4話 この土地を所有しますか?
「……マジで、瞬間移動した」
言葉は乾いた独り言として、喉の奥から零れ落ちた。
生き残った鬼人族が身を寄せて暮らす村へ向かう――そう決まったはいいが、問題はその道程だった。森を越え、山を越え、あるいは人目を避けながら国境を渡るのか。そう思っていた矢先、シズナは静かに胸元へ手を伸ばし、首から提げていた首飾りを取り外した。
そこに嵌め込まれていたのは、深い緑を湛えたエメラルド。 陽光を受けてなお、内側から淡く脈打つような輝きを放つそれは、一目でただの装飾品ではないと分かる代物だった。
「それは……?」
思わず尋ねると、シズナは宝石を両手で包み込むようにし、少しだけ誇らしげに、けれどどこか懐かしむような声音で答えた。
「鬼人族に代々伝わる秘宝です。この宝石の中には特殊な術式が封じられていて……血を代償に、思い描いた場所へ転移することができるのです」
要するに、魔法の道具。 それも、瞬間移動を可能にするという、とんでもなく希少な代物だ。
「……凄いのを持ってるんだな」
「母が……最期に託してくれたんです。『これで逃げなさい』って」
その一言で、すべてを察してしまった。大森林での戦い。鬼人族が追われ、血を流し、命を落としていった戦い。その中で――彼女の母もまた、生きては戻らなかったのだろう。
「……そうか」
それ以上、軽々しく言葉を続けることができなかった。
余計なことを聞いてしまった、という後悔が胸に沈む。
だが、シズナは首を横に振り、まるでこちらの心中を見透かしたかのように微笑んだ。
「気にしないでください。お陰で……リョウジ様と出会えたのですから」
その笑顔が、あまりにも澄んでいて、眩しかった。
胸の奥を、じわりと焼くような何かが走る。
――あかん。
この子、出来すぎだろ。
「では……私の手を、握ってください」
「あ、ああ……」
促されるまま手を差し出す。
アラサーのおっさんが、中学生くらいの年頃の娘さん――しかも、非の打ちどころのない美少女と手を握る。
やましい気持ちは断じてない。断じてないが、心拍数が仕事を放棄し始めるのはどうしようもなかった。
その瞬間だった。
エメラルドが、まるで内側から爆ぜるかのように光を放った。
視界が白に塗り潰され、足元の感覚が掻き消える。上下も前後も分からないまま、世界そのものが裏返るような浮遊感に呑み込まれ――
次の瞬間。
そこは、あの薄暗い路地ではなかった。
見渡す限り、生命の気配を失った大地。ひび割れた地面が果てしなく続く、枯れ果てた荒野のど真ん中だった。
照りつける太陽は容赦なく、空気は焼けつくように重い。
「あっつ……」
思わず漏れた一言は、乾いた熱風にあっさりと攫われ、荒野の彼方へと消えていった。
本当に――こんな場所に、人が住んでいるのだろうか。
荒野に立ち尽くしながら、俺は無意識のうちに眉をひそめていた。
照りつける陽は容赦なく、足元の大地はひび割れ、風は乾ききった砂と熱だけを運んでくる。水も、緑も、命の匂いすら感じられない。
とてもではないが、生き物が腰を落ち着けて暮らせる環境には思えなかった。
「少し……村から離れた場所に転移してしまったようです」
申し訳なさそうにシズナが言う。
「そうか」
短く答えながら、内心で苦笑する。
“思い描いた場所へ転移する”――それは、口で言うほど容易いものではないのだろう。頭の中の曖昧な像一つで、世界を跨ぐなどという芸当が、簡単であるはずがない。
歩くこと、およそ三十分。
その時だった。
「……なんだ、あれは?」
前方に、黒い靄を纏った“何か”が見えてきた。 地平線に滲む影のようでありながら、近づくにつれて、それが異様な存在感を放っているのが分かる。
「あれは――死海と呼ばれる森です」
「森……あれが?」
思わず聞き返してしまった。
俺の知っている“森”とは、あまりにもかけ離れている。
立ち並ぶ木々は、まるで炭化したかのように真黒で、枝も幹も光を拒むように鈍く沈んでいる。葉ですら黒く、生命の色を一切宿していない。
そして、森の奥からは、絶え間なく黒い煙が立ち昇っていた。 山火事の跡を思わせるが、焼ける匂いはない。
ただ、重く澱んだ気配だけが漂っている。
「詳しいことは私にも……ですが、死海には大昔の魔王様の遺体が埋められていると言われています。その影響で、森全体が黒く染まっているのだとか」
……遺体、だと?
