第十三話 キャサディの婚約
キャサディの婚約が決まったという知らせは、学術院へ出かけた三日後に届いた。
相手はベルチェスター伯爵家の次男、エドガー・ベルチェスター。以前から何度か顔を合わせていた男性で、現在は伯爵領の裁判所で働いているという。
手紙には、婚約式をひと月後に行い、その後できるだけ早く結婚したいと書かれていた。
「早いわね」
母が便箋を私へ戻す。
「お相手とは以前から話があったのでしょう?」
「ええ。でも、今年の秋頃まで、ゆっくり考えるつもりだったそうですわ」
「今はまだ春先よ」
チェリーが数えた。
「半年近く早めたのね」
「ひと月で婚約式、その後すぐに結婚となりますと、衣装も支度も大変ですわ。先方の家に失礼がないよう、必要なものを確かめなくては。キャサディは持ち物を自分で整理するでしょうけれど、正式な贈答品と日用品は分けたほうが――」
「手伝いに行くの?」
母に尋ねられ、私は手紙の最後を示した。
「来てほしいと書かれておりますわ」
「オルスタイン家へ?」
「嫌なら、外で会ってもよいそうです。でも、できれば自分の部屋を見てほしいと」
「大丈夫?」
母がやや不安げに問いかける。
婚約を解消してから、まだ十日ほどしかたっていない。オルスタイン家へ足を運ぶことに抵抗がないとは言えなかった。
ただ、キャサディがわざわざ部屋を見てほしいと書いたのなら、何か理由がある。
「行ってまいります」
「では、誰かつけましょう」
「わたくしも行く!」
チェリーが立ち上がる。
「あなたは関係ないでしょう」
「あるわよ。キャサディ様は私にもよくしてくださいましたもの。それに、お姉様一人で行ったら、また何か見つけて長く話して、その間に帰りが遅くなるでしょう」
「人を迷子の子供のようにおっしゃらないで」
「話の中で迷子になるでしょう?」
「なりませんわ。道筋が増えるだけです」
「それを迷子と言うのよ」
結局、チェリーも同行することになった。
*
オルスタイン家の玄関へ着くと、出迎えたのは家令だった。
以前なら侯爵夫人が自ら顔を出すこともあったが、今日は姿がない。
「キャサディ様がお部屋でお待ちです」
「侯爵夫人へご挨拶を」
「奥様は、リーフェル伯爵夫人とお茶を召し上がっております」
どうやら、アザリアの母親が来ているらしい。
「では、お帰りの前にご挨拶だけいたしますわ」
廊下は以前と変わらない。
壁に掛けられた風景画も、窓辺の花台も、幼い頃から何度も見たものだ。
けれど、かつては自分もこの家の一員になると思って歩いていた。そこを今は客として通る。
「コッティ」
チェリーが小さな声で呼んだ。
「何?」
「ねえ、大丈夫?」
「何がですの?」
「ならいいわ」
「途中で止めないでくださいませ。何を心配したのです?」
「やっぱり大丈夫そう」
「だから、何が――」
キャサディの部屋の扉が開いた。
「コッティ様。チェリアル様」
キャサディが駆け寄る。以前より落ち着いた色のドレスを着て、髪も簡単にまとめている。
「急にお願いして申し訳ありません」
「おめでたいお話ですもの。いくらでもお手伝いしますわ」
「ありがとう存じます」
「私もいるわよ」
「もちろんです。チェリアル様には、持っていくドレスを見ていただきたくて」
「任せて。コッティに任せると、丈夫か、用途に合っているか、先方の家で浮かないかの順で選ぶから」
「必要なことでしょう」
「花嫁が可愛く見えるかが抜けてるのよ」
「それは仕立屋に任せればよいのでは?」
「ほらね」
キャサディが笑った。
部屋の中には、すでに大小いくつもの箱が並んでいた。
衣装棚の扉は開き、机の上では侍女が手紙を分けている。壁から外された絵の跡だけが、周囲より明るく残っていた。
「もう、これほど進めていらしたの?」
「家を出ると決めてから、毎日少しずつ」
「婚約が正式に決まる前から?」
「……はい」
キャサディは机の引き出しを開ける。中はほとんど空だった。
「《《大切なもの》》は、すでにベルチェスター家へ預かっていただいています」
