第二十四話 続きを急がなくていい
翌日の午後、キャサディはナイヤガラ家の新居を訪れた。
王都の学術院から馬車で少し離れた、煉瓦造りの屋敷だった。
侯爵家の本邸ほど広くはない。だが夫婦二人で暮らすには十分で、裏手には小さな庭と、資料を運び込める別の入口がある。
「この入口は、ヘルムート様がお決めになったのですか?」
案内されながら尋ねると、アプリコットは首を横に振った。
「わたくしですわ。玄関から地図や泥のついた道具を運び込まれたら、絨毯を毎回外さなくてはならないでしょう?」
「最初に一度、玄関から入れました」
後ろからヘルムートが言った。
「まあ」
「結婚した翌日に、ですわ」
アプリコットが振り返る。
「箱を三つも」
「二つだ」
「大箱が二つと、細長い筒が一つです」
「筒は箱じゃない」
「玄関を塞いだ荷物としては、同じですわ」
「その話は、もう終わったと思っていた」
「今、思い出しましたの」
「では、客間じゃなく居間で聞こう。キャサディ嬢もそちらへ」
ヘルムートは先に廊下を曲がった。アプリコットが小声で言う。
「この家の主人は、客を迎えた時くらい、昔の失敗を聞かなかったことになさらないのです」
「聞こえている」
「聞かせましたもの」
居間のテーブルには、茶と果物の焼き菓子が用意されていた。
壁際の棚は、半分が本で埋まっている。残り半分には食器と、途中まで組み立てられた小さな水路の模型が並んでいた。
「これは何です?」
キャサディが尋ねる。
「水の流れを見るための模型ですわ」
「食器棚に?」
「仮置きだ」
「三日前からですわ」
「仮置きに期限はない」
「あります。明日までです」
アプリコットはキャサディの前へ茶を置いた。
「それで、今日は結婚祝いをお持ちくださったと伺いましたけれど」
「ええ。それと、少しお話が」
キャサディは包みを渡したあと、昨日の出来事を話した。
――母親が衣装部屋へ入られたこと。
――濃紺のドレスを着てほしいと言われたこと。
――一族の宝石を見せ、いずれ自分へ譲るのだろうと尋ねられたこと。
――衣装部屋の鍵を替えたこと。
「まあ」
アプリコットの手がカップの上で止まる。
「それで、あなたへ相談を?」
「アザリア様を説得してほしいと」
「……お断りになった?」
「もちろんです」
ヘルムートが焼き菓子を一つ取った。
「以前は、キャサディ嬢が話しても聞かなかったんだろう?」
「ええ」
「なら、今度は本人たちが話すことだ」
「私もそう申し上げました」
アプリコットは少し考えた。
「でも、侯爵夫人が鍵を替えるとは思いませんでしたわ」
「お母様は、自分の衣装棚へ触れられて、初めて分かったようです」
「キャサディのお部屋の時には、分からなかったのに?」
「自分の服ではありませんでしたから」
「それは……」
アプリコットが何か続けようとした時、ヘルムートが口を開いた。
「責めても、今さら元には戻らない」
「まだ責めるところまで申し上げておりませんわ」
「では、続けて」
「でも、あなたのおっしゃるとおりです。キャサディが無事にこちらへ嫁いでいらっしゃるなら、侯爵夫人の気づきが遅かったことを、今から細かく数えても仕方ありません」
話がそこで止まった。
キャサディは少し驚いた。以前のアプリコットなら、そこから侯爵夫人が何を見落とし、どこで判断を誤り、これから何をすべきかまで続いたはずだ。
「コッティ様……」
「何です?」
「今のお話は、もう終わりですの?」
「ええ。続きはございますけれど、今すぐ全部お話しする必要もないでしょう?」
アプリコットは菓子皿をこちらへ寄せた。
「それより、エドガー様とはどうですの? 刺繍台は使いやすい場所へ置けました?」
「はい。午後の日差しが強くない部屋です」
「窓の高さは?」
「椅子へ座った時に、手元へ光が入ります」
「それなら――」
アプリコットは一度、ヘルムートを見た。
「何だ?」
「いえ。そのあと、庭の木が伸びた時に日差しが変わるかもしれないと思ったのですけれど」
「それは春になってから見ればいい」
「そうですわね。今、心配することではありませんわ」
