20話 叫び声
目が覚めたのは、夜中の三時を過ぎた頃だったと思う。
原因は単純だ。尿意である。
異世界に来てからというもの、睡眠の質だけは妙に良くなった。毎晩泥のように眠れるのは、村長という仕事が思いのほか体力を使うせいだろう。昼は畑を見て回り、住民たちの相談を受け、設置する施設を考える。気付けば一日が終わっている。だからこそ夜は熟睡できるのだが、それはそれとして膀胱は容赦なく主張してくる。
毛布を跳ね除けて起き上がり、勝手口で脱ぎ捨てていたサンダルを引っかけた。外套を羽織って扉を開けると、荒野の夜気がひやりと首筋を撫でる。
「昼間は暑いのに、なんで夜は冷えるんだよ」
小さく愚痴を零しながら厠へ向かう。
厠は家屋から少し離れた場所に設置してある。夜道を歩きながら見上げた空には、無数の星々が散りばめられていた。地球では絶対に見られないほど濃密な星空だ。夜空そのものが光を放っているようにすら見える。
こういう時だけは、異世界も悪くないと思う。
「ふぅ……」
用を足しながら、ぼんやりしていた頭が少しずつ冴えていく。
そのときだった。
――――――――――ッ!!!
聞こえた。
悪寒という言葉では到底足りない。
全身の産毛が一斉に逆立った。心臓を鷲掴みにされたような圧迫感が胸を襲い、背骨の奥を冷たい何かが這い上がってくる。
声だった。
だが本当に声と呼んでいいのか分からない。
嘆きにも聞こえる。
怒りにも聞こえる。
絶望にも聞こえる。
人間が発するものとは根本的に異なる、何か巨大な存在の断末魔のような叫びが、夜の荒野を飲み込む津波のように押し寄せてきた。
慌てて厠を飛び出す。
外へ出ると、村の通りには誰もいない。
静まり返った夜の村。
遠くで虫が鳴いているはずなのに、その声すら聞こえない気がした。
俺は死海の方角へ目を凝らした。
黒く沈んだ森の輪郭が、星明かりに照らされてかすかに浮かび上がっている。
いつもと変わらない。
ただ不気味なだけの景色だ。
だが確かに聞こえた。
あの声は間違いなく死海の奥から響いてきた。
「……村長殿か?」
不意に声をかけられ、肩が跳ねる。
振り返ると、巡回中だったダクネが立っていた。背には大剣を担ぎ、その鋭い視線は俺と同じく死海へ向けられている。
「ダクネ、お前も聞いたか」
「うむ」
短い返答だった。
だが普段の落ち着いた口調とは違う。僅かに緊張が混じっている。
「今のは……」
ダクネは言葉を切り、しばらく押し黙った。
「ドライアドだ」
「ドライアド?」
聞き覚えのある単語だった。
学生時代にハマっていたRPGにも似たような名前の存在が出てきた気がする。確か元々はギリシア神話に登場する樹木の精霊だったはずだ。
「森に棲む精霊だ」
やはりこの世界でも似たような存在らしい。
「元々は気高く美しい存在だったと言われている。しかし死海となったあの森では、樹木の精霊が生きていくには空気が穢れすぎている」
ダクネはソードベルトの位置を直しながら続ける。
「あれほどの叫びを上げるとは……。もうそんなに長くはないのかもしれない」
「長くないって、精霊も死んだりするのか?」
「村長殿もおかしなことを聞く。樹も枯れれば命は尽きる。命あるものはいずれ死を迎えるものだ」
ダクネは当然のように答える。
「もっとも、ドライアドは本来ならば数万年は生きるとされているがな」
「ちょっと待ってくれ。ドライアドは樹なんだよな?」
「いかにも。樹木の精霊だ」
「なら近くにドライアドの樹があるってことか?」
「まさか。このような場所にドライアドの樹があるなど聞いたこともない」
は?
