26話 ギフト【村作り】
俺とシズナが駆け込んだ部屋には、薄汚れた布を敷いただけの床に、数人の魔族の女性たちが身を寄せ合うように座り込んでいた。
長い監禁生活を物語るように衣服は汚れ、頬は痩せこけている。それでも、その瞳には確かな生気が残っていた。
すでにマドカが彼女たちの前に片膝をつき、安心させるように声をかけている。
「もう大丈夫っす。今、助けに来たんで」
怯え、涙ぐみながらも確かに生きている。その姿をこの目で確認した瞬間、胸を締めつけていた緊張がようやく少しだけ和らいだ。
間に合った。
ちゃんと間に合ったのだ。
「あの、あなた様が村長様ですか?」
女性の一人が、おそるおそる俺に声をかけてきた。まるで最後の希望を確かめるかのような眼差しだった。
「はい。私は加治木リョウジと申します。荒野の村で村長をしております」
「では、やはりあなたが……」
俺のことを知っているのだろうか?
「あの、村長様……その、私たちの子供は……本当に無事なんでしょうか?」
震える声だった。
きっと今日まで、何度も最悪の想像を繰り返してきたのだろう。
俺は彼女たちを安心させるように優しく微笑んだ。
「ええ、安心してください。うちの村で毎日元気いっぱいに走り回っていますよ。みんな元気です」
その言葉を聞いた途端、母親たちの表情が崩れた。
ある者は両手で顔を覆い、ある者は隣の女性にしがみつきながら泣き始める。
「よかった……」
「生きてた……」
「本当に……」
堰を切ったように嗚咽が広がり、静まり返っていた部屋に涙声が満ちていく。
凍りついていた時間がようやく動き出したかのようだった。
その光景を見ているだけで、胸の奥が熱くなる。
だが、感傷に浸っている余裕はない。
ここはまだ敵地のど真ん中だ。
「みなさん、立てますか? すぐにここを出ましょう」
シズナが優しく声をかけながら、一人ひとりを支えて立たせていく。
母親たちも涙を拭いながら頷き、なんとか歩こうとした。
そして全員が部屋を出ようとした、その時だった。
「……っ、う」
突然、一人の母親が胸元を押さえてその場にうずくまった。
「どうしました――っ!?」
慌てて駆け寄ったシズナの身体も、不意に糸が切れた人形のようにぐらりと傾く。
「シズナ!?」
「な、なんすかこれ……身体に……力が……」
シズナは膝をつき、苦しそうに呼吸を乱した。続いてマドカも顔を歪め、その場に崩れ落ちる。
「あ……身体が……」
「あ゛ぁ……」
母親たちも次々と倒れ込み、額に脂汗を浮かべながら呻き声を漏らしていた。
何が起きている。
理解が追いつかず、ただ呆然と立ち尽くす背後から――。
「動くな」
低く冷たい男の声が響いた。
「……!」
反射的に振り返る。
そこには傭兵らしき男が立っていた。
男はサイハの身体を後ろから羽交い締めにし、その首筋へ短剣の刃を押し当てている。
「サイハ!」
「……村長、申しわけないネ」
いつも飄々としているサイハの顔にも苦痛が浮かんでいた。額には汗が滲み、身体は小刻みに震えている。
「大人しく付いてきてもらおうか。妙な真似をすれば、まずはこいつの首が飛ぶ」
「言う通りにする。だからサイハに――その子に手を出すな!」
「村長……面目ないネ」
選択肢はなかった。
俺はゆっくりと両手を上げる。
悔しさで奥歯が軋む。
だが今ここで逆らえば、サイハが死ぬ。
俺は傭兵の指示に従い、屋敷の外へ歩き出した。
外へ出た瞬間、目の前の光景に息を呑む。
地面にはダークゴブリンたちが倒れていた。かぼちゃの被り物は砕かれ、全身を痙攣させながら苦しそうに身を捩っている。
いつも騒がしい連中が、一人として立ち上がれずにいた。
「ホムラ!」
少し離れた場所ではホムラとルイも地面に伏していた。
ホムラはなんとか上半身を起こそうとしているが、腕に力が入らないらしく何度も崩れ落ちている。
「……すまない、村長。身体が……まるで言うことを聞かないんだ」
普段の彼女からは想像もできないほど弱々しい声だった。
そして、その隣に転がる人影を見た瞬間、俺は目を見開いた。
「ガザ……か!?」
見覚えのあるモヒカン頭。
だが顔面は原型を留めないほど腫れ上がり、全身には無数の打撲痕が刻まれている。
