第二十一話 まず話を聞きなさい
学術院を訪ねた翌朝、アザリアは家令を居間へ呼んだ。
ジョナサンが朝食を終えて部屋へ戻ると、机の上には南部の地図と、昨日使っていた本が広げられている。
アザリアは新しい手帳を開き、家令へ指示を出していた。
「まず、近くの町から農具を作れる職人を探してくださいませ」
「あの…… 南部の町から、でございますか?」
「ええ。冬の間、農民へ仕事を教えていただきますの」
「どちらの村で行いましょう?」
「水路を作る村ですわ」
「水路の予定地には、十二の村がございます」
「では、一番大きなところへ」
「人口でしょうか。農地の広さでしょうか」
「……人の多いところです」
「どの仕事を教えるかによっても、向いている村が変わります。農具の修理でしたら鍛冶場のある村。麻袋でしたら、麻を扱う者がいる場所のほうがよろしいかと」
「それも調べてくださいませ」
家令はそれには返事をせず、手元の紙へ目を落とした。
「それから、羊毛を洗う建物も必要ですわ」
「そちらも南部へ?」
「もちろんです。羊がいるのでしょう?」
「放牧地はございます。ただ、刈った毛はリーフェル領側の町へ運び、そこで洗浄しております」
「なぜ、こちらで洗わないのです?」
「洗う場所と人手がないためです」
「ですから、作るのですわ」
アザリアは手帳へ何かを書き足した。
「建物を一つ用意し、冬の仕事にすればよいでしょう」
「水を多く使います」
「水路ができるではありませんか」
「農地へ引く水で羊毛を洗えば、下流の村から苦情が出ます」
「では、別に水を引いてください」
「どこからでしょう」
「それを調べるのが、あなたのお仕事ではありませんの?」
家令の手が止まった。
「アザリア」
ジョナサンは部屋へ入った。
「何をしているんだ」
「南部の仕事を考えておりますの」
アザリアは嬉しそうに手帳を持ち上げた。
「昨日、お義母様も、一緒に学べばよいとおっしゃいましたでしょう?」
「今君は、家令へ何を頼んでいた?」
「職人を探すことと、羊毛を洗う建物を作ることですわ。それがどうかいたしまして?」
「父上へ相談したのかい?」
「これからです。でも、先に必要なものを調べておいたほうが、お話も早いでしょう?」
「建物を作る場所も、費用も決まっていない」
「ですから、家令に調べていただくのです」
「その調査を誰へ頼むかも、父上が決めることだ」
「家令が調べるのではありませんの?」
アザリアが家令を見る。長くオルスタイン家へ仕えている男は、机の前に立ったまま答えた。
「……私の一存では、人を動かせません。侯爵様からご指示をいただきましたら、必要な担当へ連絡いたします」
「では、お義父様へお話しすればよろしいのね」
アザリアは手帳を閉じた。
「今、どちらにいらっしゃいます?」
「執務室でございます」
「参りましょう、ジョナサン様」
「僕も?」
「お二人でお話しなさいと、お義母様がおっしゃったではありませんか」
昨日の母親の言葉が、都合よく使われていた。
「父上は仕事中だ」
「領地のお話ですもの。お仕事でしょう?」
……間違ってはいない。けれど何かが違う。
ジョナサンは説明する言葉を見つけられないまま、アザリアと執務室へ向かった。
*
オルスタイン侯爵は管理人二人と書類を確認していた。
アザリアが入ってくると、管理人たちは立ち上がった。
「何かあったのか」
侯爵が尋ねる。
「南部について、いくつかご相談がありますの」
アザリアは空いた椅子へ座り、手帳を開いた。
「まず、農具を作る職人を招きます。農民へ技術を教えていただけば、冬にも仕事ができますでしょう?」
「誰の案だ」
「わたくしが考えました」
「いつ?」
「昨日、学術院のお話を聞いてからです」
「昨日?」
侯爵がジョナサンを見る。息子は何も答えなかった。
「次に、羊毛を洗うための建物を作ります。今はリーフェル領まで運んでいるそうですけれど、こちらで洗えば運ぶ手間も減ります」
