第三十三話 どちらが好きなのかしら
最近のアザリアは、ずいぶん落ち着いた。少なくとも、オルスタイン家の者たちはそう思っている。
朝食の席でアプリコットの名が出ることはなくなったし、新聞に南部の水路の記事が載っていても、以前のように食卓へ持ち込まない。
侯爵夫人の衣装部屋へ入る時には必ず許可を取り、家政婦長が止めたことを勝手に進めることもなくなった。
領地の仕事についても、父が「そこは私たちで見る」と言えば引き下がる。
家の中では、確かに問題が減っていた。
「この頃はよくやっているな」
ある日の夕食で侯爵がそう言うと、アザリアは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます、お義父様」
侯爵夫人も、以前ほど毎日のように鍵束を確かめなくなった。衣装部屋の鍵そのものは、まだ腰に下げているが。
キャサディが使っていた部屋も、今は客間に戻され、扉には新しい錠がついたままだった。
ただ、誰もそのことを口には出さない。
アザリア自身も、家の中が以前より穏やかになったと思っていた。
ジョナサンはまだ寝室へ戻らないが、夕食には座っているし、話しかければ返事もする。花の色を聞けば答えてくれる。茶を選ぶ時にも、以前よりは面倒そうにしなくなった。
……うまくいっている。少なくとも、前よりは。
*
仕立屋が春物のドレスを三着持ってきたのは、その数日後だった。
淡い青と薄い緑、そしてもう一着は白に近い灰色で、襟元にだけ小さな刺繍が入っている。
「奥様、どちらになさいます?」
仕立屋が三着を並べる。アザリアは椅子から立ち、順に見た。
青は綺麗だった。少し前にアプリコットが新聞に載った時、よく似た色を着ていた。
緑は、ジョナサンが一度、青よりは好きだと言った色に近い。
灰色は義母が先月、落ち着いていてよいと褒めていた。
「……」
三着とも悪くない。むしろ、どれでもよかった。
そのことに気づいて、アザリアは少し困った。
「奥様?」
「ええ。少し待ってちょうだい」
鏡の前へ青を当てる。次に緑。最後に灰色。
似合うかどうかなら、仕立屋に聞けば分かる。
けれど今日は、そういう話ではない。ジョナサンに何度も言われた。
――自分で選んでほしい。
お父様にも言われた。
――アプリコットを基準にするな。
なら、自分が好きなものを選べばよい。
そのはずだった。
「……どれが一番、わたくしらしいかしら」
仕立屋がすぐに答える。
「奥様でしたら、青もよくお似合いになります。お顔立ちがはっきりしていらっしゃいますから、淡い色でも負けませんわ」
「……そうではなくて」
アザリアは言いかけて、止まる。
――では、何を聞きたいのだろう?
似合う色? 流行? ジョナサンの好みでも、義母の評価でもなく、自分がどれを好きなのか。
……改めて三着を見ると、よく分からなかった。
「私、小さい頃は、何色をよく着ていたかしら」
侍女へ尋ねる。
「奥様でございますか?」
「ええ」
「桃色や白が多かったと伺っております」
「それは、お母様が選んだものね」
昔の記憶を探る。母はよく言っていた。
――この色のほうが顔が明るく見える。
――こちらの袖のほうが令嬢らしい。
――その髪型は少し子供っぽい。
別に嫌ではなかった。
母の選ぶものは大抵似合ったし、社交の場で褒められることも多かった。
学院へ入ってからも、大きくは変わらない。
友人が持っているものを見て、流行っているらしいと思えば買う。評判のよい店へ行く。上品だと言われる色を選ぶ。
その頃に、アプリコットを知った。
――あの人は彼女は変わっていた。流行より、自分が使いやすいものを選ぶ。
――話題になっている本でも興味がなければ読まず、誰も気にしていない古い農業誌を熱心に探す。
――青い羽根をつけていた時も、似合うからというより、たしか帽子の形に合うと言っていた。
そこまで思い出して、アザリアは青いドレスから手を離した。
「今日は決めなくてもよろしいかしら」
「もちろんでございます」
仕立屋はすぐにうなずいた。
「では、三着とも一度お預けして――」
「いえ」
アザリアは考え直した。全部持って帰られたら、明日また同じことになる。
「少しお借りしても?」
「ええ。ごゆっくりお選びくださいませ」
三着は、そのまま衣装部屋へ置かれた。
*
服は午後になっても決まらなかった。
青を見るとアプリコットが浮かぶし、緑を見るとジョナサンを思い出し、灰色を見ると義母の声がする。
……どれも、自分のところへ戻ってこない。
「……変ね」
アザリアは一人で呟く。こんなことで迷ったことはなかった。
以前なら、もっと簡単だった。
アプリコットが着たもの――似合うと言われたもの――夫が好むもの。
そのどれかを選べばよかった。
なのに今は、それをやめろと言われている。
――ならば自分で決めればいい。
――自分で。
そう思って灰色のドレスを手に取ると、地味すぎる気がする。
緑へ変えると、こちらは少し子供っぽい。
青なら安心する。
けれど、その安心が何なのか考えると、また手が止まる。
