第二十話 では、わたくしも話しますわ
学術院を訪れる日、アザリアは仕立てたばかりの服を着た。
深い緑色の上着に、飾りの少ない濃灰色のスカート。帽子も新聞の挿絵に近い小ぶりなものを選び、手には新しい革鞄を持っている。
「何を入れているんだい?」
馬車へ乗る前にジョナサンが尋ねると、アザリアは鞄を少し持ち上げた。
「手帳と筆記具ですわ。それから、地図をいただいた時に折らずに持ち帰れるよう、紙挟みも」
「地図をもらう予定なのか?」
「学術院ですもの。何か見せてくださるでしょう?」
アザリアは当然のように答えた。
*
馬車の中でも、何を見るかという話は出なかった。
代わりに、アプリコットが最初に学術院へ行った時、どの入口を使ったのか。誰に案内されたのか。食堂で何を食べたのかと、ジョナサンへ尋ねた。
「僕は一緒に行っていないから知らないよ」
「じゃあ、ヘルムート様から、お聞きになったことは?」
「……なぜ僕が聞くんだ」
「以前、婚約なさっていたのでしょう?」
だから今の婚約者との外出についても知っているはずだと、アザリアは思ったらしい。
「それは、婚約を解消してからのことだ」
「でも、共通のお知り合いからお耳に入ることもありますでしょう?」
「ないよ」
アザリアは残念そうに窓の外を見たが、しばらくすると、帽子の位置を直すために小さな鏡を出した。
鏡の中の自分を確かめ、新聞から切り抜いた挿絵も横へ並べる。上着の襟を少し引き寄せ、帽子を右へ傾けた。
「どうでしょう?」
「何が?」
「似ております?」
ジョナサンは返事をしなかった。
「服は似ているんじゃないか」
「服だけ?」
アザリアはもう一度鏡を見た。
*
学術院では、四十代ほどの研究官が案内を担当した。
オルスタイン侯爵家からの申し入れであるため、南部水路に関する展示も用意されている。古い地図、現在の計画図、水量を記録した表が、大きな机の上に並べられていた。
「こちらが、先日の調査を受けて修正を検討している経路です」
研究官が二本の線を示す。
「当初はこちらを通す予定でしたが、現在使われている生活用水へ影響が出る可能性がありまして」
「アプリコット様が見つけたのですわね?」
アザリアがすぐに尋ねた。
「フラクタル嬢からも指摘がございました。現地の案内役から聞き取った内容を、調査団が確認しております」
「やはり、アプリコット様が」
「案内役が最初に話したのですか?」
ジョナサンが地図を見ながら尋ねた。
「はい。調査報告には生活用水として使われていることが書かれておらず、現地で初めて確認しました」
「では、以前の調査団が見落とした?」
「見てはいたのでしょう。ただ、今回の工事へ関係するとは考えなかったようです」
ジョナサンにも、そこまでは分かった。
水路が残っていることは知っていた。だが、今も暮らしに使われていることを、計画へ入れなかった。
「どうして、そんなことが起きるのです?」
アザリアが尋ねた。
「調査の目的が、農地へ水を引くことに偏っていたためでしょう。何を見るかを先に決めると、それ以外のものを記録から落とすことがあります」
「まあ。難しいのですね」
アザリアは手帳を開いた。研究官が次の地図へ移る。
「こちらは、新しい経路の候補です」
「アプリコット様は、どちらがよいと?」
「まだ結論は出ておりません」
「でも、ご意見はあったのでしょう?」
「いくつか。ただ、土地の所有者と地面の高低を確認しなくては決められません」
「どのようなご意見でしたの?」
「北側へ回せば距離は短くなりますが、林を一部切る必要があります。南側は遠くなり、工事費が増える。中央を通す案は、地方官の親族が持つ土地へ偏るおそれが――」
「それは、新聞に載っておりましたわ」
アザリアは手帳へ何かを書きつける。
「地方官の方が、ご自分の土地へ水を引こうとしていたのでしょう?」
「まだ、そう決まったわけではありません」
「でも、アプリコット様は見抜かれたのですわね」
「フラクタル嬢も、そのような断定はしておりません」
研究官の声が少し硬くなった。
「制度を決める者の親族が、利益を得られる位置に土地を持っている。ですから、経路の決定と土地の配分を同じ地方官へ任せてよいか、再検討が必要だという話です」
「同じことでは?」
「違います」
今度の返事は短かった。アザリアは口を閉じる。
ジョナサンは、地図の二本の線を見た。
