第三十話 では、理由をお聞かせください
翌日、アザリアは昼前にリーフェル家へ着いた。
母は応接間ではなく、自分の居間へ娘を通した。家族だけで話す時によく使っていた部屋で、窓際には昔から同じ刺繍台が置かれている。結婚前のアザリアなら、その横へ勝手に椅子を寄せて座ったものだが、今日は父もいるため、勧められた席へおとなしく腰を下ろした。
「最初から聞かせてちょうだい」
母は茶を注いだものの、自分のカップには手をつけなかった。
「手紙に書いたこと以外にもあるのでしょう?」
「……ありますわ」
アザリアは少し迷ってから、ジョナサンに言われてきたことを順に話した。
――アプリコットの真似をするなと言われたこと。
――服や髪型だけでなく、話し方や仕事の仕方まで似せていると怒られたこと。
――義母の衣装部屋へ入って叱られたことも、自分が悪かったと思っているので隠さなかった。
――子供についても、アプリコットと同じ時期に欲しいと言った。
父はそこまで聞くと、額へ手を当てた。
「アザリア。それはジョナサン殿が嫌がっても仕方ないぞ」
「ええ。ですから、もう言わないようにしています」
「言わなければ済む話なのかしら」
母が口を挟んだ。
「あなた、今もアプリコット様の記事を集めているでしょう?」
アザリアは返事に詰まった。
「……少しだけですわ」
「どのくらい?」
「新聞に載ったものを、取っておくくらいで」
母は父を見た。
服を似せる程度なら、若い娘の憧れで済ませていた。
しかし結婚してからも続き、相手が母親になれば自分も同じ時期に子供を欲しがるとなると、さすがに軽くはない。
「ジョナサン殿は、そのことを何度もやめてほしいと言ったのだな」
「はい」
「それで、お前はやめたのか?」
「気をつけていますわ」
父はすぐには次を聞かなかった。
その答えだけで、十分ではないことは分かったらしい。
「お前が悪くないとは言わん」
アザリアの膝の上で、指が組み直される。
「人の真似を嫌がられて、それでも続けていたなら、そこはお前が直すところだ。しかし」
父は娘の手紙を卓上へ置いた。
「だから夫が黙って離縁の準備をしてよい、という話にもならん」
アザリアが顔を上げた。
「寝室を分け、何を考えているか妻には話さず、元婚約者へ相談に行き、その一方で離縁について調べる。これではこちらとしても、事情を聞かねばならない」
「お父様」
「まだ責めに行くわけではない」
父はそこで釘を刺した。
「オルスタイン侯爵家にも言い分はあるだろう。まず、それを聞く」
母も同じ考えだった。
「あなたも、今日ここで話したことを向こうで隠してはいけませんよ。衣装部屋へ入ったことも、アプリコット様の真似を続けていたことも」
「はい」
「そのうえで、ジョナサン様が何を望んでいるのか聞きましょう」
アザリアはようやく茶へ手を伸ばす。母がいつも使っている花柄のカップだった。
同じものを欲しいと思ったことはない。
……なぜか、そのことだけは少し不思議だった。
*
リーフェル伯爵からオルスタイン侯爵へ書状が届いたのは、その翌日だった。
内容は短い。
――娘から夫婦関係について相談を受けた。
――離縁を検討しているのであれば、両家に関わることなので事情を伺いたい。
――そうでないなら、誤解を解くためにも一度話し合いの場を持ちたい。
抗議でも要求でもない。だからこそ、侯爵は読み終えるなり息子を呼んだ。
「座れ」
書斎へ入ったジョナサンは、父の机の上にリーフェル家の封蝋を見つけた。
嫌な予感がした。
「アザリアが実家へ相談したそうだ」
「……そうですか」
「そうですか、ではない」
侯爵は書状を息子の前へ置いた。
「お前、離縁について調べていたそうだな」
「まだ決めたわけではありません」
「なら、なぜ調べた」
「……可能なのか知りたかったからです」
父は椅子の背へ寄りかかった。
机の端には南部の牧草地についての書類が積まれている。半年前、その土地を婚姻条件の一つとして歓迎したのも父だった。
「……何があった?」
「何度も話しました」
「私には聞いていない」
「アザリアとです」
ジョナサンは、もう何度目になるのか分からない説明を始めた。
アプリコットの真似――衣装――髪――言葉――仕事――母の部屋――今度は子供。
話しているうちに、自分でもどこを一番問題にしたいのか分からなくなる。
「僕を見ていないんです。何をしても、元になるのはコッティだ」
「それは気味が悪いところもあるな」
父はあっさり認めた。ジョナサンは少し驚いた。
「なら――」
「だが、離縁するほどの理由か?」
続きはそこで止まった。
「不貞をしたか?」
「していません」
「家の金を使い込んだか」
「それも」
「使用人を傷つけたか。家の名を使って勝手な契約でもしたのか」
ジョナサンは答えられない。
領地のことへ口を出した時は、父が止めた。それ以降、アザリアは表立って関わっていない。
「お前の妻は、お前と子供を持ちたいと言っている。それ自体はおかしな話ではないだろう」
「理由が問題なんです」
「なら、その理由を変えさせろ」