「洗ったあとの毛は、どこへ売るんだ」
「今までと同じ商人へ」
「その商人は、洗った毛を買うのか?」
「買うでしょう?」
「なぜ分かると思う?」
「綺麗になっていれば、喜ばれると思いますわ」
「向こうで洗う分の値を引かれるかもしれん」
「では、その分を上乗せして売れば――」
「値を上げれば、別の土地から買うだけだ」
アザリアは手帳へ視線を落とした。
「それは、商人と話し合えばよいと思います」
「誰が話す?」
「管理人の方が」
「その間、今の仕事は誰がするんだ?」
「ほかの方へ頼めば……」
「誰にだ?」
侯爵の声が少し低くなった。部屋にいた管理人たちは、机の上の書類を見ている。
「……アザリア。お前は、南部に何人の管理人がいるか知っているか」
「《《今は》》存じません」
「羊毛を扱う商人の名は?」
「まだ」
「農具を作れる職人がいる町は?」
「それを調べていただこうと――」
「羊毛を洗うのに、どの程度の水が必要か」
「建物の大きさにもよるでしょう?」
「では、どの程度の建物を作るのだ?」
「そこまで細かいことは、これから決めますわ」
侯爵は椅子へ深く座った。
「……誰と?」
「皆様とです」
「何を決めるにも、先に分かっていることが必要だ」
「ですから、今から調べるのです」
「調べるには人と金が要る。すでに進めている仕事を止めることもある。思いつくたびに人を動かしていては、何も終わらん」
「でも、よい案かもしれませんでしょう?」
アザリアは引かなかった。
「調べる前から、できないと決めるのはよくないと思います」
「誰が、できないと決めた」
「先ほどから、難しいことばかりおっしゃるからです」
「難しいことを確かめずに始めれば、途中で止まる」
侯爵は管理人の一人へ顔を向けた。
「南部で、今動いている仕事を言ってみろ」
「春の洪水で傷んだ二つの橋を修理中です。西側では家畜の病が出たため、獣医と人を回しております。水路予定地の測量も、経路の見直しで一度止まりました。来週から再開する予定です」
「人手に余裕は?」
「ございません」
「新しい調査を入れたらどうなる?」
「測量か橋の修理を遅らせることになります」
「だそうだ」
アザリアは管理人を見る。
「……では、外から人を雇ってくださいませ」
「その金は、どこから出す」
侯爵に問われ、また手帳へ目を落とした。
「わたくしの持参金から」
「持参金の使い道は、勝手に決められん」
「わたくしのものなのに?」
「お前個人の小遣いではない。婚家へ入れた以上、家の財産と合わせ、条件に従って管理するものだ」
「でも、わたくしが持ってきた土地をよくするためですわ」
「その土地は、譲渡の手続きがまだ終わっていない」
「まだですの?」
「境界の確認が済んでいないからだ」
「では、早く済ませてくださいませ」
管理人の一人が、ほんの少し顔を上げた。それを見て、ジョナサンはようやく分かった。
皆、同じことを思っている。アザリアは、何も知らずに命じている、と。
「アザリア」
侯爵が手を組んだ。
「これらの案は、本当にお前が考えたのか」
「そう申し上げましたわ」
「どこで知った」
「本を読みましたし、学術院でも伺いました」
「どの本だ」
「地方の産業について書かれたものです」
「著者は?」
「……今は覚えておりません」
「学術院では誰に聞いた」
「案内してくださった方です」
「名は?」
「名乗っていらしたと思いますけれど」
アザリアの声が小さくなる。
「新聞には、アプリコット嬢が南部で職人を招く案を出したと書いてあったな」
侯爵の言葉に、アザリアは顔を上げた。
「ええ。でも、わたくしも考えました」
「羊毛の洗浄も?」
「記事に少しございましたけれど、よい案だと思いましたから」
「水路のそばに冬の仕事を作る話も?」
「それも」
侯爵は、机の引き出しから折り畳んだ新聞を出した。
記事の一部へ、赤い線が引かれている。