それでもガザは俺に気づくと、片目だけを細めて笑った。
「悪いな、大将……こんな格好で再会するとはな」
「お前……大丈夫なのか」
「こんなもん……大したことねぇよ。唾でもつけてりゃ、いっ……そのうち治るさ」
強がりだった。
誰が見ても分かる。
手足は力なく投げ出され、指先ひとつまともに動かせていない。
それでも俺を安心させようとして笑うガザを見て、胸の奥から煮えたぎるような怒りが込み上げてきた。
今、この場でまともに動けるのは俺だけだった。
だが、だからといって何ができる。
仲間たちは倒れ、サイハは人質に取られ、敵は大勢いる。俺一人で状況をひっくり返せるほど、都合のいい力など持っていない。
無力感に奥歯を噛みしめていると、地面に伏したガザが血の混じった唾を吐き捨てながら声を上げた。
「大将! ここには魔除けの結界が張られていやがる! 魔族と魔物を弱らせる厄介な代物だ!」
「結界……!」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中でバラバラだった情報が一気に繋がった。
シズナたちが突然倒れた理由。
ダークゴブリンたちが戦えなくなっている理由。
ホムラやルイが立ち上がれない理由。
すべてこの結界だ。
魔族も魔物も、本来の力を発揮できなくなっている。
だからこそ敵は余裕を持って待ち構えていたのだ。
「ぶっふぉふぉふぉふぉ」
その時、不快な笑い声が響いた。
屋敷の正面玄関から、一人の男が悠々と姿を現す。
丸々と肥え太った身体。
首回りの肉に埋もれた顎。
小さな目には下卑た光が宿り、豪華な服を着ているにもかかわらず不思議なほど品がない。
歩くたびに腹の肉が揺れていた。
俺はその顔を見た瞬間に理解する。
間違いない。
こいつがこの街の領主――ダンガン=ガーミンだ。
「いやはや、まさか魔族風情が私の屋敷へ攻め込んでくるとは思わなかったぞ」
ダンガンは地面に倒れ伏す仲間たちを見回しながら、心底愉快そうに笑った。
「この結界は高くついたが、備えあれば憂いなしとはまさにこのことだな」
「あんたがこの街の領主か!」
「いかにも。私がこの街の王である」
――何が王だ。
胸の奥から込み上げる嫌悪感に吐き気すら覚えた。
「なぜこんな酷いことをするんだ! どうしてそこまで執拗に魔族を害そうとする!」
「おかしなことを言う人間だな。さては貴様、人間の皮を被った魔族か?」
「俺は人間だ!」
「ならば貴様は頭のおかしな人間ということになる」
ダンガンは鼻で笑った。
「魔族は人に害をなす害虫だ。それを殺して責められる理由などない。むしろ私は慈悲深い。普通なら処分されるだけの害虫どもを飼い、愛具として可愛がってやっているのだからな」
そう言って視線を母親たちへ向ける。
女性たちは恐怖に顔を引きつらせ、身体を震わせていた。
「苦痛ではなく快楽を与える私は、なんと慈悲深き聖人なのだろう」
心底そう信じている顔だった。
悪びれる様子など欠片もない。
自分の行いを正義だと信じ切っている。
だからこそ余計に胸糞が悪い。
こんな奴が領主を名乗っていること自体が間違っている。
「とにかく今すぐ結界を解け! そして全員を解放しろ!」
「断る! 貴様のような平民風情の命令を、なぜ私が聞かねばならん。それに――」
ダンガンの視線が倒れているホムラへ向く。
その瞬間、ホムラの表情が険しくなった。
「そこの新しい玩具はなかなか上物ではないか。寝室へ運び込み、今夜からたっぷりと慈悲を注いでやろう」
ぶっふぉふぉふぉ、と下品な笑い声が響く。
その醜悪な顔を見た瞬間、腹の底から怒りが噴き上がった。
許せない。本気でそう思った。だが怒りに任せて飛び出したところで何も変わらない。仲間たちは結界によって動きを封じられ、サイハは人質に取られている。
俺自身にも敵を打ち倒せるような力はない。打開策は何一つ見当たらず、どうすることもできなかった。
今ほど、自分が勇者ではないことを憎んだことはなかった。
「何をしておる。さっさとその害虫共を殺せ。女は殺すなよ。私の愛玩ペットにするのだからな」
ダンガンが手を振る。
それを合図に傭兵たちが笑いながら武器を構えた。