「ご婚約前に?」
「エドガー様へ事情をお話ししました」
キャサディは少し迷ってから続けた。
「アザリア嬢のことを、すべてではありませんけれど。私が落ち着いて準備できるよう、家の者にも見せたくない品だけ先に預かると言ってくださいました」
「話を信じてくださったのですね?」
「証拠がなければ信じないという方ではありませんでした。でも、私が書いた手帳も見てくださいました」
「あれを?」
思い出して驚く。
「いえ、コッティ様へお渡ししたものとは別です。自分のために、もう一冊書いていたんです」
「まあ」
「コッティ様なら、一冊だけで済ませないと思いましたから」
「あなた、わたくしを何だと思っていらっしゃるの?」
「念のため、を三回する方です」
「……否定しにくいですわね」
チェリーは衣装棚をのぞき込み、薄桃色のドレスを引き出した。
「これは持っていく?」
「ええ。それはコッティ様と一緒に選んだものですから」
「なら箱はこちらね」
床の箱には、それぞれ札がつけられている。
――ベルチェスター家へ運ぶもの。
――処分するもの。
――実家へ残すもの。
実家へ残す箱は、一つしかなかった。
「これだけ?」
「家族の肖像と、子供の頃の本です」
「本当に残してよろしいのですか」
「ええ、この肖像なら、なくなっても困りません。本も、もう読みませんし」
声は穏やかだった。
怒って投げ捨てるのではなく、持っていく必要がないと決めたようだ。
「ご両親は、早く嫁ぐことへ何と?」
「母は喜んでいます。兄の結婚が決まったことで、私も自分の将来を考え始めたのだと思っていて」
「違う、と説明しなかったの?」
チェリーが尋ねる。
「しました。でも、私はコッティ様が義姉にならなくて寂しいのだと言われました」
「……それもあるでしょうけれど」
「ええ。でも、それだけではありません」
キャサディは窓際の刺繍台へ歩いた。磨いた木の枠へ、小さな果実の模様が彫られている。
「これは、今日中に運び出します」
「大きいですけれど、ベルチェスター家に置けますの?」
「エドガー様が、私のための部屋を整えてくださっています」
「まあ」
「刺繍をするなら、窓の向きも確認したほうがいいだろうと。午後の日差しが強すぎない部屋を選んでくださいました」
「よい方ですわね」
「はい」
キャサディが、少し照れたように笑う。
「あの方と一緒にいると、安心します。私が何かを怖いと言った時に、まず怖がりすぎだとは言わない方です」
「何があったか尋ねてくださる?」
「はい。それから、自分にも同じものが見えるか確かめます。見えなくても、私が嘘をついているとは考えません」
「うん。その人はいい」
チェリーが断言した。
「まだお会いしてもいないでしょう」
「キャサディ様の顔で分かるもの」
「顔だけで結婚相手を判断してはいけませんわ」
「コッティは話の長さで判断してるでしょう?」
「しておりません」
「門扉様と、ずっと話してるじゃない」
「ヘルムート様です」
「知ってるわよ」
キャサディが口元を押さえている。
「笑わないでくださいませ」
「申し訳ありません。でも、ヘルムート様とお話が続いていると伺って、安心しました」
「なぜ皆様、同じようにおっしゃるの?」
「コッティ様が、ご自分の話を途中で片づけなくてもよい方なのでしょう?」
「ときどき、片づけてほしいとは言われますわ」
「それは言葉どおり、本当に片づけてほしい時だけでしょう」
「……そうですわね」
ジョナサンは、話が長いと言った。ヘルムートも、長いと言う。
だけど同じ言葉でも、その後が違う。
ジョナサンは長いからやめてほしい、で終わってしまう。
ヘルムートは長いと指摘したうえで、続きを待つ。話が聞けない日には、今日は無理だと言う。
その違いを、私はまだうまく言葉にできていなかった。
そんな中、廊下から足音が近づき、やがて扉が軽く叩かれる。
「キャサディ様。アザリア・リーフェル様がお見えです」
キャサディの笑顔が消えた。




