エピローグ 満足しております
海を渡ってから、最初の手紙が届いたのは二か月ほど経った頃だった。
新しい土地での暮らしは、思っていた以上に忙しい。
研究所から借りた家は十分な広さがあったものの、台所の造りも水の使い方も故郷とは違い、乳母と二人で戸棚を開けては何をどこへ置くのが一番よいか相談するところから始まった。
ヘルムートは到着して三日目には水路を見に出かけ、アプリコットも一週間後には市場と周辺の農家を回っている。
子供だけは、どこへ来てもあまり変わらなかった。
夜中には泣き、気に入った匙を落としては拾わせ、最近は窓から見える鳥を指さして何か言おうとしている。言葉になるのはもう少し先だろうが、本人には十分伝わっているつもりらしい。
その日の午後も、アプリコットは市場で聞いた話を整理していた。
現地では乾季になると、家の近くの井戸より川沿いの共同水場を使う家が増えるという。理由を尋ねると、水量の問題だけではなく、家畜を連れていく都合や、そこで他の家から情報を聞けることも大きいらしい。
――水場は、水だけの場所ではない。
その一文を書き足したところで、侍女が二通の手紙を持ってきた。
「本国からでございます」
一通は、見慣れたフラクタル家経由の封。もう一通を見て、アプリコットは手を止めた。
オルスタイン家の封蝋だった。
「珍しいな」
向かいで地図を読んでいたヘルムートも気づいた。
「ええ」
差出人を見ると、ジョナサンだった。
アプリコットは少し迷い、先にそちらを開いた。
手紙は、以前のジョナサンからは考えられないほど長かった。
――突然の手紙を許してほしい。
――まず、港でのことを謝りたい。
――君の出発の日に、あんな形で迷惑をかけた。
そこまでは、予想できたが、続きは少し違った。
――あの日、僕は初めて、君やキャサディが何を怖がっていたのか分かった気がする。
――それまで僕は、アザリアが君の服を真似ること、言葉を真似ること、仕事や暮らしまで追うことを一つずつ説明しようとしていた。
――けれど本当に怖かったのは、一つ一つの行動ではなかったのだと思う。
アプリコットはそこで、少し読む速度を落とした。
――君がいなくなったら何を見ればいいのかと泣くアザリアを見て、僕にもやっと分かった。
――彼女はずっと、自分の代わりに誰かを見て生きていた。
――それを君に押しつけていたことにも、僕は気づいていなかった。
――それどころか、自分で考えるべきことを君へ持っていき、君なら分かるだろう、君なら説明できるだろうと、また同じことをしようとした。
――あの時はすまなかった。
以前ナイヤガラ家へ一人で来た時のことだ。アザリアへ説明してくれないか、と頼まれた。
断ったことを、アプリコットは後悔していない。
けれど、ジョナサン自身があの出来事をどう見直したのかを知るのは、少し意外だった。
手紙は、さらに続いていた。
――港から戻ったあと、アザリアはしばらくまともに立てなかった。
――泣き疲れて眠っても、目を覚ますと床へ座り込み、何をすればいいのか分からないと言った。
――食事も最初はほとんど取らず、侍女が服を選ぼうとすると、自分で選ばなければならないと泣くこともあった。
――両親とリーフェル家にも事情を話し、今は医師にも来てもらっている。
そこから先は、少しずつ回復しているらしい。
庭へ出るようになったし、食事も取る。
侍女と相談しながら、自分で服を選ぶ日もある。
まだアプリコットについて尋ねることはあるものの、以前のように新聞を探し回ることはなくなり、ジョナサンも答えを教えるのではなく、なぜ知りたいのかを聞くようにしているという。
――僕はずっと、アザリアと話が通じないと思っていた。
――たぶん、それ自体は間違っていなかった。
――ただ、僕も話が通じるようにするための面倒を、ずっと誰かに任せようとしていた。
――父や母に分からせてもらおうとし、最後には君にまで頼った。
――今度は逃げずに、彼女が何を考えているのか、自分で聞いてみようと思う。
最後には、
――うまくいくかは分からない。
――離婚を考えなくなった、とまで言うつもりもない。
――ただ、今すぐ答えを出すのはやめた。
――まず、僕自身が妻と向き合ってみる。
とあった。
アプリコットはそこまで読み、手紙を膝の上へ置いた。
「ずいぶん長かったな」
「ええ」
「珍しい」
「わたくしもそう思いました」
ヘルムートが少し笑う。
「返事は?」
「あとで考えますわ」
「またあとでか」
「急ぐ内容ではございませんもの」
以前なら、その場で何を書き返すか考え始めていたかもしれない。
今は、もう一通ある。こちらはキャサディからだった。
封を開くと、最初の数行は旅先の暮らしについての質問だった。
――子供は船酔いしなかったか。
――エドガーの靴は使えそうか。
――現地のお菓子は本当に甘いのか。
そのあとに、オルスタイン家のことが書かれていた。
