8話 この体、お好きにお使いください!
――翌日。
朝の光は容赦なく、しかしどこか清新だった。
小屋の裏手に設けた畑へ足を運ぶと、俺はその場で立ち尽くした。
「……は?」
思考が、言葉になる前に止まる。
そこにあったのは――実りすぎた畑だった。
試しに足元の土へ手を突っ込み、じゃがいもを一つ引き抜く。
「……でかっ!?」
反射的に声が裏返った。
それは、俺の知る“じゃがいも”の概念を、あっさりと裏切っていた。
一つ一つがバスケットボールほどの大きさで、しかもそれが数珠つなぎのように、わらわらと連なっている。
「何だこれ……これは本当にじゃがいもなのか……?」
呆然としたまま、視線を隣の畑へ移す。
――トマト。
……の、はずだった。
だが、そこに広がっていたのは畑ではない。森だ。
極太の茎が地面から天へと伸び、枝分かれし、まるで樹木のように空を覆っている。
その枝という枝に、赤黒く艶めく実が鈴なりにぶら下がっていた。どれも、人の頭ほどの大きさだ。
「……トマトって、こんな育ち方したっけ? しかもハート型って……」
異世界の常識か、【村作り】の暴走か。
どちらにしても、ツッコミが追いつかない。
「わ、私……」
横で息を呑む音がした。
「こんなに大きなお野菜、見たことないです!」
シズナが目を丸くし、畑を見渡している。
その表情は、恐怖よりも純粋な驚きと感嘆に満ちていた。
……俺もです。
心の中で、静かに同意する。
「それに……たった一晩で、こんなに立派に育つなんて……」
「……だよな」
現実感が追いつかず、乾いた笑いが漏れる。
「はは……」
笑うしかない。
これはもう、農業ではない。
奇跡の量産だ。
「あ、甘いです!」
不意に弾んだ声が耳に届いた。隣を見ると、シズナが両手で大事そうにトマトを持ち、遠慮がちに齧りついている。その仕草は、まるで宝物を確かめる子どものようで、どこか初々しい。
彼女に倣い、俺も一口かじった。
「……!」
思わず言葉を失う。
確かに、これは甘い。ただの野菜のそれではない。舌の上で果汁がほどけ、ほのかな酸味すら丸く抱き込んでいる。高級スーパーの棚に鎮座していそうな、出来のいいフルーツトマト——しかもありえないくらい大きく、噛み応えまで申し分ない。
「……っ」
微かな息を詰める音がした。
視線をやると、シズナの手が途中で止まっていた。つい先ほどまで嬉しそうに食べていたというのに、その指先はトマトを掴んだまま、宙に縫い止められたようだ。
そして、一瞬こちらを見た彼女の瞳が、妙に潤んで見えた。
……いや、それだけじゃない。
頬がほんのり赤い。落ち着きなく身じろぎし、呼吸もわずかに乱れている。まるで、胸の奥で何かが騒ぎ出したのを必死に抑えているような——そんな様子だった。
「……体調でも悪いのか?」
そう声をかけると、シズナはびくりと肩を震わせた。
「い、いえっ! ……も、問題ありません!」
必要以上に張りのある声。否定の言葉とは裏腹に、目は泳ぎ、視線は定まらない。
「……? なら、いいんだけどさ」
腑に落ちないものを胸に残しつつ、俺はそれ以上踏み込まなかった。問い詰めるほどのことでもない——そう判断したのだ。
再び手元に意識を戻し、俺はトマトを最後まで食べきる。
甘さは変わらず、喉を通る頃には、奇妙な違和感だけが後味のように残っていた。
隣では、シズナが小さく息を整えながら、視線を伏せている。
その沈黙が、やけに長く感じられた。
「リョウジ様」
トマトを収穫していると、不意に背後から落ち着いた声がかかった。
振り返ると、そこに立っていたのは、六十代ほどの女性だった。
背筋は伸び、くすんだ桃色の髪が整えられ、身なりからも品の良さが滲み出ている。
「ええと……」
言葉を探していると、
「おばあちゃん!」
シズナが弾むように駆け寄った。
彼女の隣に立ったシズナは、少し照れたように、それでも誇らしげに紹介する。
「リョウジ様、こちらは……私の祖母です」
祖母。
言われてみれば、目元や輪郭に、確かに面影がある。
……そうか。
胸の奥で、何かがほどける。
彼女は、すべてを失ったわけではなかった。
