2話 あなたは……勇者様ですか?
「さてと……どうしたもんかな」
城門の外、石畳の上に立ち尽くしながら、俺は小さく息を吐いた。
異世界に召喚された挙げ句、勇者ではないという理由だけで城から放り出される―― 普通の人間なら、怒鳴り散らし、理不尽を呪い、感情のままに暴れ出してもおかしくない状況だろう。
だが、不思議なことに、俺の胸には怒りよりも、どこか肩の力が抜けたような安堵があった。
むしろ――喜んでいる、と言ってしまってもいい。
理由ははっきりしている。
俺はつい先月、自分の余命が「あと一年」だと知ったばかりだった。
癌。
医師の口から淡々と告げられたその言葉は、妙に現実味がなかった。 治療の選択肢はほとんど残されておらず、あとは進行を遅らせるだけの段階だという。
遠回しな言い方をしてくれたが、要するに――もう、手遅れだった。
幸い、いや、皮肉にも救いだったのは、両親はすでに他界し、恋人も妻もいなかったことだ。
俺が死んでも、悲しみに暮れる誰かはいない。 葬式に集まる顔ぶれも、そう多くはないだろう。
それは救いであり、同時に、ひどく寂しい事実でもあった。 誰にも強く惜しまれず、誰の人生にも深い影を落とさずに消えていく。 それが自分の人生なのだと理解した時、胸の奥がじんわりと冷えた。
それでも不思議と、余命宣告を受けたその場で、涙は出なかった。
――ああ、そうなんだ。
正直な感想は、それだけだった。
だからこの一ヶ月、俺は何も変えなかった。 仕事をして、コンビニに寄って、晩酌をして、眠る。
いつも通りの、代わり映えのしない日常。 まるで、死が一年後に待っているなど、最初から存在しなかったかのように。
――その矢先の、異世界召喚である。
勇者ではなかった。 役にも立たないと判断され、金貨十枚を渡されて城を追い出された。
だが、それでもなお、俺の胸の奥では、何かが静かに脈打っていた。
これは、偶然ではない。
根拠はないが、そう感じてしまう。
人生の幕引きに差し込まれた、最後の――いや、初めての“分岐点”。
異世界ならば。 地球ではどうにもならなかった病も、ここでは違うかもしれない。 魔法があり、奇跡があり、常識が通じない世界だ。
別に、長生きしたいわけじゃない。
英雄になりたいわけでもない。
だが―― 生きられる可能性があるのなら、生きてみたい。 それが人として、ごく自然な願いだと、今さらながら気づいた。
そして、いつか死ぬ時には。
誰かの手を握り、誰かに名前を呼ばれ、「ありがとう」と「さよなら」を言われながら、幕を閉じたい。
独りきりで、誰にも看取られずに死ぬのは―― やはり、少しだけ、怖い。
城門を背にして歩きはじめて、さほど時間は経っていなかった。 石畳を踏む靴音が、やけに大きく耳に残る。
行き先も決めぬまま歩くというのは、こうも心細いものかと、そんなことを考えていた矢先だった。
「あなたは……勇者様ですか?」
背後から、か細い声が投げかけられた。
「……」
思わず足を止め、振り返る。
そこに立っていたのは、頭から外套を深く被った、浮浪者然とした小柄な人物だった。 顔は影に沈み、年齢も性別も判然としない。
いきなり「勇者様」などと呼ばれたせいで、胸の奥がわずかに跳ねる。
俺は、咄嗟に言葉を返せずにいた。
「……あ、あの、少しだけ……こちらへ」
戸惑う間もなかった。
次の瞬間、相手は俺の腕を掴み、そのまま路地へと引きずり込む。
「お、おい――!」
一瞬、振りほどこうと身構えた。 だが、掴んできた指は細く、力も弱い。 外套の下から覗く肩の線も、あまりに華奢だった。 そして何より、その声。
――子供だ。
薄暗い路地に押し込まれ、ようやく相手をまじまじと見つめる。
年の頃は、十四、そこらだろうか。 服は汚れ、身体も痩せている。 いわゆる、ストリートチルドレンというやつなのだろう。
なぜ俺を勇者だと勘違いしたのかは分からない。 だが、城から出てきた人間を見つけ、藁にもすがる思いで声をかけた――そう考えれば、筋は通る。
「勇者様……どうか、私の顔を見ても、驚かないでください」
緊張を押し殺したような声だった。
その言葉が、妙に胸に引っかかる。
「……?」
次の瞬間、少女は意を決したように外套を外した。
「――っ」
息を呑む。 露わになった額から、鬼のような角が二本、確かに生えていた。
人間では、ない。 だが、昔話に出てくる鬼とも違う。 肌の色も、目鼻立ちも、人と大差はない。 角さえなければ、変わった飾りをつけた人間の少女だと言われても、信じてしまいそうなほどだった。
「お願いです、勇者様……!」
少女は、そう叫ぶと同時に――
「どうか、どうか……私たちをお救いください!」
石畳に、勢いよく額を打ちつける。
いわゆる、土下座だった。
「――ちょ、ちょっと!?」
角よりも、そっちのほうが衝撃だった。
十四歳ほどの少女が、三十を過ぎた男に土下座をする。
どう考えても、心臓に悪い。
「と、とにかく顔を上げて!」
慌てて声を荒げる。
こんな光景を誰かに見られたら、完全に誤解される。 地球で培った常識が、強烈な危機感となって脳裏をよぎった。
俺の言葉に、少女は恐る恐る顔を上げる。
「では……助けてくださるのですね?」
「……いや」
即答しかけて、言葉を飲み込んだ。
「何を助けるのかも分からないし……」
視線を合わせ、できるだけ穏やかに続ける。
「とりあえず、話を聞くくらいなら、できるから。ね?」
少女は、きょとんとした顔で俺を見つめ―― やがて、縋るように何度も頷いた。




