第二十三話 今になって相談されても
オルスタイン侯爵夫人がベルチェスター家を訪れたのは、衣装部屋の鍵を替えた翌日だった。
先触れには、娘と二人で話したいとだけ書いた。
キャサディからの返事は、昼食後なら時間を取れる、という短いものだった。
馬車を降りると、ベルチェスター家の玄関にはキャサディ本人が立っていた。
「お母様。ようこそお越しくださいました」
「急にごめんなさいね」
「いいえ。こちらへどうぞ」
娘の声は穏やかだった。
婚礼からまだそれほど日がたっていない。髪の結い方や衣装は以前と大きく変わらないが、手には見慣れない鍵束があった。
「それは?」
「家の鍵です。今日は食料庫の棚を確認しておりましたので」
「もう、そのようなことまで任されているの?」
「義母上と一緒に覚えております。最初から全部は無理ですから、今日は保存した果物と砂糖だけです」
キャサディは鍵束を腰へ戻した。
「一度にたくさん覚えると、どれがどの鍵か分からなくなりますもの」
「そうね」
母親は、その鍵をもう一度見た。昨日、自分の衣装部屋につけさせた新しい鍵より、少し小さい。
通された居間には、あの刺繍台が置かれていた。
窓の向きも、高さも合っている。午後の日差しが直接当たらないよう、薄い布が片側だけ引かれていた。
枠には途中まで刺した花の模様が残っている。
「ここへ置いたのね」
「ええ。エドガー様が、最初に場所を決めてくださいました」
「使いやすい?」
「とても」
キャサディは母親を長椅子へ案内し、自分は向かいへ座った。
「それで、お話とは?」
茶が運ばれる前に尋ねられた。母親は用意してきた言葉を一つずつ思い出していく。
「……アザリアのことなの」
「はい」
「昨日、私の衣装部屋へ来たのよ。アプリコット嬢の婚礼の記事を見て、ナイヤガラ侯爵夫人と同じ色のドレスを着てほしいと言い出して」
「濃紺ですか?」
「知っているの?」
「新聞で見ましたから」
キャサディは膝の上で両手を重ねた。
「それだけではないの。私の宝石を見せてほしいと。一族の品を自分も受け継ぐのだろう、と言うのよ」
「そうですか」
「私が死んだあとの話まで、今からするような言い方で」
キャサディは茶卓の端へ目をやった。
侍女が茶を運んできたところだった。二人分を置き、扉を閉めて出ていく。
「お母様。お茶を」
「ええ」
カップへ手を伸ばす。
以前、アプリコットが婚約解消の話を持ち帰った時、自分も同じことを言った。
――まずお茶を飲みなさい。
娘へ向かって、何度も。
「それで、どうなさいました?」
「部屋から出てもらったわ。鍵も替えさせたの」
「そうですか」
返ってくる言葉が、また同じだった。
「キャサディ。私はあなたの言っていたことが、ようやく分かった気がするの」
「何をです?」
「アザリアは、アプリコット嬢を見ているのね。私と仲よくしたいのではない。ナイヤガラ侯爵夫人がしたことを、私にもさせたいだけなのよ……」
キャサディはカップを持ち上げ、少し飲んだ。
「私は以前、兄よりコッティ様を見ているのではないかとお母様に申し上げました」
「ええ」
「私の部屋を欲しがり、私の刺繍台と同じものを作ってほしいと言ったことも」
「ええ……」
「その時、お母様は、何とおっしゃいました?」
母親は返事を探した。
「……あなたが、アプリコット嬢を義姉にできなくて寂しがっているのだと」
「そうでしたね」
「ごめんなさい」
「はい」
短い返事だった。許したとも、許さないとも言わない。
「私、あの時は本当に、あなたが新しい義姉を受け入れられないだけだと思っていたのよ……」
「存じています」
「だから、アザリアと仲よくする時間が必要だと」
「それも伺いました」
「でも、違ったのね」
「今になって、私へ確認なさるのですか?」
キャサディは茶を卓へ戻した。
「私は怖いと申し上げました。起きたことを手帳へ書き、兄にもお父様にもお母様にも見せました」
「ええ」
「それでも皆様は、私が寂しがっている、意地悪に見ている、誤解しているとおっしゃったでしょう?」
「……そうね」
「私が家を出たいと言った時にも、兄の結婚で傷ついたからだと思われました」
「だって、あなたがエドガー様との結婚を急に早めたから」
「そうです。あの家へアザリア様が入る前に、出たかったからです」
キャサディは窓辺の刺繍台へ顔を向けた。
「大切なものを先に運び出したのも、触られたくなかったからです」
「私は、それを……」
「嫁ぐのを楽しみにしているのだ、とおっしゃいました」
「……ええ」
その時は、娘の結婚が急に決まったことを喜んでいた。
衣装を急がなくては。客を決めなくては。贈り物を用意しなくては。
