第二十九話 お母様に相談いたします
「午前中は、どちらにいらしたの?」
アザリアが茶を注ぎながら尋ねると、家令のマティアスは一度だけ扉のほうを見た。
ジョナサンはすでに朝食を終え、父と一緒に南部から届いた報告を確認している。侯爵夫人も今日は仕立屋を呼んでいて、食堂にはアザリアと侍女、それから朝の指示を受けに来た家令しかいない。
「若旦那様でございますか?」
「ええ。昨日、昼食にも少し遅れていらしたでしょう? お仕事ならよいのですけれど、最近とてもお忙しそうですから」
言い方を選んだつもりはなかった。実際、ジョナサンは忙しい。
領地の報告も増えているし、父に付き添って商人や役人と話す時間も長くなった。
けれど仕事だけなら、以前は夕食のあとに少しくらい話をしたはず。
最近は、それもない。
「午前中は記録庫にいらっしゃいました」
「記録庫?」
アザリアはミルクを入れようとして、いったん小さな壺を戻した。
「何か古い土地の記録でも?」
「私から申し上げてよいものか……」
「ジョナサン様のお仕事でしょう?」
「お仕事、と申しますより」
マティアスはそこで言葉を切った。
長くこの家にいる人だから、余計なことを言わないのはアザリアも知っている。キャサディがまだ家にいた頃、兄妹喧嘩の理由を母に尋ねられても、当人たちがお話しになるでしょう、と逃げたことがあった。
それなら、とアザリアは先に知っていることを出した。
「昨日、家の顧問の方ともお話ししていらしたでしょう?」
「はい」
「わたくしには、何のお話だったか教えてくださいませんでしたの」
マティアスの眉がわずかに動く。
「若奥様。もしご心配でしたら、若旦那様ご本人へ――」
「聞きましたわ」
アザリアはそこで少し困った。
聞いた、と言ってよいのだろうか。
子供のことなら何度も聞いた。自分の何が嫌なのかも尋ねたし、何を直せばいいのかも聞いた。
昨夜も、仕事の話をしてほしいと頼んだ。
けれどジョナサンが何を調べているのかは、まだ聞いていない。
「……いえ。昨日のことは、まだですわね」
自分で訂正すると、マティアスも何も言わなかった。
「では、記録庫では何を?」
「婚姻関係の古い書類をお読みになっておりました」
「婚姻?」
今度はミルクの壺を持ったまま、手が止まった。
「どなたの?」
「先代侯爵様の叔母君を中心に」
「その方は、どんな方でしたの?」
「私も直接は存じ上げません。ですが、ご結婚後に離縁なさった方でございます」
ミルクが、茶へ少し多く入った。
アザリアは慌てて壺を戻したものの、カップの中はいつもより白い。
「離縁……?」
口にすると、急に意味がはっきりした。
――ジョナサンは子供を欲しがらない。寝室へも来ない。
――子供部屋の準備を止める。
――離縁した親族の記録を読む。
「顧問の方とは?」
「それ以上は、私からは」
マティアスはそこで頭を下げた。
「申し訳ございません」
「いいえ。ありがとう」
アザリアは白くなりすぎた茶を一口含む。甘くも苦くもない。ミルクばかりが口に残る。
――ジョナサン本人へ聞けばいい。
そう思ったものの、今朝も義父と一緒に書斎へ入った。昼には来客があり、午後は南部の倉庫について役人と話す予定だと昨日聞いている。
夜まで待つ。待って、また「今は話したくない」と言われたら?
そこまで考えた時、アザリアの頭に母が浮かんだ。
*
昼過ぎ、アザリアは自室の机へ向かった。
母へ手紙を書くこと自体は珍しくない。
結婚して最初の頃は、週に二度ほど書いていた。オルスタイン家の食事や庭、義母がどんな茶を好むのか、ジョナサンが忙しくしていること。母からも、実家で咲いた花や兄の仕事、領地の牧草の出来について返事が来た。
ただ、ここしばらくは回数が減っていた。
書くことがなかったわけではない。《《何を書けばよいか、分からなくなっていた》》だけだ。
アザリアは便箋の上に日付を書き、いつもの挨拶を入れた。
そこまでは迷わない。
その次で、ペンが止まる。
――ジョナサン様が、わたくしとの離婚を考えているようなのです。
いきなりそう書けば、母は驚くだろう。まだ本人から言われてもいない。
けれど、では何から書けばいいのか。
寝室を分けられたことからだろうか?
