17話 大きければ良いという話ではありません!
昼食を終え、腹に残る温もりがまだ消えきらぬうちに、俺はシズナと並んで詰所近くに設えられた訓練所へ向かった。
土を踏み固めただけの簡素な場だが、幾度となく武器が振るわれ、血と汗を吸ってきた地面には、妙な重みがある。
そこで今、熱を帯びた視線が一点に集まっていた。
「ぬっ……強い……!」
うめくような声とともに、ダークゴブリンの戦士長――ダクネが一歩、いや半歩だけ後退する。歴戦の戦士に似合わぬそのわずかな後ずさりが、かえって異様な緊張を生んでいた。
「ハハハ――一対一で、この私に勝つつもりでいたのか?」
鬼人族の女戦士は歯を見せて笑う。腕に走る筋肉は縄のように盛り上がり、振るうたび、空気が唸った。
「さすがは鬼人族の戦士と言ったところか……」
「当然だ!」
女は胸を張り、誇らしげに言い放つ。
「なんたって私は――村長の子を身籠る権利すら有しているのだ!」
「な、なんと!?」
どよめきが起こる。
いやいやいや、ちょっと待ってくれ。そんな話、俺は一度たりとも聞いていない。視線を巡らせると、例の取り巻き三人衆が、さも「周知の事実ですが?」とでも言いたげに、うんうんと頷いているではないか。
頷くな。肯定するな。頼むから。
こちらに気付いたゴブリンたちからは、雄としての羨望の眼差しが向けられていた。
――ぶち。
耳に届いたのは、乾いた、しかし決定的な音だった。
「…………」
シズナのこめかみが、ぴくりと震えている。
今の音、血管が切れる前兆じゃありませんよね? 大丈夫ですよね?
彼女の全身から、目に見えぬはずの“何か”が立ち上った。
それは死海の森から湧き上がる闇のように重く、冷たく、周囲の空気そのものを沈ませていく。訓練所にいた者たちは、理由も分からぬまま、喉元を締めつけられる感覚に襲われていた。
正直に言おう。
めちゃくちゃ、怖い。
ゆっくりと、しかし逃げ場を与えぬ歩みで、シズナがこちらを向いた。
「リョウジ様……」
声は柔らかい。鈴が転がるように澄んでいる。
だが、その奥に沈む温度が、明らかにおかしい。
「……今の話は、本当ですか?」
「ひぃっ!?」
反射的に、情けない声が喉から漏れた。
彼女は笑っている。唇は確かに弧を描いている。だが――目が、まったく笑っていない。
十四歳とは思えぬ圧。
否、年齢など最初から関係ないのだ。この場を支配しているのは、感情という名の刃そのものだった。
俺は一歩、無意識に後ずさる。
背中に、じっとりと冷たい汗が伝い落ちた。
「リョウジ様……どうなのですか?」
逃げ道を塞ぐように、シズナが一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
その歩みは静かで、音もなく、しかし確実だった。獲物を追い詰める肉食獣とは、きっとこういうものを言うのだろう。
「い、いや……その、あの……」
言葉が喉の奥で絡まり、情けなく視線が泳ぐ。
助けを求めるように周囲を見渡した、その瞬間だった。
「おお、村長ではないか!」
場違いなほど朗らかな声とともに、ホムラが戦闘を中断して駆け寄ってくる。
大地を踏み鳴らすたび、鬼人族一と名高いその豊満な胸部が、遠慮もなく上下に揺れた。
「――っ!」
反射的に目を逸らす。
いくら何でも刺激が強すぎる。アラサーの一般人にこれは凶器だ。
そもそも、なぜさらし一枚で訓練試合などしているのか。常識という概念は、この種族には存在しないのだろうか。
「ついに私と子作りする気になったのか?」
「なっ、わけないだろ! 何をどうしたらそうなるんだよ! つーか、お前、まだ十八だろ!」
「ん? そうだが。それがどうかしたのか?」
「どうかって……!」
言葉が続かない。
この世界の――いや、鬼人族の倫理観は一体どうなっているのだ。
三十過ぎの男が十八そこらの娘と子作りなど、日本なら即座に社会的に抹殺される案件である。
……いや、待て。
ここはもう日本ではない。法律も常識も違う。捕まらない、のか?
