第十八話 コッティ様はこうしていましたもの
結婚してひと月が過ぎた頃、アザリアは初めて客を招いた。
大がかりな夜会ではない。オルスタイン領の近くに屋敷を持つ三家と、侯爵夫人の従姉夫婦を招いた昼食会だった。
「最初から人数を増やして、皆様をお待たせしてはいけませんもの」
招待客の名簿を見せながら、アザリアはそう説明した。
ジョナサンも賛成した。
十人に満たない昼食会なら、多少不慣れでも大きな問題にはならない。両親も同席するし、家令や料理長は長くオルスタイン家へ仕えている。
「準備を手伝おうか?」
「大丈夫ですわ」
アザリアは楽しそうに首を振った。
「これからは、わたくしもこの家の女主人ですもの。お義母様にも相談しておりますし、以前の記録も見せていただきました」
「以前の?」
「アプリコット様が、お客様をお招きする時に作っていらしたものです」
ジョナサンの返事が少し遅れた。
「そんなものが残っているのか」
「ええ。お料理やお花、席の並べ方まで、とても細かく書かれておりましたわ」
アザリアは指先で紙の束を軽く叩いた。
「ですから、心配なさらないでくださいませ」
その言葉どおり、食堂は見事に整えられていた。
白い卓布の上には、淡い緑色の皿。中央には白薔薇と、細い銀色の葉を持つ草花が飾られている。
食前の飲み物には、酸味のある果実水が用意された。前菜は魚と香草を合わせた冷製料理。肉料理のあとは、薄く焼いた菓子へ木の実と蜜を添える。
……どれもジョナサンには見覚えがあった。去年の春、アプリコットとともに開いた昼食会と、よく似ている。
あの時は彼女が、料理長や家令と何度も話していた。誰が魚を好まない。誰は甘い酒を飲まない。どの夫人は冷える部屋が苦手だ。
ジョナサンには細かすぎて、最後まで聞いていなかった。
けれど、出来上がった席は評判がよかった。アザリアも同じようにできるなら、何も問題はない。
「とても綺麗ね」
最初に到着したエルディン子爵夫人が、花を見て褒めた。
「ありがとうございます。春らしくしたかったのです」
「もう初夏ですけれど、今日は涼しいから、よく合うわ」
夫人はそう言って笑った。
アザリアも笑い返したが、ジョナサンは窓の外を見た。
確かに庭の薔薇は、春の花を終えかけている。それでも食堂の中だけを見れば、おかしくはない。
客がそろい、席へ案内される。
――そこで最初の行き違いが起きた。
「わたくしはこちらですの?」
ベルモント伯爵夫人が、席札を手にして尋ねた。
「はい。そちらへお願いいたします」
アザリアが示したのは、テーブルの中央近くの席だった。夫人の右隣には、まだ二十歳になったばかりのハーゲン男爵家の令嬢がいる。
左隣は、口数の少ない老伯爵だった。
「まあ。今日は娘の隣ではないのね」
伯爵夫人は穏やかに言ったが、少し困った様子で周囲を見た。
「お席に、何か不都合がございました?」
「いいえ。こちらで結構よ」
夫人は座ったが、その声は小さかった。アザリアには聞こえなかったらしい。
ジョナサンは、彼女の娘を探した。
若いベルモント令嬢は、テーブルの反対側にいる。母親とは三人分ほど離れていた。
何が問題なのか、すぐには分からない。
やがて食事が始まると、伯爵夫人が右隣の令嬢へ何度も尋ねた。
「ごめんなさい。もう一度お願いできる?」
「ええと、先月、姉が王都へ参りまして……」
「王都へ?」
「はい」
「お父様が?」
「姉です」
男爵令嬢は、だんだん声が大きくなった。
ベルモント伯爵夫人は右耳が遠い、と以前、アプリコットが話していた気がする。左側からなら普通に会話ができるため、席を決める時には必ず向きを考えなくてはならない、と。
今日の席では、話し相手が右側にいる。しかも声の小さな若い令嬢だった。
反対側の老伯爵は、自分から話題を振る人ではない。
ベルモント伯爵夫人は何度か会話を試したあと、静かに食事を取るようになった。
次に、肉料理の皿が運ばれた。
「これは何のソースかね」
侯爵夫人の従兄、ブレンナー伯爵が給仕へ尋ねる。
「胡桃と香草でございます」
「……胡桃か」
伯爵は料理を見たまま、手をつけなかった。
「お口に合いませんでした?」
アザリアが尋ねる。
「いや。私は胡桃を食べると、喉が腫れることがあるのでね」
「まあ」
アザリアは料理長を見た。
「代わりのお料理を、すぐに」
「すでに用意しております」
給仕が皿を下げ、別の料理が運ばれる。伯爵は礼を言った。料理長が気づいていたなら、それで済む話だった。
ただ、アザリアは少し納得できないようだった。
「以前の献立にも、胡桃を使ったお料理がございましたのに……」
「以前?」
伯爵が尋ねる。
「去年、同じ時期に開かれた昼食会ですわ。アプリコット様がお決めになった献立を参考にいたしました」
「ああ。あの時、私は出席していないよ」