キャサディが夜ごと荷物を箱へ詰め、家族の肖像まで置いていった理由を、尋ね直しもしなかった。
「お母様」
キャサディがこちらを見る。
「今更、私に、どうしてほしいのです?」
「どうして、と言われても…… 相談に乗ってほしいのよ」
「何を相談なさるのです?」
「これから、アザリアとどう暮らせばいいのか」
キャサディは首を振る。
「私には分かりません」
「でも、あなたは前から気づいていたでしょう?」
「気づいていたから、家を出ました」
「私にも出ろと言うの?」
「さあ。お母様の家でしょう?」
それはそうだった。
オルスタイン家は、侯爵夫人が長く暮らしてきた家だ。自分が嫁として入り、子供を育て、客を迎えてきた。
キャサディのように、別の家へ移ることはできない。
「では、私はどうすれば……!」
「ご自分でお考えください」
「キャサディ」
「婚約前から、私は何度も申し上げました」
声を荒らげることもなく、娘は続けた。
「アザリア様はコッティ様の服を真似ます。本を真似ます。言葉を真似ます。兄と話している時より、コッティ様の話をしている時のほうが楽しそうです。私のものまで見ています。怖いです、と」
「……分かっているわ」
「今、お母様が分かったことは分かりました」
「なら」
「でも、私が怖がっていた時、お母様は私のところへ来てくださいませんでした」
母親の指がカップの持ち手へ触れ、また離れた。
「私には、もう別の家があります」
キャサディは部屋を見回した。
「夫も、義父母も、私が嫌だと言えば、まず何があったのか聞いてくださいます。ここでは、部屋の鍵も私が持っています。誰かが勝手に開けることもありません」
「私は、勝手に開けさせたことなど」
「アザリア様が私の部屋へ入った日、お母様が通すよう命じました」
「……手伝いに来ただけだと思ったのよ」
「私がお断りしたあとでした」
言葉が続かなかった。
「お母様の衣装部屋へアザリア様が入った時、嫌だったでしょう?」
「ええ」
「自分の服を選ぶと言われて、宝石を見せろと言われて」
「嫌だったわ」
「私も嫌でした」
キャサディはそれだけ言って、茶を飲んだ。
母親のカップは、ほとんど減っていない。
「では、あなたはもう、何も話してくれないの?」
「お母様の話なら、聞きます」
「でも、助けてはくれないの?」
「何をすれば助けになるのです?」
「お願い、アザリアへ、あなたから話して」
「嫌です」
返事はすぐだった。
「なぜ?」
「私が話せば、アザリア様はまたコッティ様の話を始めます。私がどの品を持ち出したか、どの部屋で暮らしているか、何を使っているか尋ねるかもしれません」
「答えなければいいでしょう」
「それなら、会う必要もありません」
キャサディは卓の上の菓子皿を母親のほうへ寄せた。
「お母様は、ご自分のお部屋に鍵をつけたのでしょう?」
「ええ」
「では、鍵をお使いください。見せたくないものは見せない。触れてほしくないものには触れさせない。嫌だと伝える」
「それで分かってくれるかしら」
「分かっていただけるかどうか、まで、私に尋ねないでください」
キャサディは小さな焼き菓子を一つ取った。
「私は、分かってもらえませんでしたから」
*
母親が帰ったあと、キャサディはしばらく刺繍台の前に座っていた。
針を持ったものの、同じ場所へ二度糸を通しかける。
「疲れた?」
仕事から戻ったエドガーが、開いた扉から声をかけた。
「……少し」
「お母上、何の話だった?」
「ようやく、アザリア様を怖いと思ったそうです」
「何かされたのか?」
「衣装部屋へ入られて、宝石を欲しがられたと」
「ああ…… ようやく自分の番になったわけだ」
エドガーは上着を侍従へ渡し、キャサディの向かいへ座った。
「お母様は、私へアザリア様を説得してほしかったようです」
「断ったんだろ?」
「はい」
「じゃあ、それでいいさ」
理由を並べる必要もないらしい。キャサディは刺繍枠を膝へ戻した。
「コッティ様にも、お知らせしたほうがよいでしょうか」
「話したいんだな?」
「はい。あの方なら、笑ってくださる気がします」
「なら明日行けばいい。結婚祝いもまだ渡してないだろ?」
「急ではありません?」
「先触れを出せばいいさ。俺も一緒に行こうか?」
「今回は私だけで参ります」
「分かった。帰りは迎えに行く」
「子供ではありませんのよ」
「知ってる。でも、夕方は道が混む」
「では、お願いします」
「ああ」
エドガーは刺繍枠をのぞき込んだ。
「そこ、さっきから同じところを縫ってないか?」
「……見ていらしたの?」
「見えるところに座ってるからな」
「では、少し休みます」
「そうしろ。茶を頼もう」
エドガーが呼び鈴へ手を伸ばす。
キャサディは針を布から抜き、枠を刺繍台へ置いた。