「話が通じないんですよ!」
声が大きくなった。廊下の向こうで誰かの足音が止まり、すぐ遠ざかった。
侯爵はしばらく息子を見ていた。
「話が通じないから、話さずに離縁を調べたのか」
「だから、何度も――」
「何度で諦めた?」
ジョナサンの口が閉じる。
「一度で分からなければ二度話せ。二度で分からなければ、何が分からないのか聞け」
聞き覚えのある言葉だった。
ずっと昔から、父はそういう人だった。
そしてジョナサン自身も、以前は他人へ似たことを言ったことがある。
――アプリコットなら分かる。
――アプリコットなら、あとで自分で整理する。
――賢いのだから大丈夫だ。
そんな扱いをしておきながら、今度は、自分が分かってもらえない側になっている。
「お前が望んで結婚した女だろう」
父が言う。今度こそ、返す言葉がなかった。
「アプリコット嬢との婚約を解消してまで選んだ。リーフェル家とは条件を詰め、こちらも正式に迎えた。それを半年で、話が通じないから返したいでは、先方だって納得せん」
「半年だからこそです。このまま何年も――」
「なら、何年も困らないように今話せ」
父は書状をたたんだ。
「こんなことで人生を台無しにするな」
その言葉まで、知っている気がした。
誰に言われたのだったか。父だったか、母だったか、それとも自分が誰かへ言ったのか。
思い出せない。
*
侯爵夫人が呼ばれた時には、ジョナサンはすでに疲れ切っていた。
母はリーフェル家の書状を読み、息子からも話を聞いた。
アザリアが怖い。それは今も変わらない。
衣装部屋には鍵を掛けているし、身につけるものを勝手に触られるのも嫌だった。キャサディが家を出る前、何度も訴えていたことを思い出すたび、自分がもっと早く聞けばよかったとも思う。
だからといって、自分から「追い出しなさい」とは言えなかった。
アザリアが初めて衣装部屋へ入った時、少し距離感が近いだけだと思った。
キャサディが訴えた時には、結婚すれば落ち着くと考えた。
ジョナサンが選んだのだから、夫婦でうまくやるだろうとも。
自分でそう言ってきた。
「お母様も、嫌でしょう」
ジョナサンが言った。
夫人はすぐには答えなかった。
卓上の鍵束へ手を伸ばし、衣装部屋の小さな鍵がついているのを指で確かめる。
「嫌なことはあります」
「なら」
「でも、アザリアさんをこの家から出してほしいとまでは言えません」
ジョナサンが母を見た。
「どうしてです」
「わたくしが困っていることと、あなたが妻と別れることは同じではないでしょう」
「でも――」
「それに」
夫人は鍵束を卓上へ戻した。
「わたくしはキャサディに、何度も言いました。よく話せば分かるでしょう、と」
その頃の娘の顔を、今はよく覚えている。
説明しても信じてもらえず、最後には自分で婚姻を早めて家を出た。
「今になってアザリアさんが怖くなったから、出ていってもらいましょう、とは言えないわ」
それを言えば、キャサディへ何をしたことになるのか。
「話し合ってみなさい」
母まで同じことを言った。
「あなたなら何とかできるでしょう」
ジョナサンは顔を上げた。その言葉も、知っている。
――頭のいいアプリコットなら。
――しっかりしたアプリコットなら。
――あの子なら何とかする。
誰も手を貸さずに置いておくための言葉として、昔は便利だった。
*
リーフェル夫妻がオルスタイン家を訪れたのは、その三日後だった。
両家の当主夫妻と、ジョナサン、アザリアだけで話すことになった。
リーフェル伯爵は最初に娘へ確認する。
「先日、我々へ話したことに間違いはないな」
「はい」
「お前がアプリコット嬢を真似し続け、夫に嫌がられていたことも含めて」
「はい」
アザリアは膝の上で手を重ねた。
「それは、わたくしが悪かったと思っております」
オルスタイン侯爵が息子を見る。
「ジョナサン。ここまでに相違は?」
「ありません」
「では」
リーフェル伯爵はジョナサンへ向き直った。
「離縁をお考えなのですかな」
正面から聞かれると、昨日まで調べていた言葉が急に重くなった。
「……考えたことはあります」
アザリアの指が一度だけ動いた。
「理由は、今お聞きした件ですか」
「それだけでは説明しきれません」
「では、お聞かせください」
ジョナサンは息を吸った。
――アザリアが、自分を見ていないこと。
――何を選ぶにも、どこかにアプリコットがいること。
――話しても直らず、直ったように見えても形を変えて戻ってくること。
それを最初から説明しようとしたが、どこから始めても長くなる。
青い羽根からか――衣装からか――仕事からか――母の部屋か――子供からか。
「……簡単には説明できません」
ようやく出た言葉に、リーフェル伯爵はうなずいた。
「では、簡単でなくて結構です」
ジョナサンは黙った。
「娘の一生に関わる話です」
伯爵は急かさなかった。
「長くなっても構いません。最初からお話しください」
アザリアも、隣で待っていた。
父も、母も、誰も結論を先に求めない。
ジョナサンは椅子の上で手を組み直した。