――だとしても、だ。
十八歳はダメだろう。俺の内側に根を張った道徳心と倫理観が、でかでかと「NO」の札を掲げている。
「ひぃっ!?」
次の瞬間、腕を掴まれたかと思う間もなく、シズナにぐいっと抱き寄せられた。
柔らかい感触が、逃げ場なく腕に押し当てられる。
十四歳――まだ発展途上の胸の、微かな弾力。
これはダメなやつだ。状況があらゆる意味で危険すぎる。
恐る恐るシズナの顔を覗き込む。
相変わらず、完璧な微笑み。だが、その目の奥には光がなく、むしろ底知れぬ闇が澱んでいた。
彼女は、そのまま視線だけをホムラへ向ける。
黒く、冷たく、鋭い威嚇の色を宿して。
「……ほう」
その敵意を正確に感じ取ったのだろう。
ホムラの眉がわずかに吊り上がり、次の瞬間、口元が愉快そうに歪んだ。
「そのような慎ましやかな胸では、村長は満足できないのではないか?」
そして、なぜか――
「なあ、村長?」
「え……?」
なんで俺に振るんだよ。
しかもその、意味深なだっちゅーのポーズをやめろ。頼むから、これ以上シズナを刺激するな。
「いっ……」
鈍い痛みが腕を走る。
嫌な予感は的中だった。
ほら見ろ。
俺の腕が、鬼人族の少女によって、今まさにへし折られようとしているではないか。
こっちは一般サラリーマンなんだぞ。
筋力も耐久力も、せいぜい平均値なんだ。
頼むから、鬼人族の抗争に俺を巻き込むな。
「……これから大きくなるんです」
シズナは一歩も退かず、静かな声でそう言い切った。
年齢に似つかわしくない芯の強さが、その短い一言に凝縮されている。
「私がシズナの年頃には、その倍はあった」
ホムラは腕を組み、どこか誇らしげに胸を張る。
その態度は余裕に満ちていた。
女性としての誇りがそこには詰まっているのだろう。
「お、大きければ良いという話ではありません!」
食い下がるシズナの声音は、もはや理屈ではなく意地の領域に踏み込んでいる。
「形、色、艶、弾力――そのどれを取っても、私は私を誇っている。何なら触って確かめてみるか?」
ホムラは見せつけるように自らの胸を持ち上げる。
その瞬間、俺の腕にかかる圧が、明らかに増した。
――い、痛い……。
シズナの全身から、もはや比喩では済まされないほどの“黒い圧”が立ち上っている。
空気が重い。息がしづらい。生命の危機を感じる。
助けを求めるようにダクネへ視線を送る。
だが彼は、目が合うなり、首をものすごい勢いで横に振った。
――自分にはどうすることもできないという、無言のメッセージである。
ならばとゴブリンたちに目を向けるが、彼らは示し合わせたかのように視線を逸らした。
薄情者めっ!
魅了の効果はどこへ消えたというのか。
「まあまあ、そんなに睨み合わなくてもイイね」
場の空気をまるで読まない声が割り込む。
「どうせウチら全員、村長の子を孕む運命ネ」
能天気にありえない事を言い放ったのは、独特な訛りが耳に残るサイハだ。
チャイナ風のツインお団子を揺らしながら、槍を肩に担いで笑っている。
「そうね。どうやらわたくしたちは全員、すでに村長のハーレム計画に組み込まれているのだから。今さら胸の大きさで張り合わなくても良いんじゃないかしら」
続いて口を開いたのはルイだ。
上半分を結い上げたツインテールがよく似合う、落ち着いた雰囲気の女性――見た目こそ大人びているが、年齢はまだ十九。
俺からしたら、まだまだ子供だ。
ん……いや、待て。
サラッと聞き流してしまいそうになったが、俺のハーレム計画ってなんだよ!?
つーか誰だよ! そんなデタラメ吹き込んだやつ!
「ルイはシズナと同じで、こういう話題は不利っすからね」
「な、なにを言っているのかしら? わたくしの何が不利ですの? わたくしはこの通り巨乳ですわよ」
うん、確かに巨乳だ。
ルイはホムラと肩を並べるくらいには、デカかった。
「はいはい、見栄張らなくていいっすよ」
「……は?」
間の抜けた返事をしたルイに、マドカは肩をすくめた。
「村長、騙されちゃダメっす。これ——偽乳っすよ」
編み込まれたダッチブレイドを軽く揺らしながら、マドカは悪戯っぽく笑い、指先でルイの胸元を小突いた。
その瞬間だった。
――ぼとん。
乾いた音とともに、何かが地面に転がる。
「あ……」
呆然とした声を漏らすルイの足元には、堂々たる存在感を放つ“それ”があった。
巨大なラディッシュである。
一瞬、訓練所の空気が凍りついた。
風の音すら、遠慮がちに後ずさる。
そして、次の瞬間。
「マドカァァァァァ!!」
雷鳴のような怒声が、訓練所に叩き落とされた。
――カキィィィン!
抜き放たれた一撃を、マドカは一歩も退かず、重厚な戦斧で受け止める。
衝撃が火花となって散り、鈍い金属音が空気を震わせた。
にもかかわらず、マドカは悪びれる様子など微塵も見せない。
褐色の肌に鋭い笑みを浮かべ、まるで面白い見世物でも眺めているかのようだった。
「いやぁ、さすがっすね。キレると迫力あるっす」
その軽口が、さらに火に油を注いだことは言うまでもない。
「さ、さて……午後の作業に行かなくてはな」
我ながら、あまりにも苦しい言い訳だった。
声がわずかに裏返っていた気もするが、誰もそれを指摘する余裕はない。
幸いにも――いや、不幸中の幸いと言うべきか。
ルイとマドカは完全に火がついており、鋼と鋼がぶつかる乾いた音が訓練所に響いていた。互いに一歩も譲らぬ構えで、周囲の視線など眼中にない。
今だ。
俺は呼吸を殺し、シズナの腕に絡め取られていた右腕を、少しずつ、少しずつ引き抜く。
まるで獣の顎から手を抜くかのような慎重さだ。
――ぎし。
一瞬、圧が強まった気がして、背筋に冷たい汗が流れた。
だが、シズナの注意は依然としてホムラの方に向いている。
……助かった。
完全に腕が自由になった瞬間、俺は振り返らない。
振り返ったら最後、捕まる気がした。
村長としての威厳?
そんなものは今はどうでもいい。
俺はほとんど逃げるように、その場を後にした。
背後で再び上がる怒声と武器の衝突音を聞きながら、心の底から思う。
――午後の作業が、どうかいつも通り平和でありますように。




