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私になりたい令嬢に婚約者を奪われましたので、話の通じる方と幸せになります。  作者: さんけい


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第三十二話 まだ離婚できないそうですわ

 春の終わり、ナイヤガラ家の庭には小さな帽子が干されていた。


 乳母が洗ったものを侍女が日当たりのよい場所へ出したらしく、大人の手のひらほどしかない白い帽子が、調査用の外套や作業手袋と並んで風に揺れている。


「それ、そこに干すものですの?」


 朝食へ向かう途中で見つけたアプリコットが足を止めると、後ろを歩いていたヘルムートも窓の外を見た。


「乾けば同じだろう」

「あなたの泥のついた手袋の隣ですわ」

「触れてはいない」

「そういう問題でしょうか」


 昨日まで南部の水門を見て回っていたため、ヘルムートの手袋にはまだ薄く泥が残っているが、帽子との間には、確かに半歩ほど隙間があった。


「あとで移してもらいます」

「帽子を?」

「手袋をですわ」

「私のほうか」


 それで話は終わった。

 以前のアプリコットなら、乳児の衣類と屋外作業用具を同じ場所へ干す場合の問題を、衛生、泥、乾燥時間、使用人の動線まで順に説明したかもしれない。

 今は、朝食が待っている。


「じゃ、続きはあとで」

「何の続きだ」

「水門です。昨日、あなたが途中で寝たでしょう」

「寝たのは君だぞ」

「では、その点もあとで」


 二人で食堂へ入る。


 子供はすでに乳母に抱かれ、食卓の端に置かれた小さな籠の中で手を動かしていた。

 生まれて数か月。

 夜はまだ何度か起きるし、朝になれば誰が先に起きたかで予定が変わる。アプリコットの仕事も、ヘルムートの調査も、以前のように一日の最初から最後まで同じ形では組めなくなった。