ただ埋められているだけで、森一つがここまで歪むものなのか。
それとも、これは死後なお残る呪い――魔王という存在が、この世界に刻みつけた“爪痕”なのか。
「……近づいて、平気なのか?」
「魔族や人族であれば問題はありません。体に害が出ることも、ほとんどないはずです。ただ……」
シズナは一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せた。
「死海では、魔物の成長が異常に促進されます。ここに棲む魔物は、通常よりも遥かに大きく、そして強いのです」
――それは、問題しかないのでは?
口には出さなかったが、内心では全力でそう叫んでいた。
正直に言えば、すでに回れ右したい気分である。
だが、そんな俺の心境などお構いなしに、シズナは歩みを止め、前方を指差した。
「見えてきました。あれが……私たちの村です」
「……」
言葉を失った。
あれは――果たして、“村”と呼んでいいのだろうか。
そこにいたのは、シズナと同じく角を持つ鬼人族が、せいぜい五十人ほど。
しかし、家らしい家は見当たらない。代わりに、黒い木が柱代わりに突き立てられ、その上から粗末な布切れが掛けられているだけだ。
直射日光を避けるためだろう。 布の影の下に、身を寄せ合うようにして男女が集まっていた。
よく見れば、働き盛りの男性はほとんどいない。いるのは、背の曲がった老人と、痩せ細った子供ばかりだった。
「……みんな、ただいま」
シズナの声は、乾いた大地に吸い込まれるように消えた。
集まっていた鬼人族たちは、ほんの一瞬こちらへ視線を投げただけで、すぐにまた俯いてしまう。
返事はない。驚きも、喜びも、安堵すらない。
ただ、生気の抜け落ちた目が、そこにあるだけだった。
――まるで、魂の抜け殻だ。
無理もない。
話を聞くまでもなく、その理由は、彼らの姿そのものが物語っていた。
命からがら、転移の力にすがって逃げ延びた者たち。その代償として、多くが大切な家族を失っている。親を、子を、兄弟を、伴侶を――取り返しのつかない別れを背負ったまま、ここへ辿り着いたのだ。
しかも、この地は不毛だった。
作物は育たず、獣も寄りつかない。食糧は底をつき、飲み水でさえ満足に確保できない。
布の影に身を寄せる彼らの体は、骨ばかりが浮き出ている。頬はこけ、目の奥だけが異様に暗い光を宿していた。
生きている―― だが、それは“生き延びている”というより、“まだ死んでいない”だけに見えた。
胸の奥が、ひどく重くなる。
ここまで来ておいて、今さらではあるが―― 本当に、俺にできることなどあるのだろうか。
勇者でもない。
戦う力もない。
病を抱え、余命すら限られている身だ。
――結局、俺はここでも、何者にもなれないのか。
そう思った、まさにその瞬間だった。
不意に、視界の奥で“何か”が弾けた。
〈この場所の土地を所有しますか?〉
耳慣れないはずの機械音声が、頭の中に直接響く。 同時に、視界いっぱいに広がる半透明の文字列。
それは――まるで。 かつて暇つぶしに何度も遊んだ、RPGゲームの選択画面、そのものだった。