何が違うのか説明しろと言われれば、自分にも難しい。ただ、研究官が慎重に言葉を選んでいることは分かった。
そしてアザリアは、アプリコットが不正を見つけた話にしたいらしい。
「こちらの記録は、ご覧になりますか?」
研究官が水量表を示した。
「ええ。ぜひ」
アザリアは前へ出た。
表には、月ごとの数字が細かく並んでいる。しばらく見ていたが、やがて一つの欄を指した。
「この年だけ、ずいぶん水が多いですわね」
「雨の多かった年です」
「では、この年を基準にすれば、多くの農地へ水を引けますわね」
「毎年この量があるわけではありません」
「少ない年の分まで、貯めておけばよろしいのでは?」
「どこへ?」
「池か何かを作って」
「その場所と費用を、これから調べることになります」
研究官は次の資料を出さなかった。
「ほかに、ご質問は?」
「まだ、全部見ておりませんわ」
「こちらにご用意したものは以上です」
「古い地図は?」
「今お見せしたものが、公開できる範囲です」
「でも、アプリコット様は、もっとたくさんご覧になったのでしょう?」
「彼女は調査協力者ですから」
その一言で、アザリアは黙った。新しい革鞄は、最後まで空のままだった。
*
帰りの馬車で、アザリアは長い間、手帳を読んでいた。
「何を書いたんだい?」
「今日伺ったことですわ」
「見ても?」
「まだ、まとまっておりませんの」
手帳を胸元へ引き寄せる。
「家へ帰ったら、お話しいたしますわ」
「僕に?」
「ええ。ヘルムート様も、アプリコット様のお話を最後までお聞きになるそうですもの」
ジョナサンは窓の外へ目を向けた。
街路に並ぶ店は、少しずつ夕方の支度を始めている。パン屋の前では、店員が日除けを巻き上げていた。
「……僕はヘルムートではないよ」
「夫が妻の話を聞くことに、学者かどうかは関係ございませんでしょう?」
「……それはそうだけれど」
「では、聞いてくださいませ」
アザリアは満足したらしく、また手帳を開いた。
*
夕食後、アザリアは居間の机へ地図帳と本を並べた。
「南部の水路について、お話しいたしますわ」
ジョナサンは長椅子へ座った。
「今日、聞いた話を?」
「それだけではありません。帰ってから、本でも調べましたの」
本には何本もの紙片が挟まれていた。
「まず、水は高いところから低いところへ流れますでしょう?」
「ああ」
「ですから、高いところから水路を引けばよいと思いますの」
「どの高いところから?」
「山ですわ」
「南部に、水路へ使える川のある山が?」
「それは、地図を見れば分かるのでは?」
アザリアが地図帳を開く。王国全体の山と川が描かれた、大まかな地図だった。村も土地の傾きも載っていない。
「それでは分からないよ」
「でも、川はこちらにございます」
指した川は、南部水路の予定地からかなり離れている。
「そこから引けば、長すぎる」
「長くても、水が来るならよいのでは?」
「工事費は?」
「持参金をお使いくださいませ」
「君の持参金を?」
「そのために、リーフェル家は多く用意したのでしょう?」
ジョナサンは少し身を起こした。
「君の持参金は、すべて水路へ使うための金じゃない。家のためにどう使うか、父上たちと決めるものだ」
「では、いくらなら使えます?」
「今ここでは決められないよ」
「……ヘルムート様なら、計算してくださるでしょうに」
「なぜ、そこで彼が出るんだ」
「アプリコット様のお話には、すぐ必要な数字を出してくださるそうですわ」
「彼は研究官だ。仕事だから調べている」
「あなたも、オルスタイン家を継ぐ方でしょう?」
アザリアは本を閉じた。
「領地のことを、もっとご存じでもよいのではありません?」
「僕は必要なことを管理人から聞いている」
「では、今の水路について教えてくださいませ」
「まだ調査中だろう?」
「どこまで調査が済んでいるの?」
「それは父上か管理人へ――」
「ねえ、どうしてあなたは、ヘルムート様のようにお話しできませんの?」
部屋の隅で、侍女が茶を注ぐ手を止めた。
「僕は学術院の人間ではない」
「でも、わたくしの夫ですわ」
アザリアは本をもう一度開く。
「夫婦で意見を交わすのは、よいことなのでしょう?」
「意見を交わすなら、まず君の意見を聞かせてくれ」
「先ほどから申し上げております」
「山から川の水を引き、君の持参金を使うこと?」
