第十二話 理由がわからないのは私だけ
資料室を出たあと、学術院の食堂で昼食を取った。
長い木のテーブルが並び、研究官たちが資料を読みながらスープを飲んでいる。
「食事中くらい、紙を置けばよろしいのに」
「彼らには、食事の時間しか読む暇がないのでしょう」
「でしたら、働き方を変えるべきですわ。一日中考える仕事ほど、休まなければ判断が鈍ります。読み違いが一つあれば、直すためにさらに時間を使うでしょう」
「あなたも食事中に話しています」
「わたくしは紙を読んでおりません」
「話しながらスープが冷めています」
皿を見ると、確かに、湯気が消えかけていた。
「……いただきます」
「どうぞ」
ヘルムートは先にパンをちぎった。
私たちはしばらく黙って食べる。すると向かいから、何度かこちらを見ている者がいた。
「皆様、ヘルムート様が女性を連れていることを珍しがっているのでは?」
「そうかもしれません」
「これまで、どなたもお連れにならなかったの?」
「仕事場ですから」
「でも、今日は、わたくしをお連れになりましたわ」
「あなたは地図を見たがっていたから」
「ほかの方は?」
「舞踏会や音楽会を好む方が多かった。古い水路図を見るために一日空ける方はいませんでした」
「それで、縁談を断られてきたのですか」
「私が断ったこともあります」
「どうして?」
「話すことがなかったので」
「何も?」
「何を話しても、最後には『難しいことは分かりませんけれど、立派なお仕事ですわね』で終わりました」
「その方々は、あなたのお仕事を尊重しようとなさったのでしょう」
「そうでしょうね」
パンを置き、こちらを見る。
「しかし私は、立派だと言ってほしいわけではありません。間違っているなら、どこが間違っているか聞きたい」
「毎日の食卓でまで?」
「毎日でなくてもいい」
「疲れて帰った日にも?」
「その日は休みます」
「話したいことがあっても?」
「翌日にすればいいでしょう」
「忘れたら?」
「書いておきます」
「わたくしが忘れた場合は?」
「思い出した時に話してください」
あまりに普通に返される。
「話したい時に、いつでも話してよいと?」
「私が眠っている時以外なら」
「夜中は駄目ですのね」
「普通は駄目でしょう」
「そこは普通なのですね」
「私を何だと思っています?」
「門扉」
「妹君の言葉でしょう」
笑ってから、冷めかけたスープを飲んだ。
*
帰りの馬車では、ヘルムートは用意していた二つの話をした。
一つは、地方官の親族が持つ土地について。もう一つは、フラクタル領の職業訓練を見学したいという申し入れだった。
どちらも学術院で話せば済む内容だった。けれど彼は、行きの馬車では約束どおり鞄を開かなかった。
「ヘルムート様」
「何です?」
「今日は楽しかったですわ」
「私もです」
「地図を見られたから?」
「それもあります」
「ほかには?」
「あなたと話せたからです」
前回と同じ答えだった。だが今度は、返事に困りはしなかった。
「わたくしも、あなたと話せたから楽しかったのだと思います」
「思います?」
「まだ二度目ですもの。断定するには早いですわ」
「今日は三度目です」
「最初のお見合いと、二度目の訪問と、今日?」
「はい」
「数えていらしたの?」
「数えるでしょう」
「普通は?」
「知りません」
「そこは普通ではないのですね」
馬車がフラクタル家の門を通る。玄関には、母とチェリーだけでなく、父とレニーまで出ていた。
「皆様、どうなさったのです?」
「たまたまだ」
父が答えた。
「四人そろって玄関にいることが?」
「そろそろ帰る時刻だと思ったのよ」
母の横で、チェリーがヘルムートの持つ鞄を見た。
「また増えてる」
「帰りに資料を借りました」
「コッティの話も増えた?」
「三つほど」
「二つですわ。三つ目は、まだ決まっておりません」
「現地調査の話です」
「それを数に入れないでくださいませ」
「話したことには違いない」
「行くと決めていないでしょう」
「だから次に話します」
父が私とヘルムートを交互に見た。
「中へ入って続けるか?」
「今日は帰ります」
彼はあっさりとそう答えた。
「アプリコット嬢も疲れているでしょう」
「そこまで疲れておりませんわ」
「母君から、お茶を飲ませるよう頼まれました。今日だけで四杯飲んでいます」
「数えていらしたの?」
「数えるでしょう」
……また同じことを言う。
*
ヘルムートが帰ったあと、母は私を居間へ連れていった。
「どうでした?」
「古い地図はとても興味深かったですわ。ただ、現在の計画へ使うには確認が足りません。昔と今では村の位置も変わっていますし、生活用水に使われている支線が報告から抜けていて――」
「ヘルムート様のことです」
「お話ししましたでしょう?」
「水路のお話しか聞いていません」
「ですから、その水路のお話を一日していたのです」
母が父を見る。父は新聞を広げたまま、口元だけを動かした。
「お母様?」
「何でもありません」
「先ほどから皆様、妙ですわよ」
チェリーが長椅子へ腰を下ろす。
「コッティ。ヘルムート様と話している時、自分の話が長いかどうか、一度でも気にした?」
「気にしましたわ」
「それで?」
「長いと言われました」
「何て答えたの?」
「長くて結構だとおっしゃったのは、そちらでしょう、と」
「それでヘルムート様は?」
「長いことと、聞きたくないことは別だそうですわ」
母が、父の新聞をそっと下げた。
「あなた」
「聞こえている」
「《《話が通じております》》のね」
母の言葉に、何と答えるべきか考える。
「意見は、かなり合いませんわよ」
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味ですの?」
母は少し笑った。
「その説明は、もう少しあとでいいでしょう」
「なぜです?」
「あなた自身が考えたほうが、話が早いからです」
「それでは、余計に長くなりますわ」
「でしょうね」
家族が皆、笑い始めた。
理由が分からないのは、私だけだった。




