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私になりたい令嬢に婚約者を奪われましたので、話の通じる方と幸せになります。  作者: さんけい


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第三十五話 行かないでください

 出航の日、港は朝から騒がしかった。


 研究所の荷は前日までに積み込まれていたが、家族三人で数年暮らすとなれば、それだけでは済まない。

 衣類の箱、子供用品、乳母の荷物、途中で使う寝具。最後まで残していた手荷物だけでも、ナイヤガラ家の使用人が何度か船と桟橋を往復している。


「だから申し上げたでしょう。子供の着替えは予定の倍ですのよ」


 キャサディが得意げに言い、アプリコットは抱えていた小さな鞄を見た。


「倍にしましたわ」

「本当に?」

「あなたからいただいた帳面の通りに」

「なら安心ですわ」


 その隣で、エドガーが何か言いたそうにしている。


「靴も入っておりますわよ」


 先回りすると、少しだけ満足そうになる。

 結局、三足目まで贈られた。最後の一足は、二年ほど先に履けそうな大きさである。


「二年後ならさすがに使えると思うんですが」

「その頃には現地で買いますわよ」


 エドガーが黙った。


「コッティ姉様、そこは黙って持っていってあげなさいよ」


 横からチェリアルが笑う。


「せっかく考えたんだから」

「持っていきますわ。使えるかどうかは別です」

「そこまで言う?」


 チェリアル――家族の中では今もチェリーと呼ばれている妹は、朝から妙に機嫌がよかった。

 寂しくないわけではないらしい。

 先ほどからアプリコットの母と一緒になって、向こうで必要になるものを追加しようとしては、もう船へ積めないと止められている。それでも少しすると別のものを思い出し、今度は乳母の鞄を覗いている。


「姉様、胃薬は?」

「あります」

「熱が出た時の薬」

「ありますってば」

「虫刺され」

「チェリー?」

「だって、向こうの虫がどんなのか分からないじゃない!」

「それはわたくしにも分かりませんわ」


 兄のレイノルドが横で笑い、父はその騒ぎを眺めながら、もう一度荷の数を確かめていた。

 長姉のアプフェルも夫とともに来ている。出産後のアプリコットへ何度も子供用品を送ってきた姉らしく、今日は旅先の家で使えるようにと、嵩張らない布類をまとめて持ってきていた。