「そこだけではありませんわ。水を貯める池も必要ですし、地方官の親族が土地を取らないようにしなくてはなりません。それから、冬の仕事も作ります」
「何を作るんだ」
「農具や麻袋です」
「誰が?」
「農民ですわ」
「農具を作れるのか?」
「職人を呼んで教えていただきます」
「その職人は、どこから?」
「近くの町からでしょう?」
「誰が来てくれる?」
「報酬を払えば」
「いくら?」
「それは……」
重なる質問に、アザリアの言葉が途切れた。
「本に書いていないのかい?」
「細かな数字までは……」
ジョナサンは本を取り、挟まれていた紙片の場所を開く。
そこには、地方の産業を育てるには職人の指導が必要だと、数行書かれているだけだった。
別の紙片を開くと、貯水池の役割について簡単な説明がある。
アザリアは、今日聞いた言葉と、新聞で読んだ言葉と、本で見つけた言葉を順番に並べていた。
「それで、君は何をしたいんだ」
「南部をよくしたいのですわ」
「どうやって?」
「今、お話ししたでしょう?」
「全部、アプリコットが話していたことじゃないか」
アザリアの指が止まった。
「同じ問題について考えれば、同じ案が出ることもありますわ」
「君は今日まで、南部の水路がどこを通るかも知らなかった」
「だから学び始めたのです」
「アプリコットがしていたから?」
「それの何が悪いのです?」
アザリアは本を取り戻した。
「よいと思ったことを真似るのは、いけないことですの?」
「……真似るなら、せめて中身を理解してからにしてくれ」
「わたくしが何も理解していないとおっしゃるの?」
「少なくとも、今の話では、何一つ決められない」
「決めるために、二人で話しているのでしょう!」
「だから、何を決めたいのか聞いているんだ!」
ジョナサンも声を上げた。アザリアは驚き、唇を結んだ。
しばらくして、目元を指で押さえる。
「コッティ様のお話なら、最後までお聞きになる方がいるのに」
「君はコッティじゃない」
「分かっておりますわ!」
今度はすぐに返ってきた。
「分かっているから、同じようになりたいのです。あの方のように考えて、あの方のように話して、夫と何でも相談できる妻に」
「なら、僕を見てくれ」
「見ております」
「見ていない」
ジョナサンは机に並んだものを指した。
「そこにあるのは、アプリコットが読んだ本と、アプリコットが話した案と、アプリコットが行った学術院のことだけだ。僕が何を知っていて、何が分からないのか、君は一度も聞いていない」
「聞けば、答えてくださるの?」
「答えられることなら」
「ヘルムート様は、答えられないことも一緒に調べてくださるそうですわ」
「また彼か!」
扉の外で足音がした。オルスタイン侯爵夫人が、何事かと顔を出す。
「まあまあ、二人とも、どうしたの?」
「お義母様」
アザリアはすぐに立ち上がった。
「わたくし、ジョナサン様と領地についてお話ししたかっただけですの。でも、何も分かっていないと言われてしまって」
「まあ」
侯爵夫人は息子を見た。
「せっかくアザリアが勉強を始めたのに、その言い方はないでしょう」
「母上。彼女は――」
「最初から何でも分かる人はいませんよ。あなたが教えてあげればいいではないの」
「僕にも分からないことがある」
「なら、一緒に学べばよいでしょう。若い夫婦が共通のことへ興味を持つなんて、素敵ではありませんか」
アザリアが小さくうなずいた。
「わたくしも、そう思ったのです」
「ねえ、ジョナサン。あなたも妻の努力を認めてあげなさい」
母親には、机の上に散らばった本が見えている。
そこへ挟まれた記事も、アプリコットの名が何度も書かれた手帳も、同じように見えているはずだった。
それでも母親は、学び始めた妻の本だと思っている。
「……分かりました」
ジョナサンは立ち上がった。
「今日は、もう疲れた。続きは別の日にしてくれ」
「明日なら、お聞きくださる?」
「明日になってから決める」
「ヘルムート様なら、いつ聞くかまで――」
「アザリア」
名前を呼ぶと、彼女は口を閉じた。
ジョナサンは居間を出る。廊下へ出ても、背後から母親の声が聞こえる。
「大丈夫よ。男の人は、急に難しい話をされると戸惑うものなの」
「わたくし、話しすぎたのでしょうか」
「少しずつにすればよいのよ」
話の長さではないのだ。
けれど、どう説明すれば母親に伝わるのか、ジョナサンにも分からなかった。