話は、そこでまた止まった。
ヘルムートは茶を飲み、模型の横に置かれた覚え書きを取る。
「明日までに模型を移す話だが」
「あら、今、そのお話をなさるの?」
「君が明日までと言っただろう?」
「お客様がお帰りになってからにしてくださいませ」
「分かった」
覚え書きを元の場所へ戻す。
言葉が途中へ置かれても、誰も困っていなかった。あとで続きを話せることを、二人とも知っている。
「あの…… コッティ様?」
キャサディはもう一度呼んだ。
「はい?」
「以前より、お話が短くなりました?」
「そうでしょうか」
「短くなったというより…… 急がなくなったような」
「まあ」
アプリコットは少し考え、隣の夫を見る。
「ヘルムート様は、途中でお話を終えても、続きを覚えておりますから」
「君も覚えているだろう?」
「わたくし一人が覚えていても、相手が忘れたら最初からですわ」
「私が忘れたことがあるか?」
「一度」
「いつだ?」
「南部の麻袋の話です。三日後に続きをとおっしゃって、四日目までお忘れでした」
「一日だけだ」
「今も覚えております」
「なら、お互いに問題ない」
キャサディは笑った。アプリコットも笑い、菓子を一つ取る。
「それで、お母様のお話ですけれど」
「まだ続きが?」
「少しだけ。衣装部屋の鍵は替えたそうですが、宝石は別の場所へ移したほうがよいとは思いますわ」
「なぜです?」
「使用人の鍵まで、すべて替えたとは限りませんもの」
「ああ…… なるほど」
「でも、それをお母様へ伝える役は、私ではありませんわ」
「ええ。今度は侯爵夫人ご自身で考えていただきましょう」
ヘルムートが空になった菓子皿を見る。
「話は終わったか?」
「ひとまず」
「では、次の皿を頼もう」
「ご自分で呼び鈴を鳴らしてくださいませ」
「客の前だ」
「この家の主人でしょう?」
「その点には反対だ」
「何に反対なさるのです!」
キャサディは呼び鈴へ手を伸ばした。
「私が鳴らしますわ」
「客にさせることじゃない。私がやる」
ヘルムートが先に呼び鈴を鳴らした。
*
アプリコットが結婚して最初に覚えたのは、ヘルムートが朝に弱いことだった。
夜遅くまで資料を読んだ翌日は、起こしても返事だけは立派だ。
「……起きている」
「目を閉じたままですわ」
「……考えている」
「何を?」
「……今、考える」
そこでまた静かになる。
結婚前は、調査の日程に遅れたこともない人だった。外へ出る日は自分で早く起き、家にいる日は使用人に任せきっていたらしい。
朝食が冷めること、昨夜も同じことをしたこと、せめてパンだけは食べてほしいこと。アプリコットが順に告げると、ようやくヘルムートが片目を開けた。
「君は朝からよく話せるな」
「まだ三つしか申し上げておりません」
「一つに聞こえた」
「まとめ方がよかったのでしょう」
そう言ってまた目を閉じたので、アプリコットは掛け布へ手をかけた。ヘルムートも端をつかみ、しばらく無言で引き合う。
「横暴だ」
「今日は一緒に庭を見るとおっしゃったでしょう」
「覚えている」
「では、起きて」
先に手を離したのはヘルムートだった。寝台へ座り、乱れた髪をかき上げる。
「君、少し容赦がなくなったな」
「結婚したからですわ」
「理由になっているか?」
「なっております」
アプリコットは衣服を渡し、先に部屋を出た。
*
屋敷の裏庭には、細い水路が一本通っていた。
以前からあったものを修理し、雨水が溜まる場所へ小さな池を作る予定になっている。
朝食を終えると、二人は庭師と一緒に水路を見て回った。
庭師は途中で流れを分け、花壇の下へ逃がす案を示した。ただ、強い雨が続けば斜面の土が流れるおそれがある。
「なら、根が土を押さえる草を植えたらどうでしょう」
「冬に枯れる種類ですので、春先が問題になります」
ヘルムートは棒を立てた場所から池まで歩き、春だけ板で流れを変える案を出した。庭師は、毎年の設置と交換が必要になると答える。
アプリコットは池の予定地へしゃがみ、土を少し掘った。
「石を入れて、草も植える。春だけ板を使う。三つとも行うのは?」
「小さな庭には大げさだ」