 その代わり、毎朝ここで調整する。


「午後の役所は?」

「二刻ほど。帰りに研究所へ寄る」

「でしたら、夕方はわたくしがこちらにおります。明日の午前は?」

「水路の模型を見る。君も来るか」

「行きます。子供は?」

「母が預かりたいと言っていた」


 乳母がそこで口を挟んだ。


「奥様、侯爵夫人様からは、午前だけでなく昼食もご一緒にと伺っております」

「あら」


 アプリコットはパンを切る手を止めた。


「それなら午後の訪問も入れられますわね」

「また増やすのか」

「一つだけです」

「昨日もそう言った」

「昨日は二つ増えました」

「知ってる」


 ヘルムートがスープへ手を伸ばしたところで、籠の中から短い声が上がった。

 二人ともそちらを見る。子供は何事もなかったように、自分の指を見ていた。


「今のは?」

「分かりませんわ」

「君でも分からないことがあるんだな」

「山ほどございます」


 それも、以前なら妙に悔しかったかもしれない。

 今では、分からないまま朝食を続けられる。


 *


 キャサディが訪ねてきたのは、その日の午後だった。

 エドガーは仕事があるため一緒ではなく、代わりに小さな包みを持たされていた。


「これ、夫からですの」

「何です?」

「赤ちゃん用の靴ですわ。選ぶのに三軒回ったそうです」


 包みの中には、柔らかな革で作られた小さな靴が入っている。

 まだ歩けもしない子供には、少し立派すぎた。


「かわいいですわね」

「でしょう? 本人は実用的なものを選んだつもりですのよ」

「でも、実用になるのは、ずいぶん先では?」

「言わないで差し上げてくださいませ」


 キャサディは笑いながら、乳母に抱かれた子供をのぞき込んだ。以前より顔色がよい。

 オルスタイン家にいた頃は、廊下の音を気にして何度も扉へ目を向けていたが、今は侍女が茶を持って入ってきても話を止めなかった。


「それで」


 茶が置かれてから、キャサディが声を少し落とした。


「お兄様、まだ離婚できないそうですわ」

「そうですの」


 アプリコットは砂糖を一つ入れた。


「……それだけ?」

「それだけ、と申されましても」

「コッティ様は、もっと驚くかと思いましたわ」

「離婚できないのでしょう?」

「ええ」

「でしたら、まだご夫婦なのですね」


 アプリコットは茶を混ぜ、匙を受け皿へ戻した。


「その先は、お二人で考えることでしょう」

「……まあ、そうですけれど」


 キャサディは少し肩を落としたものの、すぐ自分の茶へ手を伸ばした。


「家では、ずいぶん落ち着いたそうですの。アザリア様も最近は、お姉様のお名前をほとんど出さないとか」

「それはよかったですわね」

「お母様もそう思って《《いた》》そうです」


 そこに小さく引っかかるものがあった。


「思っていた?」

「ええ」


 キャサディはカップを両手で包んだ。


「今度は何でも、お兄様へ聞くそうですの。花も、茶も、服も、どちらが好きか。お兄様が選んだものを使うようになったとか」


 アプリコットは一度、言葉を止めた。


「……それは」

「ねえ、変でしょう?」


 キャサディが身を乗り出す。


「でも、お父様は夫の好みに合わせようとしているだけだと言いますし、お母様も、以前よりずっといいと」

「ジョナサン様は?」

「……嫌がっているそうですわ」


 そこまで聞いて、アプリコットは何となく分かった。

 アザリアはアプリコットを基準にすることをやめたが、代わりに、ジョナサンを基準にした。

 本人なりには、《《言われたことをきちんと守った》》のだろう。


「お兄様が『自分で選んでほしい』と言っても、『あなたの好みを知りたいだけです』と返されるそうです」


 キャサディは少し笑った。


「一見、とても仲のよい新婚夫婦ですわ」

「そうでしょうね」

「怖いでしょう?」


 その言葉で、アプリコットはキャサディを見る。

 以前なら、キャサディは「気持ちが悪い」「おかしい」と言っていたが、今日は、怖いと言った。


「ええ」


 アプリコットはうなずいた。


「わたくしなら、怖いと思います」


 キャサディの肩から、張り詰めた力が少し抜けた。


「……やっぱり、コッティ様は分かってくださるのね」

「わたくしも、最初から全部分かっていたわけではありませんわ」


 青い羽根の頃には、ただ困っていた。

 服が重なり、言葉が重なり、婚約者まで重なった時にも、まだアザリアが何をしたいのか理解しようとしていた。

 今なら分かる。


「……相手が何をするか予測できないから怖い、のではないのでしょうね」

「え?」

「むしろ、予測できてしまうのに、自分では止められないのが怖いのだと思います」


 アザリアが次に何を見るかは分かる。何を欲しがるかも、どの方向へ寄ってくるかも。

 けれど理由を説明すれば、形を変えて続ける。

 キャサディはしばらく考えてから、大きくゆっくりうなずいた。


「そうですわ。まさに、それです」


 乳母の腕の中で子供が動き、二人の話はそこで切れた。

 アプリコットは立ち上がる。


「少し抱いてみます?」

「よろしいの?」

「眠くなければ」


 乳母から受け取った子供を、キャサディへ渡す。

 小さな頭を支える位置を教えようとすると、


「ここでしょう?」


 意外に手慣れていた。


「エドガーの姉のところに子供がおりますの。何度か抱かせてもらいました」

「では、わたくしが説明する必要はありませんわね」

「珍しいですわね。コッティ様が説明をやめるなんて」

「失礼ですこと」


 笑っているうちに、子供がキャサディの指をつかんだ。


「あら」


 話はまた中断する。今度は誰も戻そうとしなかった。


 *


 夕方、ヘルムートが帰ってくると、玄関脇に小さな靴が置かれていた。


「何だ、これ」

「キャサディ様からです。正確にはエドガー様から」

「もう歩かせるのか」

「あなたと同じことを言わないでくださいませ」


 ヘルムートは片方を持ち上げ、しばらく眺めた。


「これは…… 小さいな」

「子供用ですから」

「分かっている」


 くす、と笑い合う。


 *


 食事のあと、二人は書斎へ移った。子供はすでに眠っている。

 卓上には昨日の水門の図面と、今日研究所から持ち帰った模型の寸法が並んでいた。


「昨日の三つ目からですわ」

「四つ目もある」

「増えました?」

「今日見てきた」


 ヘルムートが図面の端を指した。


「ここの水量が合わない」

「季節差では?」

「最初はそう思った。ただ、古い記録を見ると――」


 説明を聞きながら、アプリコットは自分の控えへ数字を書き込んだ。

 途中で隣室から小さな泣き声が聞こえる。二人とも手を止めた。


「私が行く」

「今日はわたくしです」

「昼間、客が来ていただろう」

「あなたは朝から外ですわ」

「では二人で行くか」

「それが一番効率が悪いです」


 アプリコットは椅子を立った。


「ここ、忘れないでくださいませ」

「覚えてる」

「本当に?」

「三つ目と四つ目」

「では明日」

「ああ。明日」


 書斎には、開いたままの図面が残る。翌朝になれば、またそこから始めればよかった。



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