言っていることがおかしくないか?
「なら、どうしてこんなところまでドライアドの叫び声が聞こえてくるんだよ」
俺が尋ねると、ダクネの顔がわずかに険しくなった。
「苦しみながら彷徨っているのだろう」
「樹が森を彷徨うのか?」
「今死海を彷徨っているのは思念体だ。村長殿にも分かりやすく説明するなら、本体を動かさずに、心だけを人の形にして外に送り出している状態のことだ」
ゲームでもそんな設定を見た覚えがある。
「しかし、それにしても妙だな」
「どういうことだ?」
「ドライアドは森の深部、それも最も瘴気の濃い場所に棲んでいるはずだ。今までこんな辺境にまで声が届いたことはない」
ダクネは死海を睨むように見据えた。
「苦しみもがいてこの辺りまで来てしまったということか」
「あるいは……」
ダクネは鬱蒼と生い茂るトマトの森へ視線を向けた。
百を超えるダークゴブリンたちを養うために拡張を続けたトマト畑は、もはや畑というより小さな森だ。
「どうした?」
俺が尋ねると、ダクネは僅かに目を細めた。
「いや……あれだけの規模の畑だ。ドライアドからすれば、瘴気に侵されていない植物は、さぞ魅力的に見えるだろうなと」
「魅力的、か。……それがあの叫び声と関係あるのか?」
「分からん。だが、もしドライアドが本当に死にかけているのならば、生を求めて彷徨うこともあるかもしれん」
そう言ってダクネは再び死海へ視線を戻した。
「考え過ぎかもしれんがな」
そう言ったものの、その表情から警戒が消えることはなかった。
「いずれにせよ、注意は必要かもしれんな」
「そうだな」
その後もしばらく二人で死海を見つめていたが、あの叫び声が再び聞こえることはなかった。
「……今夜はもう休め、村長殿」
やがてダクネが口を開く。
「警備はこちらで強化しておく。何かあればすぐに知らせる」
俺は頷くしかなかった。
自宅へ戻る途中も、何度も死海の方角を振り返ってしまう。
あの叫び声が耳から離れない。
助けを求めているようにも聞こえた。
誰かを呪っているようにも聞こえた。
そして何より――あれはまだ終わっていない。
そんな嫌な予感だけが、胸の奥に重く沈み続けていた。
翌朝、昨夜のあの叫び声が嘘だったかのように、村はいつも通りの賑やかな空気に包まれていた。
朝日を浴びながら畑へ向かう者たちの声が聞こえる。
井戸では女たちが水を汲み、子供たちは朝から走り回っていた。
いつもと変わらない光景だ。
だが、昨夜の出来事を知っている者たちの表情には、どこか拭い切れない緊張が残っていた。
特に夜間警備を担当していたダークゴブリンたちは、普段より周囲を警戒しているように見える。
「村長、昨夜のドライアドの件なのだが」
朝食の席で、珍しくホムラが真面目な顔で切り出した。
「大丈夫なのか? ドライアドの叫びは魂にまで影響を及ぼすと聞くぞ」
「魂に?」
思わず聞き返す。
「うむ。心の弱い者が聞けば気を失うこともある。子供や老人が多い村だ。念のため警戒した方がいいだろう」
確かに昨夜のあれは普通ではなかった。
俺ですら背筋が凍ったくらいだ。
もし子供が聞いていたら泣き出していてもおかしくない。
「こちらでも警備の数を増やしておく。万が一に備える必要があるだろう」
「そうだな。頼む」
反対する理由はなかった。
「ちょっと待つネ、二人とも! 朝から物騒な話はやめてほしいネ!」
話に割り込んできたのはサイハだ。芋の煮っころがしを箸でつまみながら、不満そうに頬を膨らませている。
「物騒かもしれないけど、村の安全に関わる話だぞ」
「そんなことは分かっているネ。でも、せっかくのメシがまずくなるネ!」
