第十九話 今のコッティ様
翌週、王都の新聞にアプリコットの記事が載った。
社交欄ではなく、南部水路の現地調査について、王立学術院が発表した記事だった。
調査へ参加した研究官の名に続き、協力者としてアプリコット・フラクタルの名がある。水路の予定地だけでなく、周辺の集落や工房も訪ね、冬季の仕事について聞き取りを行ったらしい。
記事の横には、小さな挿絵がついていた。馬車を降りるアプリコットが描かれている。
裾の短い濃色の上着に、足首まで覆う丈夫そうなスカート。帽子の飾りも小さく、片手には書類鞄を持っていた。
「こちらの服を作りたいですわ」
朝食の席で、アザリアが新聞をジョナサンの前へ広げた。
「調査へ行くのかい?」
「いいえ?」
「では、なぜ同じ服が必要なんだ」
「素敵ですもの」
アザリアは挿絵の上へ指を置いた。
「動きやすそうですし、今までのドレスより大人っぽく見えますわ。アプリコット様は、もう淡い色をあまりお召しにならないのかもしれません」
「調査中だからだろう。泥のつく場所へ、淡いドレスでは行けない」
「王都でもお召しになるかもしれませんわ」
「その時に考えればいいんじゃないか」
「その時では遅いですもの」
アザリアは新聞を畳み、脇へ置いた。
「それで今日、仕立屋を呼んでありますの」
「もう?」
「ええ。生地もいくつか持ってきていただきます」
ジョナサンはパンをちぎった。アザリアが何を着ようと、本人の自由だ。
これまでも彼女はアプリコットと似た色や髪形を好んでいた。それは結婚前から知っていたし、自分も落ち着いた装いのほうが似合うと思っていた。
ただ、最近は変わるのが早い。アプリコットの記事が出るたび、アザリアの好みも変わる。
「君は、今の服が好きだったのでは?」
「好きですわ」
「なら、無理に変えなくても」
「でも、アプリコット様はもう、こちらをお召しですもの」
返事になっているようで、何も答えていなかった。
*
仕立屋は午後にやってきた。これまでアザリアが頼んでいた店とは別の店だった。
「こちらは?」
居間へ入ってきた女性を見て、ジョナサンが尋ねる。
「フラクタル家がお使いになっている仕立屋ですわ」
「今までの店はどうしたんだ」
「悪くありませんけれど、少し古いと思いまして」
仕立屋の女性は挨拶を済ませると、卓の上へ生地を広げた。
濃い茶色。青みがかった灰色。深い緑。どれも丈夫そうだが、華やかさはない。
「新聞に載っていたアプリコット様のお召し物と、同じ形にできます?」
アザリアが挿絵を見せる。仕立屋はしばらく紙面を見たあと、首を傾けた。
「形だけでしたら。ただ、こちらは旅行用のお召し物でございます」
「存じていますわ」
「上着の内側には、紙や筆記具を入れるためのポケットをつけております。袖口も汚れにくい形にし、裾は馬車から降りる時に踏まない長さにいたしました」
「では、同じように」
「奥様は、どちらへお出かけになりますか?」
アザリアの返事が止まった。
「どちら、と申されましても」
「お乗りになる馬車や、歩かれる場所によって、生地の厚さを変えます。雨の多い土地でしたら、表面へ加工を施したほうがよろしいでしょう。長く歩かれるなら、靴との重なりも見なくてはなりません」
「王都で着るつもりですわ」
「王都のどちらへ?」
「学術院や…… そういう場所へ」
仕立屋は一度、ジョナサンを見た。
「学術院へお出かけになるご予定が?」
「今のところはない」
ジョナサンが答えると、アザリアが少し眉を寄せた。
「これから伺うかもしれませんでしょう?」
「誰に招かれて?」
「それは、まだ決まっておりませんけれど」
仕立屋は生地へ視線を戻した。
「では、まず王都の外出着としてお作りいたしましょうか。旅行用の形をそのまま使いますと、街中では重く、室内へ入った時にも暑うございます」
「でも、それでは同じになりませんわ」
「何と同じに?」
「アプリコット様のお召し物とです」
仕立屋の指が、生地の端で止まった。
「アプリコット様のお召し物は、ご本人のお出かけ先に合わせてお作りしたものです。奥様のご予定が違うのでしたら、同じ形にする必要はございません」
「必要かどうかは、わたくしが決めます」
アザリアの声が少し強くなる。
「失礼いたしました」
仕立屋は頭を下げた。
「では、同じ形でお作りします。ただし、旅に出られる場合は、改めて調整が必要になります」
「それで結構ですわ」
結局、アザリアは濃い緑の生地を選んだ。
「髪も、短く見えるようにまとめたいのです。アプリコット様は、帽子の中でどのようになさっていました?」
「そちらは髪結いへお尋ねくださいませ」
「ご存じないの?」
「……帽子を脱がれる場には同席しておりませんので」
アザリアは残念そうに新聞を見た。
挿絵の中のアプリコットは、小さな帽子を深くかぶっている。髪形までは分からない。
「では、同じ帽子を作った店を教えてください」
「帽子は現地で急ぎ用意されたと伺っております」
「現地の?」
「はい。王都からお持ちになったものが、雨で傷んだそうです」
アザリアは新聞を持ったまま黙った。どうやらどの店へ行けば同じものが買えるのか、尋ねるつもりだったらしい。