それは結婚して間もない頃に始まったので、昨日今日の話ではない。最初は仕事が遅くなるからだと言われ、自分もそういうものなのだと思った。
子供を欲しいと言ったこともジョナサンは嫌がった。
ただ、嫌がった理由は分かっている。自分がコッティと同じ頃に母親になれたら、と言ったからだ。
そこだけ書けば、自分が悪いようにも読める。
アザリアはペン先を布で拭った。
「……わたくしも悪いところはあるもの」
口にすると、少し書きやすくなった。
――お母様。
――少し、ご相談したいことがございます。
――このところ、ジョナサン様との間がうまくいっておりません。
まず、そこから始める。
――ジョナサン様は、結婚してしばらくしてから寝室へいらっしゃらなくなりました。
――お仕事がお忙しいのだと思っておりましたが、今ではほとんど別々に休んでおります。
ここで一度読み返し、軽くうなずく。
嘘ではない。
――わたくしは子供を望んでおります。
――ですが、その話をするとジョナサン様は嫌がり、子供部屋の準備もやめるように言われました。
これも、本当だ。
ただ、このままでは自分ばかり正しいようで気になった。
アザリアは次の行へ、小さく書き加える。
――わたくしがアプリコット様と同じ頃に母親になれれば、と申したことが原因の一つだと思います。
――その言い方が嫌だったのだと分かりましたので、もう申しません。
これならよいだろう、とまた小さくうなずく。
自分の悪かったところも書いた。それでも、ジョナサンは戻ってこない。
そこで昨日のことを書こうとして、またペンが止まった。
アプリコットの家へ行ったこと。
あれは相談だった。ジョナサン自身がそう言った。だから不貞ではない。
けれど、夫婦の話を自分とはしないのに、元婚約者には相談する。そして何を相談したのかも、自分には詳しくは教えてくれなかった。
アザリアはその部分を、何度か書き直した。
――先日は、アプリコット様のお宅へ、お一人で訪ねていらっしゃいました。
――わたくしたち夫婦のことでご相談なさったそうです。
ここにも嘘はない。
さらに、その少し前にはアプリコットの懐妊が知られている。
それを書こうかどうかは迷った。
――ジョナサンは、アプリコットをまだ好きなのだろうか。
以前なら、そんなことは考えなかった。
彼は自分を選んだ。婚約まで解消してくれた。両家へ話し、正式に妻にした。
だから、アプリコットのところへ戻ることなどないと思っていた。
今も、戻りたいとは言われていない。
それでも、アザリアは結局その一行も書いた。
――ちょうどアプリコット様にお子様ができたと知られた頃から、ジョナサン様は以前よりわたくしとの子供の話を嫌がるようになりました。
書いてから、少しおかしいと思う。
自分が子供の話を始めたのも同じ頃なのだから、当然と言えば当然だ。
そのため、もう一行加えた。
――ただし、わたくしがその頃から子供を望むようになったためかもしれません。
これで公平だろう。アザリアはさらに続けた。
――昨日は、この家で以前離縁なさった方の記録を調べていらしたそうです。
――家の顧問とも何かお話しになっております。
――わたくしには、その内容をまだ教えてくださいません。
ここまで書くと、便箋はもう二枚目へ入っていた。
自分で読み返してみても、嫌な感じがした。
寝室を避けている――子供を嫌がる――元婚約者を訪ねた――離縁について調べている。
別々に起きていた時には、ここまで一つにつながっているとは思わなかった。
「やっぱり、離婚したいのかしら……」
声にすると怖くなった。
アザリアは急いで続きを書く。
――わたくしは、離婚したくありません。
――ジョナサン様を今でもお慕いしております。
――わたくしに悪いところがあるなら直したいのです。
――何がいけなかったのか、何度も伺っております。
そこで少し迷い、
――アプリコット様の真似をするな、と言われましたので、それもやめようとしております。