「ゴブリンの分際で散々暴れてくれたなぁ」
「さて、誰から殺してやろうか」
剣が抜かれる音が耳に刺さる。
「ひぃっ!? お、おらはまだ死にたくねぇだよ! 村長助けてだべぇ!!」
「ポン太!」
地面に這いつくばったまま泣き叫ぶポン太。
震えるダークゴブリンたち。
動けない仲間たち。
剣を振り上げる傭兵。
絶望という言葉がこれほど似合う状況もないだろう。
くそっ。
ここまでなのか。
そんな考えが頭をよぎった、その時だった。
〈主様、結界を撤去いたしますか?〉
「は?」
場違いなほど落ち着いた声が頭の中に響いた。
聞き慣れた声だった。
「……レタ?」
俺は思わず目を瞬かせる。
「え……今なんて言った?」
〈ですから、結界を撤去いたしますか、いたしませんか?〉
数秒――。
俺の思考が完全に停止した。
「ちょ、ちょっと待て! 撤去できるのか!? いや、そもそもどうやって!?」
〈最初に説明したはずです。村の建物の移動、設置、撤去はすべて主様の権限で行えると〉
「だからそれは俺の村の話だろ!」
〈はい。ですから主様の村でしたら可能です〉
「だからここは俺の村じゃ――」
そこまで言いかけて、言葉が止まった。
〈もうお忘れですか?〉
レタの声はどこまでも淡々としていた。
〈ここはすでに主様の村です〉
「……あ」
脳裏に一つの光景が蘇る。
領主室。
机の引き出し。
そして、あの勅許状。
意味も分からないまま書き換えた書類。
あの時、確かにレタは言っていた。
『アルティーナを加治木リョウジの村(2)に登録しますか?』
その言葉と同時に、すべてが繋がる。
レタは最初から分かっていたのだ。
だから俺に勅許状を探させた。
だから俺に書き換えさせた。
だから今になって、この話を持ち出した。
つまり――。
この街はすでに俺の村。
この結界も。
この屋敷も。
この土地も。
すべて村長である俺の管理下にある。
理解した瞬間、全身から力が抜けそうになった。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて。
あまりにも間抜けで。
あまりにも痛快だったからだ。
「……くっ」
笑いが漏れる。
必死に堪えようとしても無理だった。
「くっくく」
肩が震える。
こんな状況だというのに、笑いが止まらない。
そして突然笑い始めた俺を見て、ダンガンたちが訝しげに眉をひそめた。
「なんだ、ついに恐怖で気が触れてしまったか」
怪訝そうに眉をひそめるダンガンに、俺は何も答えなかった。
答えてやる必要もない。
むしろ今は、こいつの顔を見るだけで笑いが込み上げてくる。
状況がひっくり返ったことに、まだ気づいていないのだから。
「みんな! すぐに動けるようにしてやるからな!」
「リョウジ……さま?」
「村長……?」
シズナたちが困惑した表情を向けてくる。
俺は口元を吊り上げたまま、大きく腕を振った。
「レタ! 結界を撤去だ!」
〈了解いたしました。結界を撤去します〉
その返答と同時に、何かが弾けるような感覚が周囲を走った。
目には見えない。
だが確かに空気が変わった。
重く淀んでいた空気が一瞬で晴れ渡り、仲間たちに圧し掛かっていた何かが消えていく。
「あれ……?」
最初に声を上げたのはマドカだった。
彼女は何度か手を握ったり開いたりしたあと、目を丸くする。
「マジで身体が動くっす」
「力が……戻っています!」
シズナが驚いたように立ち上がる。
「あら、もう何ともありませんわね」
ルイも何度か肩を回しながら身体の調子を確かめていた。
そして――。
「はっ!」
ホムラが勢いよく立ち上がった。
その瞳にはいつもの鋭い闘志が戻っている。
「戻っただぁぁぁ!」
「うおおおお!」
「やってやるべぇ!」
ダークゴブリンたちも次々と飛び起きた。
さっきまで虫の息だった連中が、今では元気いっぱいに武器を振り回している。
形勢は完全に逆転した。
「な、なぜだ……!?」
傭兵たちの顔から余裕が消える。
「ありえん! 結界はどうした!」
「そんなの知らねぇよ」
ホムラが首を鳴らしながら前へ出た。
ゴキゴキと骨の鳴る音が響く。
「だがな――」
ホムラは首を鳴らしながらゆっくりと傭兵へ歩み寄った。
