいことを二つ用意してきました」
「……では、着いてからにしてくださいませ」
「分かりました」
素直に鞄へ手を置く。
ジョナサンなら、少しくらいいいだろうと言って開いていたかもしれない。
けどヘルムートは開かない。
ただ、窓の外を見ているうちに、指が鞄の留め金を二度叩いた。
「気になっていらっしゃるでしょう」
「何がです?」
「用意した二つを、今すぐ話したいのでは?」
「話したいですね」
「でしたら、なぜ黙っていられるのです」
「あなたが着いてからと言ったので」
「それだけ?」
「それだけです」
簡単な返事だった。
*
学術院は、王宮の北側にある大きな石造りの建物だった。
正面階段を上がる間にも、書類を抱えた者が何人も行き交っている。立ち止まって話す者、階段の途中で紙を読み始める者、片方の靴紐がほどけたまま走る者。
「随分と慌ただしい場所ですのね」
「今日は公開日ですから、いつもより人が多い」
「普段は静かですの?」
「廊下は静かです。各室では騒いでいます」
「何を?」
「自分の説が正しいと」
「まあ」
「あなたにも向いていると思います」
「わたくしがいつも騒いでいるように聞こえますわ」
「声量の話はしていません」
資料室には、古い地図がガラス板の下へ並べられていた。
川の流れ、村の位置、かつて使われていた水路。紙の色は褐色へ変わり、端には何度も畳んだ跡が残っている。
ヘルムートが持参した現在の地図を広げる。
「この水路が、今の計画で再利用しようとしている経路です」
「ずいぶん曲がっておりますのね」
「昔の地形に合わせています」
「でも、こちらの村は今ありませんわ」
「五十年前の洪水で移転しました」
「でしたら、村へ水を引くために曲げた部分を残す理由もありません。今の道へ沿わせれば、工事の距離を短くできるのでは?」
「高低差があります」
「どのくらい?」
ヘルムートが数字を答える。
「それなら、こちら側へ回したほうがまだ短いでしょう」
「ここには林があります」
「誰の林ですの?」
「調べていません」
「土地の所有者が地方官の親族でしたら、経路を曲げた理由がまた増えますわね」
隣で地図を見ていた白髪の男性が、こちらを向いた。
「ヘルムート。その令嬢は誰だ」
「アプリコット・フラクタル嬢です」
「《《例の》》?」
「何の例ですの?」
私が尋ねると、白髪の男性はヘルムートを見た。
「このところ君が、南部水路について妙に細かい質問をするようになった原因だ」
「原因と呼ばないでください」
ヘルムートが言った。
「では、共同研究者か?」
「まだ研究をしているわけではありませんわ。報告書を読み、気になった点を申し上げただけです。それをヘルムート様が調べていらっしゃるので、話が続いておりますけれど、正式に何かを任されたわけでも、結果へ責任を持てるだけの資料を見たわけでもありません。ですから共同研究者と呼ばれますと――」
「待て」
白髪の男性が手を上げた。
「ヘルムート」
「はい」
「それは、君が最後まで聞け」
「そのつもりです」
「私は先に向こうを見る」
「賢明です」
男性は笑いながら去っていった。
「失礼な方ですわね」
「学術院長です」
あれが、と私は驚く。
「先におっしゃってくださいませ」
「聞かれませんでしたから」
「……紹介なさるのが普通でしょう」
「途中で行ってしまったので」
「あなたが追い払ったのでしょう?」
「最後まで聞けと言われたので、あなたの話を優先しました」
「そこで素直にならなくても結構です」
地図を見直すと、古い水路の一部には、青い線が二重に引かれていた。
「これは?」
「後から付け足した支線です」
「本流より新しいのですね」
「三十年ほど」
「でも、今の計画では使わないことになっていますわ」
「幅が狭いからです」
「広げることは?」
「周囲に家が建っています」
「水路を埋めたのではなく、残したまま家を建てたの?」
「生活用水として使われています」
少し考える。
「なら、新しい本流を農地へ引き、こちらは今のまま残す必要がありますわね。工事で水量が変われば、暮らしている方が困ります」
「その話は報告にありません」
「生活用水として使われていることも?」
「書かれていない」
「現地を見ていないのですか」
「調査団は見ているはずです」
「見たことと、計画へ入れたことは別ですわ」
彼は手帳を出したが、今度は止めなかった。
「現地へ行く必要があります」
「あなたが?」
「あなたも来ますか?」
「今のお話だけで、すぐ行くとは申し上げられません。距離、日程、宿泊場所、同行する方、現地でわたくしが何をするのか。そこを確認せずに承知すれば、後から困るでしょう」
「では、確認できれば?」
「その時に考えます」
「分かりました」
「今、少し残念そうになさいました?」
「いいえ」
「なさいましたわ」
「話を畳まれるよりはよいと思っています」