「でも、ここで試せますわ」
「試すために家を買ったわけではない」
「庭がある家をお選びになったのは、あなたでしょう?」
二人の話を聞いていた庭師が咳払いをした。
まず石と草で様子を見て、春に崩れるようなら板を使う。それで話はまとまった。
「それで、果樹はどちらへ?」
「その話は昼食後だ」
「なぜ?」
「君は今から始めると、池の話へ戻る」
「戻りませんわ」
「昨日も同じことを言った」
昨日は台所の排水だった、と言い返しかけて、アプリコットは口を閉じた。庭師が笑いをこらえるように口元へ手を当てる。
「庭師まで」
「味方が増えたな」
「増やしたのはあなたですわ」
*
昼食のあと、果樹の場所を決める話は本当に再開された。
ヘルムートは午前中の図を食堂へ持ってきて、日当たりのよい南側を指した。
風を防ぐため塀の角だけ少し高くする。ただし隣家の光を遮らない高さを明日測る。
そこまで決めたところで、午後から学術院へ行く時間になった。
「雨なら延期だ」
「分かりました」
「反対しないのか?」
「雨の中で測っても、紙が濡れますもの」
ヘルムートが少し笑った。
「前より待てるようになったな」
「以前のわたくしは、それほど待てませんでした?」
「待てないというより、次に話せる保証がないと思っていたみたいだ」
ああ、とアプリコットは思う。
婚約していた頃は、ジョナサンの機嫌や予定を見ながら話していた。
今日聞いてもらえなければ、次はいつになるか分からない。途中で話を切られれば、残りを覚えているのは自分だけだった。
だから一度に全部伝えた。
前提も理由も、起こりそうな問題も、できるだけ短い時間へ詰め込んだ。
「今は、明日でもよいと思えますわ」
「明日、私が忘れていたら?」
「その時は、塀、と一言申し上げます」
「果樹の話だろう」
「ほら、もう違っております」
ヘルムートは図の端へ、大きく「果樹」と書いた。くすくす笑うアプリコットに促され、その横へ「塀」も足す。
二つの言葉が並んだのを見て、アプリコットはようやく席を立った。
*
結婚から半年が過ぎる頃には、屋敷の使用人たちも二人の話し方へ慣れていた。
食事中に仕事の話が始まれば、料理を下げる時間を少し遅らせる。言い合いになれば茶を追加し、どちらかが「続きはあとで」と言えば片づけを再開する。
そして翌朝には、同じ話がきちんと続いている。
模型は食器棚から書斎へ移された。代わりに、庭の土を入れた小箱が三つ置かれた。
「今度は何ですの?」
「乾き方を比べている」
「なぜ食器棚で?」
「日当たりがちょうどいい」
窓辺は風が当たる。専用の棚までは要らない。そう言い張ったヘルムートだったが、三日後には裏口の近くへ小さな棚が置かれた。土の箱も、濡れた道具も、そこで乾かせる。
アプリコットは札をつけた。
――調査道具。食器を置かないこと。
「食器を置く者はいない」
「あなたなら、外でお茶を飲んだあとに置きそうです」
「否定できない」
「では必要ですわ」
札はそのまま残った。
*
秋の終わりに、南部から最初の調査報告が届いた。
二人は夕食後、暖炉の前でそれを読んだ。岩盤が予想より浅く、水路の経路を変える必要がある。掘削を続ければ費用が増え、迂回すれば距離が延びる。
「高低差は?」
「明日、学術院で確認する」
「別の地図が書斎にあるのでしょう。取ってまいりましょうか」
「今日はここまでにしよう」
ヘルムートは報告書を畳んだ。
「まだ早いですわ」
「君、さっきから目をこすっている」
「暖炉が明るいからです」
「眠い時も同じことをするだろう?」
あと一枚だけ、とアプリコットは粘ったが、ヘルムートは報告書を渡さなかった。
「私は続きを忘れない。岩盤と迂回路だろう」
「高低差も」
「それもだ」
アプリコットは地図を畳み、報告書の上へ置いた。
「では、明日の朝に」
「ああ。起きられたら」
「起こします」
「掛け布は取るな」
「起きれば取りません」
ヘルムートが暖炉の火を小さくし、アプリコットは報告書を抱えた。
話の続きは、翌朝もそこにある。
もう、誰かが忘れる前に、急いで全部言う必要はなかった。