「足りなければ向こうで買えばいいのよ」


 アプフェルが母へ言う。


「三年分をここから持っていこうとするから大変になるの」

「分かっているわよ。でも、小さい子がいるのよ」

「向こうにも小さい子はおりますわ、お母様」


 母は納得したような、していないような顔で孫を抱き直した。

 ナイヤガラ侯爵夫人も、その子供をいつ渡してもらえるのかと近くで待っている。


「そろそろ、こちらへ」

「先ほどから抱いていらしたでしょう」

「フラクタル夫人は今来たばかりですもの」

「わたくしは祖母ですわ」

「わたくしもです」


 アプリコットは二人を見比べた。


「出航までに交代でお願いします」

「時間を半分に?」

「そこまで細かく決めませんわよ」


 ヘルムートが隣で肩を揺らした。


「君が言うと、本当に時間を測りそうだ」

「測りません」

「昔なら測っただろう」

「昔の話です」


 研究所の人間から声をかけられ、ヘルムートがいったん船側へ向かう。

 アプリコットはその背中を見送り、次に父から渡された小箱を受け取った。


「向こうで困った時に使いなさい」

「お父様、現金ならもう」

「金だけじゃない。紹介状も入っている」

「どなたの?」

「港湾商会と、向こうに支店を持つ商家だ。使わずに済むなら、それでいい」


 父らしいものだった。


「ありがとうございます」


 今度は兄。


「手紙を書けよ」

「書きますわ」

「仕事の報告ばかり寄越すなよ」

「では何を書けば?」

「そういうところだぞ」


 チェリーがまた笑った。


「お手紙、くださいませね」


 キャサディがこちらを向く。


「ええ。あなたにも」

「お兄様の話など書かなくて結構ですから」

「そもそも知りませんわ」

「それもそうですわね」


 笑ったところで、船から鐘が一度鳴った。

 まだ出航ではないが、けれど見送りに来た者たちの動きが少しずつ桟橋側へ寄っていく。

 アプリコットも母から子供を受け取ろうとした。


 その時だった。


「――コッティ様ぁ!」


 聞き覚えのある声が、港の入口から響く。

 誰より早く振り返ったのはキャサディだった。その顔を見てから、アプリコットも声のしたほうを見る。

 アザリアが走ってきていた。

 帽子はいつの間にかなくしたらしく、髪が崩れている。外出用のドレスも裾に泥がつき、片方の手袋はしていなかった。

 供もいない。馬車から降りて、そのまま走ってきたのだろう。


「コッティ様……!」


 息を切らしながら人の間を抜け、止めようとしたナイヤガラ家の使用人までかわした。


「お待ちくださいませ!」

「アザリア様?」


 アプリコットが子供を乳母へ渡すより早く、アザリアは目の前まで来た。


「……行かないでください!」


 一度目は、まだ声になっていた。


「お願いです! 行かないでくださいませ!」


 次にはもう、アプリコットの腕へ手がかかった。


「アザリア様、離してください」

「わたくし、もう真似はいたしませんから……!」


 周囲で動いていた者たちの手が止まる。


「お洋服も、自分で選んでおります。お花も、お茶も。ちゃんと、自分で決められるようになりましたの」

「ええ」

「ですから、行かないで……!」

「それと、わたくしが旅立つこととは関係ございませんわ」


 アザリアの指が、今度はアプリコットの袖を強くつかんだ。


「関係ございます!」


 声が裏返る。


「だって、三年でしょう? 三年もいらっしゃらないのでしょう? もっと長くなるかもしれないって……」


 そこまでどうやって調べたのか、誰も尋ねなかった。

 アプリコットの母が孫のほうへ寄り、ナイヤガラ侯爵夫人も同じように乳母のそばへ動く。

 父とレイノルドは、アザリアを止めるべきか迷っているらしい。

 チェリーだけが、最初から遠慮なく見ていた。


「……何なの、これ」


 小さな声。アザリアには聞こえていない。


「だって、新聞では分からないこともございますでしょう? 向こうのお洋服も、お店も、皆様がどんなものをお使いになるのかも。お子様だって大きくなりますし、あなたのお仕事も変わるかもしれませんわ」


 アザリアの口からは言葉が次々出てきて、アプリコットが返事を挟む隙もない。


「わたくし、もうご迷惑はおかけしません。近くにいてくださるだけでいいんです。お話ししてくださらなくても、同じところへ来なくても構いませんから」

「アザリア様……」

「お願いです、見ているだけでいいんです!」


 今度こそ、誰もすぐには動けなかった。

 アプリコットは、自分の袖を握っている手を見る。爪が布へ食い込み、手袋をしていない指が白くなっている。

 以前なら、そこから理由を聞いたかもしれない。

 何が不安なのか。なぜ自分でなければならないのか。何を見たいのか。

 だが、もう聞く必要はなかった。


「わたくしは、家族と参ります」

「嫌です」

「アザリア様」

「嫌です!」


 アザリアは首を振り、その勢いで髪が頬へ貼りついた。


「お願いです、コッティ様。わたくし、わたくし、一体、いったい、どうしたらいいんですか!?」


 泣き声になった。


「何を選んでも分からないんです。自分で選んだつもりでも、本当に好きなのか、誰かが好きだったからなのか分からなくて。だから練習していたんです。ちゃんとできるようになろうと思って」