「そうでしたの?」
「妻だけだった。私は領地にいたのでね」
伯爵夫人が隣でうなずく。
「わたくしは胡桃が好きですから、いただいた覚えがありますわ」
「そうでしたのね」
アザリアは笑った。
「では、記録にお名前を書き忘れていたのかもしれませんわ」
料理長が何か言いかけたが、給仕の合図を受けて下がる。ジョナサンは果実水を飲んだ。
――料理が遅れたわけではない。ブレンナー伯爵も怒ってはいない。小さな行き違いだ。初めて客を迎えたのだから、これくらいは仕方がない。
食後、茶が運ばれた。香りの強い、身体を温める茶だった。
「まあ、懐かしいわ」
エルディン子爵夫人がカップへ顔を近づける。
「冬によくいただくものね」
「アプリコット様は、去年の昼食会でこちらを選ばれておりましたの」
アザリアが嬉しそうに答えた。
「去年は三月でしたでしょう?」
「ええ」
「今日は五月の終わりよ」
子爵夫人は笑いながら、扇を開いた。
「でも、今日は少し涼しいからいただけるわ。暑い日なら大変だったでしょうけれど」
開け放した窓から風が入り、花瓶の細い葉を揺らす。
昼食会は、そのまま何事もなく終わった。客たちは皆、アザリアの働きを褒めて帰った。
初めてにしては十分だった。オルスタイン侯爵夫人も、客の馬車を見送ったあとで、嫁の肩を軽く叩いた。
「よくできましたよ」
「ありがとうございます、お義母様」
「次は、もう少し人数を増やしてもよいでしょう」
「ええ。わたくしも、そう思っておりましたの」
アザリアは満足そうだった。ジョナサンもその場では何も言わなかった。
*
夕方、居間へ戻ると、昼食会に使った書類が机の上へ残っていた。
ジョナサンは席順を書いた一枚を取り上げる。
「アザリア」
「何ですの?」
彼女は長椅子へ腰を下ろし、昼食会で着ていた手袋を外していた。
「ベルモント伯爵夫人の席は、どうしてあそこにしたんだい?」
「どうしてとおっしゃいますと?」
「右耳が聞こえにくい方だ。右側に声の小さな令嬢を座らせたら、話ができないだろう」
「存じませんでしたわ」
アザリアは手袋を膝へ置いた。
「以前の席順を参考になさったのだろう?」
「ええ。アプリコット様が作られたものです」
机の端にある紙束を指す。
ジョナサンがめくると、去年の昼食会の席順が出てきた。
ベルモント伯爵夫人は中央近くの席。そこだけ見れば、今日と同じだった。
だが左側には大きな字で話す快活な夫人、右側には娘が座っている。
欄の端には、アプリコットの筆跡で小さな書き込みがあった。
――ベルモント伯爵夫人は右耳が聞こえにくいため、娘を右へ。左には声の通る方を。
その下にも、細かな文字が続いている。
――ブレンナー伯爵は欠席。夫人のみ出席。
――伯爵は胡桃を口にできないため、今後夫妻をともに招く場合は献立を変更。
――この茶は気温の低い日に限る。四月以降は軽いものへ。
ジョナサンは二枚目をめくった。
花の種類、日当たり、客同士の関係。誰が最近家族を亡くしたため、子供の話題を避けるべきか。誰と誰を離したほうがよいか。
席順の図より、周囲の書き込みのほうが多い。
「これを読んだのかい?」
「もちろんですわ」
「では、伯爵夫人の耳のことも書いてある」
「細かなことが、あまりに多くて」
アザリアは少し困ったように笑った。
「すべて覚える必要はないと思いましたの。席の並びとお料理が分かれば、同じようにできるでしょう?」
「……客が違えば、同じにはならないよ」
「でも、皆様は楽しんでくださいましたわ」
「ベルモント伯爵夫人は、ほとんど誰とも話していなかった」
「初めてお会いした方と、何を話せばよいか分からなかったのではありません?」
「聞こえなかったんだ」
「でしたら、ご本人がお席を替えてほしいとおっしゃればよかったでしょう?」
アザリアは本当に不思議そうだった。
「こちらが知らないことまで、先に考えるのは難しいですわ」
ジョナサンは、書き込みをもう一度見た。
アプリコットは知っていた。尋ねたのか、以前の失敗を覚えていたのか、家族から聞いたのか。
少なくとも、席札を並べる前に考えていた。
「次は、ここまで読むようにしてくれ」
「全部ですの?」
「必要だから書いてあるんだろう」
「でも、あまりに長いですわ」
アザリアは紙束へ手を伸ばし、最初の一枚だけを抜いた。
「アプリコット様は、どうして簡単なことまで難しく書かれるのでしょう。こちらの図だけなら、とても分かりやすいのに」
席順だけが描かれた紙を、自分の前へ置く。
「次は、もっと新しい記録を使いますわ。今のアプリコット様なら、きっと別のお花やお料理を選んでいらっしゃるでしょうし」
ジョナサンは答えず、残った紙束をそろえた。
一番上には、ベルモント伯爵夫人の名がある。
その横へ引かれた線の先に、小さな文字が三行続いていた。