と書いた。
実際、最近は口にしないよう気をつけている。
新聞の切り抜きも寝室の引き出しへ入れた。服だって、昨日はコッティが着た色を選ばなかった。
自分なりに努力している。
――けれど、まだ何をすればよいのか分かりません。
――お母様、どうか一度お話を聞いてくださいませ。
――お父様にもご相談いただけましたら心強く存じます。
書き終える頃には、三枚になっていた。
アザリアは最初から読み返した。少し長い。
けれど、これ以上どこを削ればよいのか分からない。
ジョナサンの悪口を書いたつもりはなかった。
むしろ自分の悪かったところも、分かる範囲ではきちんと書いた。
それでも読み終えると、
――夫が元婚約者の懐妊後、妻を避け、離縁を調べ始めた。
という話になる。
アザリア自身は、そのことに気づかなかった。
ただ、母ならどうすればよいか教えてくれるだろう、と思った。
*
リーフェル伯爵夫人が娘の手紙を受け取ったのは、翌朝だった。
いつもなら朝食後に自室で読むが、三枚も入っているのが珍しく、食卓で封を開いた。
一枚目を読み終えたところで、パンへ伸ばしていた手が止まる。
二枚目では、夫を呼んだ。
「あなた。少しこちらへ」
伯爵は新聞から顔を上げた。
「何だ。アザリアか?」
「ええ。読んでくださいませ」
渡された手紙を、伯爵は最初から読み始めた。妻と違い、途中で止まらない。
三枚目まで読み切ってから、また一枚目へ戻った。
「寝室を分けているのは、いつからだ」
「結婚して間もない頃、とありますわ」
「我々は聞いていたか?」
「いいえ。仕事が忙しいとは聞いていましたけれど」
伯爵は二枚目をめくった。
「アプリコット嬢の家へ、一人で出向いた?」
「夫婦の相談ですって」
「……妻との話を、元婚約者にか」
そこで初めて、伯爵の声が低くなる。
「それも、アプリコット嬢の懐妊が知られたあとだな」
「アザリア自身が子供を言い出したのも同じ頃だと書いてありますから、そこは決めつけられませんわ」
「分かっている」
伯爵はまた先を読む。
「しかし、そのあとに離縁の記録を調べている」
「顧問とも話したそうです」
「本人には説明せずに?」
伯爵夫人は娘の最後の数行を見た。
「ねえ、この子、自分に悪いところがあるなら直したい、と書いていますのよ」
「アプリコット嬢の真似というのは?」
「あの子、以前から少し似せていたでしょう? 服や髪型を」
「若い娘同士なら、そういうこともあると思っていたが……」
夫人も、そこは同じだった。
婚約前、アザリアがアプリコットを慕っているという話は知っていた。
同じ店へ行き、似た服を仕立てる。言葉遣いまで真似することがあると聞いた時も、娘の憧れが強いのだと思っていた。
何より、そのアザリアをジョナサン自身が選んだのだ。
「オルスタイン侯爵は、この話をご存じなのかしら?」
「おそらく知らんだろう。知っていれば、先にこちらへ何かある」
「では、どういたしましょう」
「まずアザリアを呼ぶ」
伯爵は手紙を折り直した。
「娘の手紙だけで侯爵家へ抗議などできん。ジョナサン殿が実際に何を考えているのかも分からない」
「ええ」
「だが、離縁まで調べているなら、こちらも何も知らないままではいられん」
伯爵夫人はすぐに返事を書くため、朝食を切り上げた。
娘を責める言葉は一つも浮かばない。
結婚して半年。夫を慕い、義両親へ従い、家のことを学び、子供を欲しがっている。
真似をする癖が夫婦喧嘩の種になっているとしても、それを理由に離婚されるのなら、まず事情を聞かなければならない。
昼前には、リーフェル家の使いがオルスタイン家へ向かった。
*
母からの返事は短かった。
――明日、こちらへいらっしゃい。
――お父様も一緒にお話を聞きます。
――一人で悩まず、最初から順に話してください。
アザリアはその三行を二度読み、ようやく息をついた。
「よかった……」
相談すれば、何とかなる。
そう思って返事を畳んだ。