 アプリコットの袖をつかんだまま、膝が折れた。


「でも、あなたがいなくなったら、合っているかどうか、どうやって分かればいいんですか」


 地面へつく寸前に、アプリコットは腕を支えた。アザリアはそのまま、今度は腰へしがみつく。


「行かないでください。お願いです。わたくしを置いていかないで」

「アザリア様」

「何を頼りにすればいいんです?」


 顔を上げる。涙で化粧が崩れ、いつもきちんと整えていた髪も服も、もう何の役にも立っていなかった。


「コッティ様がいなくなったら、わたくしは何を見ればよいのです?」


 キャサディが息を呑む。その隣でエドガーが、妻の肩へ手を置く。

 侯爵夫人は何か言いかけて、やめた。

 アプリコットの父も、母も、レイノルドも、アプフェルも、誰もアザリアへ声をかけることができなかった。

 チェリーは眉を寄せたまま、姉とその足元の女を見比べている。

 ナイヤガラ侯爵夫妻も同じだった。今まで話としてしか聞いていなかった者にも、もう説明はいらなかった。


「……アザリア様」


 アプリコットは腰に回された腕へ手をかけた。


「あなた自身のことを、わたくしを見て決めてはいけません」

「でも」

「ジョナサン様を見ても同じです」


 指を一本ずつ外す。


「お母様でも、お義母様でもありません」

「では、どうすれば」

「それは、ご自分でお決めくださいませ」


 アザリアがまた手を伸ばした。その手を取る者が、後ろから来た。


「アザリア!」


 ジョナサンだった。

 走ってきたらしく、上着の前も留めていない。

 アザリアが朝から屋敷にいないと分かり、侍女に聞き、馬車が一台なくなっていることに気づいて、ようやく行き先を察したのだろう。


「何をしているんだ!」


 そう言いながら近づき、途中で足が遅くなる。周囲の顔を見たのだ。

 自分の両親はいない。

 けれどフラクタル家も、ナイヤガラ家も、キャサディ夫妻もいる。その全員の前で、アザリアは地面に膝をつき、アプリコットへ手を伸ばしている。


「ジョナサン様……」


 アザリアは夫を見る。助けを求めたわけではなかった。それでも言う。


「コッティ様が、行ってしまいますの」

「ああ」

「止めてくださいませ」


 ジョナサンの口は開いたが、何も出てこなかった。


「お願いです。あなたからも言ってください。お友達でしょう? 昔からご存じでしょう?」

「アザリア」

「三年もいなくなるんです。もっとかもしれません。わたくし、どうしたらいいのか分からないんです」


 ジョナサンは動けなかった。

 何度説明しても伝わらなかったものが、今は目の前にある。

 服でも、新聞でも、子供でもない。

 アザリアは、《《自分の人生を決めるために、アプリコットそのものを必要としている》》。


「……そういうことだったのか」


 誰に聞かせるでもなく、ジョナサンが呟くが、アザリアは聞いていなかった。


「コッティ様」


 もう一度伸びた手を、アプリコットは取った。

 立たせようとしても、足に力が入らない。仕方なく腕を支え、ジョナサンの前まで連れていく。


「ジョナサン様」


 彼は顔を上げた。

 アプリコットはアザリアの手を、夫の腕へ置く。


「奥様をお願いいたします」


 それだけだった。

 ジョナサンは反射的にアザリアを支えた。体重を預けられ、よろめきながらも抱き留める。


「コッティ様……」


 アザリアは振り返ろうとするが、ジョナサンの腕が、それを支えたまま離さなかった。

 船から二度目の鐘が鳴った。


「行きましょう」


 ヘルムートが隣へ来る。


「ええ」


 アプリコットは乳母から子供を受け取った。


「コッティ姉様!」


 チェリーが駆け寄ってくる。

 先ほどまでとは違って、今度は何を言えばよいのか迷ったらしい。結局、姉の空いている腕へ抱きついた。


「手紙、ちゃんと書いてよ」

「書きますわ」

「仕事のことばっかりじゃなくて」

「レニーにも同じことを言われました」

「じゃあ絶対だからね」


 父と母、兄、アプフェル夫妻とも順に別れを告げる。

 ナイヤガラ侯爵夫人は孫の頬へ何度も口づけし、侯爵に「船が待っている」ととうとう引き離された。

 キャサディは最後に来た。


「お姉様」

「ええ」


 キャサディは少しだけ後ろを見た。

 ジョナサンがアザリアを支えている。彼女はまだこちらを見ていた。


「行ってらっしゃいませ」


 キャサディはそれだけ言った。


「行ってまいります」


 エドガーにも挨拶し、アプリコットは船へ向かった。


 *


 甲板へ出る頃には、桟橋の人々が少しずつ小さくなり始めていた。

 チェリーは両手を振っている。母も。父は片手だけ。

 レイノルドとアプフェル夫妻も、その隣にいる。

 ナイヤガラ侯爵夫人はまだ孫の名を呼んでいた。キャサディとエドガーも見える。

 その少し離れたところに、ジョナサンとアザリアがいた。

 アザリアはもう立っていて、ジョナサンが隣で腕を支えていた。

 アプリコットは一度だけそちらを見て、子供の帽子を直した。


「ずれるな、それ」


 隣に来たヘルムートが言う。


「少し大きいのですわ」

「買い直すか」

「向こうで探しましょう」


 船が港を離れていく。

 ヘルムートは手にしていた書類を開いた。


「そういえば、昨日の話が残っている」

「三つ目?」

「四つ目まで増えた」

「二つではありませんでした?」

「君が途中で反論するから増えた」


 アプリコットは少し考え、子供を抱き直した。


「では、聞きますわ」

「今から?」

「まだ時間はございますでしょう」

「ああ」


 港はもう遠い。

 海の向こうには、まだ見たことのない土地が待っていた。



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