その事実に、俺はほんの少しだけ安堵した。
「ご紹介に預かりました」
女性は丁寧に一礼する。
「わたくしは、マツナと申します。シズナの祖母にあたります。この度は、ご挨拶が遅れましたこと、どうかお許しください」
「い、いえ……」
思わず手を振る。
「そういう堅苦しいのは、なしでお願いします。それに、俺の方こそ……勝手に色々作ってしまって、その……すみません」
すると、マツナはゆっくりと首を横に振った。
「どうか、顔をお上げください」
その声は、穏やかで、それでいて揺るがない。
「リョウジ様がおられなければ、我らはこの地で、野垂れ死んでいたことでしょう。
この御恩……一体、どのようにお返しすればよいのか……」
そう言って、彼女は背後に控えていた者たちへ視線を送った。
それに応じるように、数名の女性たちが、ゆっくりと前へ進み出る。
二十代前後だろうか。皆、一様に表情が硬く、視線は伏せがちだ。
「……?」
嫌な予感が、背骨を伝って上がってくる。
「先の戦で、夫を亡くした者たちです」
マツナの声は、淡々としていた。
「どうぞ――リョウジ様の、ご自由に」
「は? ……え!? ちょ、ちょっと待ってください!」
思わず、声を荒げていた。
「いやいやいや、何を言い出すんですか!?」
突然すぎる。
しかも、その女性たちの顔を見ればわかる。彼女たち自身も、覚悟と諦めをないまぜにした表情で、立ち尽くしている。
そりゃ、こんな顔にもなるわ……。
俺は深く息を吸い込み、頭を抱えた。
「……私たちなら、構いません!」
震える声を押し殺すようにして、一人の女性が一歩前へ出た。
「覚悟は、できております」
「どうか……この体、リョウジ様のお好きにお使いください」
「その代わり……子供たちを……どうか……」
続く声は、掠れ、言葉の端が震えていた。
彼女たちは――理解している。
自分たちが、何を差し出そうとしているのかを。
……そうか。
俺は、深く息を吐いた。
この人たちは、俺に体を差し出すことで、生存の保証を得ようとしているのだ。
それほどまでに、追い詰められている。
当然だろう。
この地には、まだ歩くことも覚束ない子供たちがいる。
彼らを守るためなら、自分の尊厳も、未来も、すべて切り売りする覚悟なのだ。
――母親という存在は、ここまで強いのか。
「……はぁ……」
思わず、ため息が漏れた。
そんなことをしなくても、一度差し出した手を、途中で引っ込めるつもりなど、最初からない。
俺は、できるだけ穏やかな声を選び、はっきりと言葉にした。
「そんなことをしなくても、助けますよ」
「……え?」
彼女たちの目が、揃って見開かれる。
「施しの見返りに、体なんていりません。俺は……そういうことを望んでいない」
沈黙。
しかし次の瞬間、困惑が恐怖へと変わった。
「……で、ですが……」
「私たちを無償で助けて……一体、リョウジ様に、どのような得が……?」
マツナをはじめ、女性たちの表情が曇る。
それは安堵ではない。警戒だ。
――もっと恐ろしい何かを、後から要求されるのではないか。
そう疑っている目だった。
……困ったな。
日本で生まれ、日本で育ち、「困っている人がいれば助ける」という価値観を当たり前のように刷り込まれてきた俺にとって、この反応は正直つらい。
だが、弱肉強食のこの世界では、無償の善意は、むしろ異常なのだ。
だからこそ――俺は条件を出すことにした。
「もちろん、タダで助けるとは言いません」
空気が、凍りつく。
ごくり、と誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。
顔を引きつらせ、俺の口からどんな無茶難題が飛び出すのかと、身構える者もいる。
「……すでに知っているかもしれませんが」
俺は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「俺は、この世界の人間じゃありません」
その瞬間――
鬼人族の大人たちの視線が、一斉にシズナへと向いた。
「あ、あの……えーと……」
シズナは、気まずそうに笑いながら、説明を始める。