サイハは食事の時間を守ることに関してだけは妙に真面目である。
彼女のマイペースな発言にくすりと笑うのは、隣に座っていたマドカだ。
「サイハは相変わらずっすね」
「というか、わたくしはむしろ気になりますわ」
優雅にスープを口へ運びながら、ルイが話へ加わる。
「ドライアドというのは、本来とても気高い存在なのでしょう? それが叫び声を上げるほど苦しんでいるなんて、何だか可哀想ですわ」
「ルイのお嬢様気質にはうんざりネ。本当はすごく貧乏だったネ。貧乏ゆえに金持ちの真似をするようになったネ」
「しっ、失礼ですわよ! 村長! わたくしは決して貧乏ではございませんわ! それに今はそんな話をしていませんわ!」
「あー、でもルイに虚言癖があるのは事実っすね」
マドカの視線がルイの豊満なバストに向けられた。その視線に気がついた彼女は、ラディッシュが詰められた胸を慌てて両手で隠した。
「ど、どこを見ていますの! セクハラですわ! 村長! わたくしはセクハラでマドカを訴えますわ!」
「なら、あたしはルイを偽証罪で訴えるっす」
言いながらマドカは自分の胸を下から持ち上げるような仕草で挑発する。
「マドカァァァ~~~~~~ッ!!」
「おっ、やるっすか!」
食卓越しに睨み合う二人。周囲の子供たちはすっかり盛り上がっていた。
「すげぇー!」
「どっちが勝つの?」
「マドカ姉ちゃんだ!」
「ルイ姉ちゃん負けるなー!」
食卓に鉄のぶつかり合う音が鳴り響く。
子供たちはヒーローショーでも始まったかのように、火花飛び散る二人の攻防に見入っていた。
いつも通りの騒がしい光景に、自然と肩の力が抜けた。
昨夜の叫び声も、こうしていると遠い出来事のように思えてくる。
だが現実はそう甘くない。
胸の奥には、あの声の不気味さがまだ残っていた。
朝食を終えたあと、俺はいつものように村を見回った。
畑の様子を確認し、作業中の住民たちへ声をかけながら歩いていると、一人で立ち尽くしているシズナを発見する。
彼女は村の外れに立ち、死海の方角をじっと見つめている。
「シズナ?」
声をかけると、彼女は小さく肩を震わせた。
考え事に没頭していたらしい。
「リョウジ様」
「ぼーっとして、どうかしたのか?」
「いえ……少し考え事をしていただけです」
そう言うものの、視線はまたすぐに死海へと向けられていた。
「ドライアドのことか?」
「はい。ただ……」
シズナは少し迷うような表情を見せる。
「ドライアドという存在を、私は噂程度にしか聞いたことがありません」
「どんな風に聞いていたんだ?」
「森の理を司る精霊で、とても優しい存在だと。幼い頃、母からそう聞かされたことがあります」
どこか懐かしむような声だった。
「優しい、か」
「はい」
シズナは頷く。
「だからこそ気になるのです。もし本当に優しい精霊なのだとしたら、あれほど苦しんでいるのに誰も助けてあげられないのは、少し悲しいことだと思ってしまって……」
そこまで言ってから、シズナは自分でもおかしなことを言ったと思ったのか、小さく首を振った。
「すみません。変なことを言いました」
「別に変じゃないだろ」
そう返そうとして、言葉が止まる。
シズナの視線は今も死海へ向けられていた。
あの叫び声の主を想うかのように。
「今のは忘れてください」
無理に笑顔を作るシズナを見て、俺はそれ以上何も言えなかった。
結局、その日は何も起こらなかった。
死海から新たな叫び声が聞こえてくることもなく、魔物の襲撃もない。
村は平穏そのものだった。
だが、その平穏が長く続かないことを、この時の俺たちはまだ知らなかったのだ。




