第三十四話 いつ、お戻りになりますの
ナイヤガラ夫妻が海外へ渡るらしい。
その話をアザリアが最初に聞いたのは、新聞でも、オルスタイン家の誰かからでもなかった。
「……ナイヤガラ侯爵家の若奥様も、お子様を連れていらっしゃるそうですわ」
午後の茶会で、向かいに座った令嬢が何気なく口にしたのだ。
アザリアはカップへ砂糖を入れながら、最初は旅行の話だと思った。
「どちらへ?」
「西の海の向こうですって。ご主人のお仕事だそうよ」
「まあ」
それなら、珍しくはあるが理解できる。
アプリコットは以前からヘルムートの調査に同行している。遠方へ一緒に行くこともあるだろうし、子供が小さいなら家族で動くことだってある。
「いつ頃お戻りになるのかしら」
「さあ。二、三年は向こうだとか」
砂糖を混ぜていた匙が、カップの縁に当たった。
「……二、三年?」
「ええ。長いでしょう? 研究のためには一年を通して見なければならない土地があるそうで、それを何か所か回るとか」
「そんなに?!」
思ったより大きな声が出て、同席していた夫人がこちらを見る。
アザリアはすぐに笑った。
「ごめんなさい。驚いてしまって」
「そうよねえ。お子様まで連れてですもの」
「向こうへ住むということですの?」
「そのようですわ。最初のお住まいまで、もう決まっていると聞きました」
――住む。
その言葉で、急に旅行ではなくなった。
何か月か経てば戻ってくるのではなく、季節を越える。春に着た服も、夏に訪れた土地も、秋に選ぶものも、冬の過ごし方も、全部こちらからは見えなくなる。
「……新聞には載りますわよね」
アザリアが言うと、令嬢は少し首を傾げた。
「研究の記事なら載るのでは?」
「社交欄も?」
「外国の社交欄までは、どうでしょう」
そこで話題は、同行する研究者や船旅の話へ移っていき、アザリアはそれからほとんど口を挟まなかった。
帰りの馬車へ乗る頃には、二、三年という長さだけが頭に残っていた。
*
自室へ戻ると、まず新聞を探した。
ここ数日の分は侍女がまとめ、下の棚へ入れてある。アプリコットの記事を食堂へ置かなくなってから、アザリア自身も以前ほど目立つところでは読まなくなった。
それでも捨ててはいない。
南部水路の記事――研究所の催し――ナイヤガラ侯爵家の夜会――出産後、最初に公の場へ出た時の服。
切り抜きは箱の底へ重ねてあった。
上から順に広げると、一年ほど前のアプリコットが出てくる。
青い帽子――濃い色の外套――調査用の靴。
その次には子供を抱いている小さな挿絵。
新聞だから、何日も遅れる。記事になるのは、誰かが書く価値があると思ったことだけだ。
今までは、それで困らなかった。
比較的近くにいる。舞踏会へ行けば見かけることがある。
共通の知人から、最近何をしているのか聞けるし、新聞に載らない服でも、誰かが見ていれば話になる。
でも、海の向こうでは、そうはいかない。
「三年……」
一番新しい切り抜きを持ったまま、アザリアは椅子へ座った。
三年後のアプリコットは、今のアプリコットとは違うだろう。
子供は歩いているだろうし、仕事も変わる。
向こうで新しいものを見て、新しい服を着て、こちらでは知られていない習慣まで覚えるかもしれない。
――その間、自分は何を手本にすればよいのだろう。
そこまで考えて、アザリアは急いで切り抜きを箱へ戻した。考え方がいけない。
父にも、ジョナサンにも言われた。アプリコットを基準にするのはやめる。
最近は、それなりにできているはずだった。
緑のドレスも、自分で選んだし、赤い花も。茶だって、昨日は誰にも聞かなかった。
その一つ一つを思い出すと少し安心した。
「……大丈夫ですわ」
声にしてみる。
アプリコットが外国へ行っても、自分にはジョナサンがいる。家がある。選ぶ練習もしている。
ただ、三年という時間が妙に長く感じられる。
*
夕食のあと、アザリアはジョナサンの書斎を訪ねた。
最近は入る前に必ず侍従へ取り次いでもらう。以前のように、本人がいるからとそのまま扉を開ければ嫌がられると分かってから、そこはきちんと直した。
「少し、お話してもよろしい?」
「何だ」
ジョナサンは南部から届いた報告を読んでいた。
「ナイヤガラ様が海外へ行かれると伺いましたの」
紙をめくる手が一瞬だけ止まる。
「ああ。父から聞いた」
「ご存じでしたの?」
「研究所から正式に決まったらしいな」
「二、三年も?」
「そう聞いている」
アザリアは向かいの椅子へ座った。
「ずいぶん長いですわね」
「研究なら、そういうこともあるだろう」
「お子様も連れて?」
「家族で行くそうだ」
そこまで、すべて茶会で聞いた通りだった。
「……お止めにならないの?」
ジョナサンが報告から顔を上げ、目を大きく開けた。
「誰を?」
「コッティ様を」
言ってから気づく。しばらく口にしていなかった名前だった。
ジョナサンもそれに気づいたらしい。
「なぜ僕が止めるんだ?」
「だって、そんなに長く外国へ……」
「僕には関係ない」
あまりに簡単に返されて、アザリアは続きに詰まった。
「でも、お知り合いでしょう?」
「元婚約者だ」
「だからこそ……」
「だからこそ、何だ?」
声が少し強くなる。アザリアは膝の上で指を組み直した。
「……ご家族も、お友達も寂しいでしょうし」
「それでも本人が行くと決めたんだろう」
「お子様も小さいですわ」
「それも夫婦で決めたはずだ」