俺が異世界から召喚された存在であること。
勇者――と呼ばれる立場であること。
正確には違うけど、まあいいか。
「――――っ!」
誰かが、息を呑んだ。
数人が、反射的に身構える。
魔族にとって、勇者とは外敵。
討たれ、滅ぼされてきた象徴だ。
だが――
「やめておきなさい」
静かな、しかし有無を言わせぬ声が響いた。
マツナだった。
彼女は一歩前に出て、皆を制する。
「リョウジ様、大変、申し訳ありません」
「いえ……その反応は、きっと正しいですよ」
俺は、苦笑しながら肩をすくめた。
「でも、俺は皆さんと敵対するつもりはありません。というか……」
少しだけ、自嘲を込めて続ける。
「人族の王には、役立たずだと捨てられましたから」
「……役立たず、ですか?」
マツナが眉をひそめる。
彼女の視線は、畑へ。
井戸へ。
そして、小屋へと向けられた。
目の前にある“結果”と、俺の言葉が、どうしても噛み合わないのだろう。
「この不毛の大地で水を湧かせ。一瞬で小屋を建て。一晩で、これほど立派な作物を育てた御方が……」
マツナは、はっきりと言った。
「役立たず……?」
そして、少し呆れたように、ため息をつく。
「……人族の王は、阿呆なのですか?」
その言葉に、俺は思わず吹き出しそうになった。
「それに……皆さんが、俺を恐れる必要はありません」
そう前置きしてから、俺は一呼吸おいた。
「……皆さんなら、分かるんじゃないですか? 俺の体が、どんな状態か」
視線が集まる。
シズナは、俺の病を一目で見抜いた。
ならば、他の鬼人族にも、同じ“眼”があるのではないか――そう考えたのだ。
そして、その推測は外れていなかった。
鬼人族の者たちは、互いに顔を見合わせ、やがて静かに目を伏せた。
そこにあったのは恐れではなく、察してしまった者の沈黙だった。
「……俺の世界の医者からは、もってあと一年だと言われています」
言葉にすると、胸の奥が、ひどく冷えた。
「それに、この体はもう……正直、ボロボロです。肺も、骨も、内臓も……。皆さんがその気になれば、俺なんて――片手で、簡単にひねりつぶせる」
だから、と。
「……恐れる必要はありません」
場に落ちた重たい空気を振り払うように、俺は無理やり笑ってみせた。
だが――続ける。
「――でも、俺は死を受け入れているわけじゃない。諦めても、いません」
言葉に、力を込める。
「この世界には、不思議な力がある。俺の世界では不可能だったことが、ここでは可能かもしれない。……この病を完治させる魔法、あるいは薬が、どこかに存在するかもしれない」
俺は、まっすぐにマツナを見る。
「皆さんには、その情報を教えてほしい。それが――俺が、皆さんを助ける条件です」
沈黙。
だが先ほどまでの張り詰めた沈黙とは、質が違っていた。
女性たちの表情から、こわばりが少しずつ溶けていく。
恐怖ではなく、理解が広がっていくのが分かった。
「……なるほど」
マツナが、ゆっくりと頷く。
「それならば……私どもにも、できることがございます」
差し出されたその手は、年老いていながらも、確かに力強かった。
俺は、迷わずその手を握り返す。
――交渉成立、ってところか。
「それと……もう一つだけ」
少し気恥ずかしくなりながら、付け加える。
「『リョウジ様』って呼ぶの、やめてもらえると助かります。元の世界では、ただの一般人――平民だったので……」
一瞬の静寂の後。
くすくす、と。
誰かが笑い、やがてそれが連なった。
「承知しました」
マツナが、穏やかに微笑む。
「では――リョウジ、と呼ばせていただきます」
「うん。それでいい。シズナも、呼び捨てで頼むよ。あと、敬語もなしで」
「……」
シズナは一瞬、言葉に詰まり――そして、きっぱりと言い切った。
「リョウジ様を呼び捨てになどできません! それに、目上の方にタメ口もできません!」
意外と頑固だった。
「まあ、シズナの好きにすればいい……」
「はい!」
思わず苦笑すると、また笑い声が広がった。
――こうして、俺はこの地で、
初めて“仲間”と呼べる人たちを得たのかもしれない。




