第二十五話 何も問題のない家
オルスタイン侯爵夫人は、朝食の席へ着く前に鍵を確かめるようになった。
衣装部屋。宝石棚。私室の机。
三本の鍵を腰の小さな鎖へ通し、寝室を出る。以前は侍女へ預けていた。今は入浴の間も、枕元の小箱へ入れている。
「奥様。本日は仕立屋が参ります」
「小客間へ通して。衣装部屋には入れないでちょうだい」
生地を合わせる時にも、必要なドレスはこちらから運ぶ。
家政婦長はもう理由を尋ねなかった。
祝宴用の服を仕立てる時にも、若奥様と侯爵夫人を同じ部屋へ通さない。アザリアの衣装は東側の客間、侯爵夫人の衣装は西側で仕立て、宝飾商を呼ぶ日も分けた。
屋敷の者は、新しい手順を半年で覚えた。
*
朝食の席で、アザリアはジョナサンの予定を尋ねた。
父親と管理人に会い、南部の境界を確認する。自分も同行したいと言ったが、侯爵は図面も境界杭の番号も把握していない者が来れば話が増えるだけだと退けた。
「先に勉強しておけばよかったですわね」
「まず、今ある資料を読め」
侯爵は新聞を家令へ渡した。
以前なら食堂の脇に置かれ、一日中誰でも読めた。今は侯爵が読み終えると、そのまま執務室へ運ばれる。
社交欄の載った新聞も、学術院の記事が多い雑誌も、居間には残らない。
アザリアは午後の予定をジョナサンへ相談した。客へ出す菓子を選んだあとは何をすればよいか。刺繍は得意ではなく、本を読むなら夫の好きなものがいい。
「僕は仕事の資料しか読まない」
「では、それを」
「君が読んでも面白くない」
「読んでみなければ分かりませんわ」
以前なら、自分の好みへ合わせようとする妻を可愛らしいと思った。
今は、本を一冊挙げれば、その著者の服装まで調べ始めそうだった。
帰りは遅くなる。夕食は待たずに食べてほしい。ジョナサンがそう告げても、アザリアは夫婦だから一緒に食べたいと微笑んだ。
「料理が冷めてしまいますよ。遅い時は先に食べなさい」
侯爵夫人が口を挟むと、アザリアは小さな子供がいた頃も夫を待ったのかと尋ねた。
「わたくしたちには、まだ子供がおりませんもの」
ジョナサンの手が、カップの横で止まった。
アザリアは何も気づかず、ジャムの瓶を侯爵夫人へ差し出した。
*
昼には、侯爵夫人の古い友人が二人訪れた。
アザリアは花を選び、茶器を決め、焼き菓子を三種類用意させた。
花は白と淡い桃色。茶器は青い縁取り。焼き菓子には杏の砂糖煮が使われている。
「まあ、素敵ね。若奥様がお選びになったの?」
「ええ。ジョナサン様は、この組み合わせがお好きでしたから」
以前、アプリコットが侯爵夫人の客へ出した組み合わせだった。
白い花は香りが弱く、茶の邪魔をしない。杏の菓子には、青い茶器のほうが色が映える。アプリコットはそう説明していた。
客たちは、夫の好みをよく知る妻を褒めた。結婚から半年、侯爵夫人も安心だろうと言う。
「お義母様には、いつも教えていただいております。わたくし、お義母様のような女主人になりたいのです」
以前なら喜んだだろう。なのに今は、どの部分を見て言っているのか分からない。
「まだ教えるほどのことはしていませんよ。アザリアは自分でよく考えておりますから」
客たちは侯爵夫人の言葉を謙遜と受け取った。
――夫の好みを覚え、家のことを学び、義母を慕っている。派手な買い物もせず、夜会で騒ぎも起こさない。
――オルスタイン家には、よい嫁が来た。
客が帰るまで、その話は何度も繰り返された。
*
ジョナサンが屋敷へ戻った時、夕食はすでに始まっていた。
アザリアは席を立って迎え、スープだけは温め直させたと告げた。
父親は管理人との話を続けている。東側の境界杭は川の増水で流され、古い地図とリーフェル側の控えを照らす必要があるらしい。
アザリアは、来週の現地確認へ自分も行くと言い出した。
「必要ない」
「でも、わたくしが持参した土地ですわ」
「馬車で半日かかり、現地では泥の中を歩く」
「丈夫な靴を用意いたします」
侯爵の返事が変わらないと知ると、アザリアはコッティ様も調査の時には、と口にしかけた。
侯爵夫人がスプーンを置く。
「その方のお名前は、今は関係ありません」
「……そうですわね。では、次の機会のために靴だけ用意しておきます」
侯爵はジョナサンへ、妻によく話しておけと言った。
父が今説明したではないかと返すと、一度で聞かないなら何度でも言え、と言葉が返ってきた。
ジョナサンはスープを飲んだ。温め直されたはずなのに、もうぬるかった。
*
夕食後、アザリアはジョナサンの寝室までついてきた。
この頃、彼は隣の小部屋で眠っている。仕事の灯りが眩しいとアザリアが言ったのが始まりだったが、今は読み終えても寝室へ戻らない。
「今夜も、そちらでお休みになるの?」
「遅くまで仕事をする」
「読み終えてから、お戻りになればよいでしょう。わたくし、待っております」
「待たなくていい」
アザリアは寝室の椅子へ腰を下ろした。
朝食も別の日があり、二人で出かけてもくれない。けれど客たちは仲のよい夫婦だと言い、侯爵夫人も否定しなかった。
「外から見れば、そうなんだろう」
「中から見ても同じですわ。わたくしは、あなたのお好きな家にしておりますわ」
花も料理も茶も選び、仕事の話も学んでいる。アザリアはそう数えた。
白と桃色の花。青い茶器。杏の菓子。
どれも、アプリコットが選んでいた頃には好きだった。
「……今夜は疲れている。一人にしてくれ」
名前を呼んで告げると、アザリアは嬉しそうに顔を上げ、それから素直に部屋を出た。
*
ジョナサンは小部屋へ入り、机の上の書類を開く。文字を追う前に、隣室から衣装棚を開ける音がした。
――何を着るのか。何を読むのか。どこへ行くのか。
尋ねられれば、また答えなくてはならない。
別の部屋を用意させようかと呼び鈴へ手を伸ばしたところで、扉が叩かれた。
アザリアが薄い上着を羽織り、昼間の客から聞いた話を持ってきた。
「あなた、そう言えば、ナイヤガラ家の若奥様が、しばらく夜会への出席を控えられるそうですわ」
「噂なら、本人たちが公にするまで話すものじゃない」
「でも、本当なのでしょう?」
――アプリコットに子供ができたらしい。
アザリアは自分の腹へ手を添えた。
「でしたら、わたくしたちもそろそろ考えてよろしい頃ですわね」