何を言っても止める理由にならない。
分かってはいた。アプリコットは今やナイヤガラ侯爵家の人間で、ヘルムートと子供と暮らしている。どこへ住むかを決めるのも、ジョナサンではない。
「いつ戻るか、聞いていただけません?」
「自分で聞けばいいだろう」
「わたくしが?」
顔を上げる。その選択肢を考えていなかった。
「知りたいんだろう?」
「……でも、コッティ様はわたくしからの手紙を迷惑に思うかもしれませんわ」
「なら、聞かなくていい」
ジョナサンは報告へ戻った。話は終わったつもりらしい。
「ジョナサン様」
「まだ何か?」
アザリアはしばらく迷った。
「三年経ったら、戻っていらっしゃると思います?」
「知らない」
「予定より早くなることは?」
「僕に聞くな」
「では、延びることもあるの?」
今度はジョナサンが報告を机へ置いた。
「あるんじゃないか? 研究なんだから」
その答えだけは、聞きたくなかった。
「そんな……」
「君には関係ないだろう」
以前なら、その言葉に反発したかもしれない。
今日は、なぜ関係ないと言われるのかも分かっている。
アザリアは自分の家へ戻り、アプリコットを見るのをやめるよう言われた。だから最近は見ないようにしている。
それなのに、いなくなると聞いた途端、ここへ来た。聞きたくなった。
「……そうですわね」
どうにかそれだけ返し、立ち上がった。
扉へ向かいかけたところで、ジョナサンが呼び止める。
「アザリア」
「はい?」
「君は最近、うまくやっていたじゃないか」
アザリアは振り返った。
「何がですの?」
「コッティのことを言わなくなった。自分で選ぶようにもなっただろう」
「ええ」
「なら、そのままでいればいい」
ジョナサンに悪気はない。むしろ励ますつもりだったのだろう。
アザリアも、そう受け取るべきだと思った。
「そうですわね」
今度は少し笑えた。
「わたくし、ずいぶん上手になりましたもの」
「ああ」
「大丈夫ですわ」
そう言って、書斎を出た。
*
翌日、仕立屋が新しい布見本を持ってきた。春の終わりに頼んでいたものだ。
薄い桃色――深い青――生成り――淡い紫。
「今回は、どれになさいます?」
仕立屋が尋ねる。
アザリアは四つを順に見た。
昨日までなら、誰が何色を好んでいたかを思い出していただろう。
今日は、何も考えずに一枚へ手を伸ばしてみた。
淡い紫。
「こちらにいたしますわ」
「まあ、素敵です。奥様は紫もよくお似合いになりますよ」
「ありがとう」
思ったより簡単に決まった。嬉しくなって、アザリアは自室の帳面を開いた。
――わたくしが選んだもの。
その下へ、
――淡い紫のドレス。
と書き足す。三つ目だった。
緑――赤――紫。少しずつ増えている。
――これなら、アプリコットがいなくても大丈夫なのかもしれない。
その時、侍女が新聞を持って入ってきた。
「奥様。こちら、どういたしましょう」
以前なら、アプリコットの記事があれば先に抜いていた。
今は本人の希望で、新聞そのものを一度アザリアへ見せることになっている。
「置いておいてちょうだい」
侍女が机へ載せる。
最初の頁には政治の記事。次は市場。
その下に、小さな囲みがあった。
――ナイヤガラ家、秋に出航予定。
研究所から発表されたらしい。出発予定の港まで書かれていた。
アザリアは記事を読み、帳面へ目を戻した。
淡い紫のドレス。つい先ほど、自分で選んだもの。
その色が急に、何を基準に選んだのか分からなくなった。
――紫を好きだと思ったからなのか。
――今まであまり選ばなかった色だからなのか。
――誰にも似ていないと思ったからなのか。
――最後の理由なら、それは本当に「自分で選んだ」ことになるのだろうか。
アザリアは帳面を閉じた。
*
数日後、ナイヤガラ家の出発日は正式に決まった。
港から船が出るのは、秋の初め。まだ数か月ある。
そう聞けば、十分長いはずだった。
ところがアザリアは、日付を知った途端、その日までを数えるようになった。
あと九十日。あと八十九日。
毎日数えるつもりはなかったのに、侍女へ予定を確認する時、日付が目に入るだけで分かってしまう。
ある晩、切り抜きの箱を開けた。
一番古いものは、アプリコットがまだジョナサンの婚約者だった頃の記事だった。
服――催し――新しく始めた仕事――水路――結婚――子供。
並べると、アプリコットの数年が小さな紙片になっている。
自分はその間、ずっと見ていた。真似をやめるよう言われてからも、捨てることはできなかった。
理由を考えたことはある。
憧れていたから――好きだったから――参考になるから。
どれも間違いではない。
けれど、今こうして並べたものを見ていると、それだけでも足りない気がした。
アプリコットが次に何をするのか知っていると、安心した。
次の季節に何を着るか――どんな本を読むか――何を選ぶか。
そこまで考えたところで、アザリアは箱の蓋を閉めた。
これ以上考えると、また同じところへ戻ってしまう。
「……大丈夫ですわ」
今度は少し小さな声だった。
机の横には、自分で選んだ淡い紫のドレスが掛かっている。
それを見て、アザリアは立ち上がった。
――明日は仕立屋に、同じ形でもう一着頼もう。今度は色も、自分で決める。そうすればいい。
――そうしているうちに、きっと慣れる。
窓の外では、秋には使わなくなる夏の庭が、まだ青々と広がっていた。