「ここには、まだ案の一つだと書かれている。職人を招く費用、商品の売り先、現地で必要な品を調べたうえで、実施するか決めると」
「だから調べようとしております」
「お前は、職人を探し、建物を作れと命じた」
「同じではありませんの?」
「違う」
侯爵の声が、昨日の研究官と同じになった。
「調べることと、始めることは違う。案を出すことと、決定することも違う」
「わたくしは、よくしたいと思っただけですわ」
「なら、まず話を聞きなさい」
アザリアの口が閉じた。
「誰が今、何をしているのか。どの金を使えるのか。誰へ頼めるのか。分からないなら尋ねろ。聞いた言葉だけを並べて、人へ命じるな」
「でも、アプリコット様は――」
「ここはアプリコット嬢の家ではない」
管理人たちは動かなかった。ジョナサンも、その言葉を聞いていた。
――ここはアプリコットの家ではない。
当たり前のことだった。
だがアザリアが結婚してから、屋敷の花も、食器も、客の席も、服も、話題も、少しずつ彼女の後を追っている。
「……今日は、ここまでだ」
侯爵が書類へ手を伸ばした。
「管理人たちは仕事へ戻れ。家令にも、アザリアからの指示だけで人を動かさないよう伝える」
「お義父様!」
アザリアが立ち上がった。
「わたくしの言うことは、何も聞いていただけませんの?」
「話は聞いた」
「では、どうして」
「聞いたうえで、今は行わないと決めた」
「まだ最後までお話ししておりませんわ」
「最後まで聞いても、必要な数字は出てこないだろう」
アザリアの目が赤くなった。
「……皆様、わたくしを何も知らない人だと思っていらっしゃるのね」
「知らないことを責めてはいない」
侯爵は椅子から立たなかった。
「知らないまま決めようとするな、と言っている」
アザリアは手帳を閉じ、部屋を出ていった。扉が強く閉まる。
しばらくして、侯爵は管理人たちへ謝った。
「すまん。余計な時間を取らせた」
「いいえ」
年長の管理人が答える。
「奥様が熱心でいらっしゃることは、よいことかと」
「本当にそう思っているか?」
「……熱心では、いらっしゃいます」
それ以上は言わなかった。だが、何を見ていたのかは分かる。
侯爵がジョナサンへ向き直った。
「お前は、昨夜もこの話を聞いたのか」
「ああ」
「何を言った」
「中身を理解してから話してくれ、と」
「それで?」
「母上が、最初から何でも分かる者はいないと」
「それはそうだ」
侯爵は新聞を畳んだ。
「だから、まず聞けと言っている」
*
昼食の席で、アザリアは侯爵夫人へ朝の出来事を話した。
「お義父様は、わたくしの案を何も聞いてくださいませんでした」
「まあ」
侯爵夫人は息子と夫を交互に見た。
「せっかく勉強しているのに、少し厳しすぎません?」
「話は聞いた」
侯爵が答える。
「でも、何もさせてくださらないのです」
「最初は小さなことから頼めばよいでしょう。いきなり建物を作るのではなく、職人がいるかだけ調べるとか」
「それにも人が必要だ」
「家令に聞けば分かるのでは?」
「家令は、何でも知っている魔法使いではない」
侯爵夫人は少し眉を寄せた。
「そのような言い方をしなくても」
「お前も、何でも簡単にできると思いすぎだ」
「私まで?」
アザリアが義母の腕へそっと触れた。
「わたくしは、家のお役に立ちたいだけですの」
「分かっていますよ」
侯爵夫人は、その手を包んだ。
「少し急ぎすぎたのね。お義父様も、そう言いたかっただけでしょう」
「そうでしょうか」
「ええ。順番に覚えていけばよいのよ」
また、普通の話へ戻された。
――熱心な嫁が、少し先走った。
それだけの話に。
侯爵は何も言わず、食事を続けた。
給仕の侍女が、アザリアの前へ皿を置く。その時、袖口から小さな紙片が落ちた。
侍女はすぐに拾い、何気ない動きで盆の下へ隠した。
ジョナサンには見えた。新聞から切り抜いた、アプリコットの記事だった。
侍女はアザリアへ渡さず、そのまま部屋を出た。