――お兄様からもお手紙が届いていると思います。
――あの日以来、お兄様はずいぶん変わりました。
――少なくとも、誰かに「何とかしてくれ」と言う前に、自分でアザリア様と話すようにはなったようです。
キャサディらしい書き方だった。
――アザリア様については、わたくしも今は以前ほど怖いとは思っておりません。
――あの方が何をしていたのか、ようやく皆様の前ではっきりしたからだと思います。
そこから少し文字が詰まっている。
――でも、お父様とお母様については、まだ許せません。
――お母様から「あなたが言っていたことがやっと分かった」と謝られはしました。
――それでも、わたくしが家を出るまで何度も言ったことまで、なかったことにはできません。
アプリコットはそこで一度、手を止めた。
――ですから、今まで通りにいたします。
――たまに顔を出しますし、お茶も飲みます。
――でも、泊まりませんし、困った時に頼る家にも戻しません。
――わたくしにはエドガーとの家がありますので、それで十分です。
最後には、
――コッティ様も、そちらでお元気で。
――帰ってきたら、今度こそたくさん話を聞かせてくださいませ。
――旦那様の話は少しで結構です。
と書かれていた。
アプリコットは思わず笑った。
「何だ?」
「キャサディ様ですわ」
二通を重ねて、机の端へ置く。
遠く離れた故郷では、あの日の続きがまだ進んでいる。
ジョナサンは初めて、自分で妻と話そうとし、アザリアは、自分で何かを選ぶことを覚え始めた。
キャサディは両親との距離を、自分で決めたまま暮らしている。
誰も、すぐに綺麗な答えへ着いたわけではない。
それでよいのだろう、とアプリコットは思った。
「あなた」
「何だ」
「少し、お話ししてもよろしくて?」
ヘルムートは読んでいた地図を畳んだ。
「珍しい聞き方だな」
「そうです?」
「普段はもう話し始めている」
「では、話しますわ」
アプリコットは椅子を少し彼のほうへ向けた。
「わたくし、ずっと不思議だったのです」
「何が」
「アザリア様のことが」
あれほど自分を真似して、最後には婚約者まで奪った。
最初は腹も立ったし、理解できないとも思った。
けれど港で、アザリアが「何を見ればよいのか」と泣いた時、ようやく少し分かった気もした。
「わたくしは、自分で決めることを当然だと思っておりました」
服も、仕事も、誰と話すかも、何を断るかも。
もちろん家族へ相談したことはある。ヘルムートと話して決めることも増えた。
それでも最後には、自分が納得しなければ動かなかった。
「アザリア様には、それが難しかったのでしょうね」
「たぶんな」
「ジョナサン様は、面倒だったのでしょう」
「それも、たぶんな」
「わたくしも、ずいぶん面倒だったと思いますけれど」
ヘルムートがこちらを見る。
「今さら気づいたのか」
「失礼ですこと」
「長い」
「あなたが長くて結構だとおっしゃったのですわよ」
「言ったな」
その返事に、少し笑った。
最初に会った頃は、こんな話まで続くとは思わなかった。
「それで?」
「何です?」
「話が途中だろう」
そうだった。
以前なら、一度で最後まで説明しなければならないと思ったかもしれない。
今は相手が覚えている。途中で止まっても、続きを聞いてくれる。
「今回のことで、少し考えたのです」
「うん」
「わたくしは今、幸せなのかしら、と」
ヘルムートの眉が少し上がった。
「それはまた、大きな話になったな」
「大きいでしょう?」
「で、結論は?」
アプリコットは部屋を見回した。
机の上には、今日整理した市場の記録があるし、窓の外では乳母と子供が庭を歩いている。
洗ったばかりの小さな帽子が、その向こうで風に揺れていた。
故郷から届いた手紙が二通。海の向こうまで持ってきた仕事。
途中までの話を、続きを聞いてくれる夫。
帰る場所もあるし、今いる場所も、自分で選んだ。
「満足しておりますわ」
ヘルムートが少し笑う。
「幸せかと聞いたんじゃなかったのか」
「わたくしには、こちらのほうがしっくりまいります」
「そうか」
「あなたは?」
今度はヘルムートが窓の外を見た。
庭では子供が何かを拾おうとして、乳母に止められている。
「満足している」
「それなら結構ですわ」
アプリコットは二通の手紙を畳み、返事を書くための箱へ入れた。
「さて」
「今度は何だ」
「朝の話です。共同水場について、もう一つ気づいたことがございまして」
「手紙の返事は?」
「あとで書きます」
「チェリアル嬢に怒られるぞ」
「仕事の話ばかり書かなければ大丈夫ですわ」
アプリコットは今日の記録を開いた。
市場から水場までの道――家畜の動き――乾季に人が集まる時間。
まだ分からないことが、いくつも残っている。
「では、聞こう」
ヘルムートは椅子を引き寄せ、アプリコットは最初の頁を開いた。
END




