第八話 長くなりますので
「次の釣り書きをお願いいたします」
そう言った翌日の午後、父は本当に釣り書きを持ってきた。
「お父様、さすがに早くありません?」
「お前が頼んだのだろう」
「頼みましたけれど、昨日の今日でございますわよ。普通はもう少し、先方へ問い合わせたり、家同士の事情を確かめたりするものではありませんの?」
「これは以前から来ていたものだ」
父が、厚手の封筒をテーブルへ置く。
「以前から?」
「お前にはジョナサン殿がいたから、断っていた。先方も承知のうえで、一度話をしてみたいと言っていた縁だ」
封筒の表には、ナイヤガラ侯爵家の紋章があった。
「ナイヤガラ侯爵家……」
「次男のヘルムート殿。二十六歳。王立学術院で農地と水利について研究している」
「学者ですの?」
「本人は研究官と名乗っているそうだ」
「その違いは何です?」
「会って聞け」
父はそれ以上説明する気がないらしい。釣り書きを開く。
――ヘルムート・ナイヤガラ。
――年齢、家族構成、学歴、現在の職務。領地を継ぐ予定はなく、王都に邸を持ち、学術院と侯爵領を行き来している。
――華やかな社交歴は少ない。
――音楽会や舞踏会への出席も必要最低限。
趣味の欄には、古地図の収集とあった。
「……ずいぶん堅そうな方ですわね」
「名前からして堅いもの」
向かいで釣り書きをのぞいていたチェリーが言った。
「ヘルムート・ナイヤガラ。門扉みたい」
「人のお名前を建具に例えないの」
母がたしなめる。
「でも、ジョナサンより丈夫そう」
「名前で夫を選んではいけませんわ、チェリー」
「コッティだって、いかめしいと思ったでしょう?」
「思いましたけれど、口には出しておりません」
「今、出したわよ」
父が咳払いをした。
「ナイヤガラ侯爵からは、婚約解消の正式発表が済んでからで構わないと言われている。だが、見合いではなく、まず話だけでもということなら、明後日に来られるそうだ」
「明後日?」
「早すぎるなら断るが?」
釣り書きをもう一度見る。
婚約を解消したばかりで、すぐに次の男性と会うなんて、世間から見れば、節操がないと思う者もいるかもしれない。
けれどジョナサンは、すでに次の婚約へ向けてひと月も動いていた。
だったら私だけが、失った時間の長さを競う必要はない。
「お会いしますわ」
「いいの?」
母が尋ねる。
「お話しするだけでしょう? 結婚を決めるわけではありませんもの。それに、わたくしが頼んだのです。次の釣り書きを、と」
「昨日のあれは、勢いで言ったのかと思っていた」
「勢いはありましたけれど、考えなしではありませんわ」
「コッティの勢いは、普通の人の熟考と同じくらい長いものね」
チェリーが言う。
「褒めております?」
「半分くらい」
*
翌々日の午後、ヘルムート・ナイヤガラは約束の時刻より五分早くフラクタル家へ到着した。
背が高い。肩幅もある。
濃い茶色の髪は短く整えられ、服装は上等だが飾り気がない。侯爵家の次男というより、学術院の石造りの廊下から、そのまま歩いてきたような人だった。
応接室へ入ると、彼は父と母へ挨拶し、私へ向き直った。
「アプリコット嬢。ヘルムート・ナイヤガラです」
「アプリコット・フラクタルです。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、急な申し入れを受けていただき感謝します」
声も低く、愛想はあまりない。ただ、こちらを品定めするような目もなかった。
席につき、最初は家族を交えて当たり障りのない話をする。
学術院での仕事――ナイヤガラ侯爵領の冬――フラクタル家が支援している学校。
ヘルムートは必要なことを必要なだけ話す。短いが、そっけなくはない。
やがて父が立ち上がった。
「若い二人で話す時間も必要だろう」
「お父様」
「隣の部屋にいる」
「扉は開けておきますわよ」
母も続く。
チェリーは残りたそうにしていたが、母に肩を押されて出ていった。
扉は少し開いている。隣室から、チェリーが母に小声で何かを言い、たしなめられる声が聞こえた。
「妹君は、私を見て何かおっしゃっていましたが」
「……気にしないでくださいませ」
「門扉に似ている、と聞こえました」
「……聞こえておりましたのね」
「あれだけ静かな部屋なら」
「申し訳ありません」
「門扉に似ていると言われたのは初めてです。堅物や石像なら何度か」
少しだけ、口元が動いた。冗談だったらしい。
私も笑った。
「では、妹には新しい比喩を生み出したと伝えておきますわ」
「褒めると増えませんか?」
「増えますわね。黙っておきましょう」
そこで最初の話が切れ、私はカップを持ち上げる。彼も茶を飲み、テーブルへ戻した。
「婚約解消については、父から聞いています」
「そうですのね」
「詳しい事情を聞くつもりはありません。あなたが話したいなら聞きますが」
「では、今は結構ですわ。何をされたか説明し始めると、その前にどういう約束をしていたのか、なぜそれが問題なのか、家同士の取り決めがどのようになっていたのかまで必要になりますし、そこまで申し上げた以上は、オルスタイン家とリーフェル家がどこで話を進めていたのかも省けませんもの。初対面の方へ一度にお話しするには長すぎますわ」
「そうですか」
ヘルムートはそれだけ言った。止めも、続きを促しもしない。
私が次に何を話すべきか考えていると、彼はテーブルの端に置かれた冊子を見た。
「おや、それは南部水路の調査報告ですか?」
「ええ。兄が持ってきたものです。ナイヤガラ様のお仕事にも近いのでは?」
「近いですね。読まれましたか?」
「まだ半分ほどですわ。ただ、最初に立てている前提が少しおかしいと思いました」
「どこが?」
訊かれて、冊子を手に取る。
「この報告では、水路を延ばせば耕作地が増え、収穫量もそのまま増えるとしていますでしょう。でも、南部は人手が足りません。土地だけ増やしても耕す者がいなければ、既存の畑から人を移すことになります。そうなれば全体の収穫量は大きく変わりませんし、新しい水路の維持費だけが増えます。それに、ここでは乾季の水量を昨年の記録だけで見ていますけれど、昨年は例年より雨が多く――」
そこまで話して、口を閉じた。
「どうしました」
「……長くなりますので」