「帽子なら、こちらで似た形をお作りできます」
仕立屋が言った。
「……似た形ではなく、同じものがよかったのですけれど」
その声に、ジョナサンは初めて疲れを覚えた。
「アザリア」
「何ですの?」
「服くらい、自分に似合うものを作ればいいだろう」
「こちらが似合わないとお思い?」
「そうは言っていない。ただ、アプリコットと同じでなくてもいい」
「同じではありませんわ。生地の色も違いますもの」
アザリアは緑の布を胸元へ当てた。
「わたくしには、こちらのほうが似合うと思います」
仕立屋も、控えていた侍女も何も言わない。
「では、採寸をお願いいたしますわ」
アザリアは立ち上がった。
ジョナサンは居間を出る。廊下の窓から庭が見えた。
白い薔薇の横へ、最近になって青い花が植えられていた。アプリコットが現地調査で見つけた花について、新聞へ短い文章を寄せた翌日からだ。
庭師は、日当たりが合わないと反対したという。だがアザリアは鉢へ植えればよいと言い、並べさせた。
今朝、そのうちの二鉢が別の場所へ移されていた。葉が弱ったためだろう。
*
三日後、アザリアは学術院へ手紙を出した。
「見学を申し込みましたの」
夕食後、アザリアが嬉しそうに言う。
「見学?」
「一般の者も、紹介があれば入れるのでしょう?」
「誰に紹介を頼んだんだ」
「お義父様ですわ。オルスタイン家からお願いすれば、断られないと思います」
ジョナサンは父親を見る。
オルスタイン侯爵は、食後の酒へ口をつけたところだった。
「アザリアが学術院へ関心を持つのはよいことだ。若い夫婦で見てくればいい」
「僕も?」
「一人で行かせるわけにはいかないだろう」
アザリアが笑う。
「ヘルムート様は、アプリコット様とご一緒に地図をご覧になったそうですわ。私たちも、同じように過ごせたらと思いますの」
「僕は地図を見ても分からないよ」
「説明していただけばよろしいでしょう?」
「誰に?」
「学術院の方にですわ」
「何を聞きたいんだ」
「何を、と申されましても……」
アザリアは少し考えた。
「南部の水路について?」
「それはオルスタイン領にも関わる話だな。何を知りたい?」
「ですから、伺ってから考えますわ」
「水路のどの部分を?」
「難しいことを、今ここで決めなくてもよいでしょう?」
ジョナサンは父親へ目を向けた。侯爵は気にした様子もなく言う。
「学術院へ行けば、向こうが案内してくれる。お前も少しは領地のことを学んでこい」
「分かりました」
アザリアは満足そうにうなずいた。
「では、仕立てた服が間に合いますわね」
「学術院へ、旅行用の服で行くのかい?」
「アプリコット様も、同じようなお召し物でしたでしょう?」
「彼女は調査へ行ったんだ」
「学術院にも、そのまま出入りなさるかもしれませんわ」
「なぜ、そこまで彼女と同じにしたいんだ」
声が思ったより大きくなった。侯爵夫妻がこちらを見る。
アザリアも驚いたように瞬きをした。
「同じにしたいわけではありません」
「では、君は何をしたいんだ」
「わたくしも、今までとは違うことを始めたいのです」
「何を?」
「それを探すために、学術院へ行くのでしょう?」
順序が逆だった。
アプリコットは調べたいことがあったから学術院へ行った。現地へ出る必要があったから、あの服を着た。
アザリアは服を作り、学術院へ行き、そこで自分が何をするのかを探そうとしている。
「よいではありませんか」
母親が口を挟んだ。
「新しいことに興味を持つのは、悪いことではないわ」
「そうですわ、お義母様」
アザリアはすぐに笑顔へ戻った。
「ジョナサン様も、行けばきっと楽しいと思います」
「僕は――」
「アプリコット様とヘルムート様も、お二人で何度もお出かけになっているのでしょう?」
また、その二人だった。
「僕たちは、あの二人ではない」
「存じておりますわ」
アザリアは、なぜ言われたのか分からない様子で答えた。
「ですが、同じように仲のよい夫婦になりたいと思うことは、おかしいでしょうか」
侯爵夫人が微笑んだ。
「おかしくありませんよ。ジョナサンも、妻の望みに少しくらい付き合いなさい」
「……分かりました」
それ以上続ければ、自分だけが妻の努力を嫌がっているように見える。
アザリアは嬉しそうに、学術院へ着ていく服の話を始めた。
緑色の生地――小さな帽子――歩きやすい靴。
けれど学術院で何を見るのか、という話は、もう出なかった。
翌朝、仕立屋から仮縫いの服が届いた。アザリアは鏡の前で上着を羽織り、新聞の挿絵を横へ並べる。
「袖が少し違いますわ」
仕立屋が、アザリアの腕へ布を沿わせる。
「アプリコット様のお召し物は、作業の邪魔にならないよう細くしております。奥様のものは、室内でも動きやすいよう少し余裕を――」
「同じ細さにしてください」
「腕を上げにくくなりますが」
「構いませんわ」
アザリアは鏡の中の自分と、新聞の中のアプリコットを交互に見た。
「こちらのほうが、近くなりますもの」
ジョナサンは扉のところで足を止めたが、アザリアは一度も、鏡越しに夫を見なかった。