「私を怒らせたことだけは後悔しろ」
次の瞬間だった。
ホムラの拳が傭兵の顔面へ突き刺さる。
「ブゥがぁっ!?」
凄まじい衝撃音が響き、男の身体が宙を舞った。まるで投石器で撃ち出された岩のように吹き飛び、地面を何度も転がっていく。
「お前ら、ただじゃ済まさないっすよ」
今度はマドカだった。
振り抜かれた戦斧の柄が男の足を払う。
体勢を崩した傭兵へ容赦なく追撃が叩き込まれた。
「ぎゃあああっ!」
サイハの首筋に突きつけられていた短剣も、当の本人によって弾き飛ばされる。
「お前」
サイハの笑顔が引きつっていた。
「殺すネ」
完全に怒っている。
傭兵は悲鳴を上げる暇もなく地面へ沈んだ。
怒りを解放した仲間たちの勢いは凄まじかった。
結界に頼っていた傭兵たちでは相手にならない。
次々と吹き飛ばされ、転がされ、叩き伏せられていく。
「何をしているヴァロン! 早くそいつらを何とかしろ!」
叫んだのはダンガンだった。
その視線の先には、一人の男がいた。
おそらく警備隊長だろう。
他の連中よりは腕に覚えがあるらしく、剣を構えてこちらを睨んでいる。
「ダクネ!」
俺は腰のナイフを引き抜いた。
「使え!」
放り投げる。
ダクネは振り向きもせず空中でそれを掴み取った。
「――――ッ!」
次の瞬間には姿が消えていた。
金属音が連続して響く。
剣とナイフが何度もぶつかり合う。
しかし勝負は長く続かなかった。
「ぐっ!?」
隊長の腕から剣が弾き飛ばされる。
そこへダクネが滑り込み、喉元へ刃を突きつけた。
勝負ありだった。
「お、おのれ……!」
状況を見たダンガンの顔が真っ青になる。
敗北を悟ったのだろう。
慌てて踵を返し、屋敷の中へ逃げ込もうとする。
当然、逃がすつもりはない。
「レタ」
俺は笑いながら命じた。
「屋敷の解体だ」
〈了解いたしました〉
直後、屋敷全体が淡い光に包まれた。
壁も。
柱も。
屋根も。
すべてが光の粒へと変わっていく。
そして――。
プシュン。
気の抜けるような音とともに、巨大な屋敷は跡形もなく消滅した。
そこに残ったのは何もない更地だけだった。
「は……」
逃げ込もうとしていたダンガンが立ち止まる。
「はあああああああああ!?」
両手を振り回しながら絶叫した。
「な、なんだこれは!? 私の屋敷が! 私の屋敷がぁぁぁぁぁ!!」
必死に目を擦る。
だが現実は変わらない。
屋敷は消えた。
完全に。
綺麗さっぱり。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「おい」
震えるダンガンの背後から声が響く。
「覚悟はできているんだろうな」
振り返った先には、怒りに燃える仲間たちがいた。
先頭にはホムラ。
その後ろにはシズナ、マドカ、ルイ、サイハ、ダクネ、そしてダークゴブリンたちまで並んでいる。
「ひ、ひぃっ!?」
ダンガンの顔から血の気が引いた。
「てめぇの股間を斬り刻んだあとで、死の荒野に放り出してやる」
ホムラの拳が腹へめり込む。
「ぶっ……!?」
ダンガンの身体がくの字に折れた。
そこから先は一方的だった。
殴る。
蹴る。
投げる。
叩きつける。
誰も遠慮しない。
誰も容赦しない。
これまで積み重ねてきた怒りと恨みのすべてを叩き込むように、仲間たちは順番にダンガンを吹き飛ばしていった。
「ぶっふぉ――」
殴られる。
「ぎゃあああああああっ!」
蹴られる。
「た、助け――」
投げられる。
「やめ――」
叩きつけられる。
最初の下卑た笑い声とは似ても似つかない悲鳴が、夜の庭にいつまでも響き渡っていた。
その光景を眺めながら、俺は静かに息を吐く。
攫われた母親たちは無事だった。
子供たちとも再会できる。
ガザも生きていた。
仲間たちも誰一人欠けていない。
長かった救出作戦が、ようやく終わったのだ。
夜空を見上げる。
いつの間にか雲は流れ、月が静かに輝いていた。
「……帰ろう」
誰に聞かせるでもなく呟く。
するとシズナたちが微笑みながら頷いた。
俺たちの帰る場所は決まっている。
荒野の村。
みんなが待つ、あの村へ。
こうして俺たちは、攫われた母親たちを救い出し、狂った領主ダンガン=ガーミンを打倒することに成功したのだった。