結局、アザリアは三着とも元の位置へ戻した。
*
アザリアはジョナサンが帰ってくるのを、夕方になるまで待った。
最近は、彼の仕事が終わる時間を見て声をかけるようにしている。
以前のように廊下で待ち伏せると嫌がるため、今日は侍女を通じて「少しだけよろしいですか」と伝えた。
「何だ?」
ジョナサンが居間へ来る。
「ドレスを選びたいのです」
それだけで、彼の眉が少し寄った。
「また僕に聞くのか?」
「今日は違いますわ」
アザリアは急いで首を振った。
「自分で選ぼうと思っておりますの。でも、少し《《分からなくて》》」
「何が?」
ここまで説明してしまえば簡単なはずだった。
「どれが好きなのか、ですわ」
ジョナサンは一度、三着を見た。
「君のだろう?」
「ええ」
「なら、好きなのを選べばいい」
「ですから、その《《好きなのが分からない》》のです」
言ってから、自分でも少しおかしいと思った。ジョナサンも同じだったらしい。
「……三着とも嫌いなのか?」
「嫌いではありませんわ。全部綺麗ですもの」
「じゃあ、どれでもいいだろう」
「でも、どれでもいいものを選んだら、自分で選んだことになります?」
ジョナサンは返事に困る。
アザリアはそこで初めて、自分がずいぶん変なことを聞いていると気づいた。
「……ごめんなさい」
三着を見直す。
「前は、こんなに迷わなかったのです」
「コッティを見ていたからだろう」
あまり考えずに言われた言葉だった。アザリアは青いドレスへ目を向ける。
「……そうかもしれません」
意外なくらい素直に出た。
「コッティ様が着ていれば、少なくともおかしくはありませんもの」
「それが嫌なんだ」
「分かっていますわ」
だから、今日は聞かないつもりだった。
「でも―― では私、何を頼りにすればいいのかしら?」
ジョナサンの顔が変わった。
「何も頼りにしなくていいだろう?」
「何も?」
「君が好きだと思ったものに決めればいい」
「ええ」
アザリアはうなずいた。言われていることは分かる。
分かるのに、手順だけが分からない。
「あなた、皆様は、自分で決める時は、何を見て決めるの?」
ジョナサンはしばらく答えられなかった。
アザリアは本当に知りたかったのだ。
好きだから選ぶ、それは分かる。では、その「好き」はどこから出てくるのだ?
母が褒めたもの――夫が好きなもの――アプリコットが選んだもの。
そういう理由を全部外したあとに、自分の中へ何が残るのか?
……うまく見つからない。
「……そんなこと、僕はいちいち考えない」
ジョナサンがようやく言った。
「そうなの?」
「ああ。見て、好きだと思えば選ぶ」
「好きだと思えば」
アザリアはその言葉を繰り返した。
青い服を見る。やはり綺麗だった。
けれど、その綺麗が自分のものなのか、アプリコットが着ていたから安心するのか、まだ分からない。
「……難しいわ」
ジョナサンが大きく息を吐いた。
「服一枚だぞ?」
「……そうですけれど」
アザリアは少し考えた。
「ねえ、あなたなら、どれを選びます?」
「またそれか」
「いえ、参考に」
「参考にしたら同じだろう?」
そこで話は止まった。
ジョナサンは結局、何も選ばずに部屋を出た。
*
翌朝、三着のうち一着だけが衣装部屋から消えていた。
アザリアが選んだのは、薄い緑だった。
ジョナサンが以前、青と緑なら青のほうが好きだと言ったことは覚えている。《《だからこそ》》、青を避けた。
灰色は義母が好むから、それも避けた。
残ったのが緑だったので、自分で選んだことにする。
そう思って仕立屋へ注文を出したあと、アザリアは少しだけ満足した。
ところが昼前、新聞を開いた侍女が、途中で一枚を抜き取ろうとした。
「何の記事?」
「何でもございません」
「見せて」
侍女がためらいながら新聞を渡す。
南部の研究所の記事だった。
アプリコットは載っていない。ただヘルムートと研究者たちが写った小さな挿絵がある。
その横に、記事とは関係のない社交欄があり、ナイヤガラ侯爵夫人が先日の催しで淡い緑のドレスを着ていたと書かれていた。
アザリアは、自分の衣装部屋を振り返った。
同じ緑。
一瞬だけ、胸を張りたいような気分になったが、すぐに、やめた。
「……偶然ですわ」
誰に言うでもなく呟き、新聞を侍女へ返した。
*
午後になると、今度は花を選ぶことになった。
黄色――白――赤――
アザリアは三つを見比べた。
ジョナサンは黄色を選んだことがある。義母は白が好きだ。なら。
「赤にいたしますわ」
家政婦長がうなずく。
「かしこまりました」
――二つ避ければ、自分のものになる。
そんなふうに考えると、少し楽だった。
夜、寝る前にアザリアは小さな帳面を開いた。
ジョナサンが好むものを書いていたページを一度めくり、次の白紙へ、新しく見出しをつけた。
――わたくしが選んだもの。
緑のドレス――赤い花。
二つ書いてから、少し考える。
――明日は茶を選ぼう、今度は誰にも聞かずに。それができれば、きっともっと上手くいく。
アザリアは帳面を閉じた。




