14話 ダクネ
「……間近で見ると、とんでもない迫力だな」
思わず、喉の奥からそんな呟きがこぼれ落ちた。
遠目で見ていた時とは、まるで別物だ。
角砂糖に群がる蟻――そんな生易しい比喩すら、生温く感じる。
黒い大地に滲み出た影の塊。その正体が、百を超えるダークゴブリンの群れだ。互いの肩が触れ合うほど密集し、唸り声と荒い呼吸が空気を濁らせている。
そして、その中心。
群れを従える長は、相変わらず鉄塊のような大剣を振るっていた。
一振りごとに、空気が叩き潰される。
――ズドン、と腹の底に響く轟音。まるで工事現場の杭打ち機だ。否、それ以上だろう。振動が地面を伝い、足裏から骨へ、骨から内臓へと突き上げてくる。
不可視の壁に刻まれた亀裂は、もはや一本ではなかった。
蜘蛛の巣のように細かく、だが確実に広がりを見せている。
「時間の問題だ」と、無言で告げているかのようだった。
そのすぐ内側――結界のこちら側には、ホムラたちの姿があった。
険しい表情で歯を食いしばり、ダークゴブリンを睨み据えている。
槍を構える者、戦斧を握り締める者、剣の柄に手を掛けたまま微動だにしない者。
誰一人、後ろを振り返らない。
結界が破られた瞬間、躊躇なく命を投げ出す覚悟だ。
それが、痛いほど伝わってくる。
「ホムラ!」
叫ばずにはいられなかった。
俺の声に、ホムラが振り向く。
「村長!? それにシズナも! こっちに来てはダメだ!」
怒鳴るような声だった。
叱責ではない。
――必死な、拒絶だ。
彼女はもう、この場所を“死線”として割り切っている。
だからこそ、俺たちをそこから遠ざけようとする。
だが。
俺は足を止めなかった。
この場に来た理由は、逃げるためじゃない。
彼女たちの覚悟を、ただ見送るためでもない。
――まだ、打てる手がある。
その可能性が、この野菜にはあるのだ。
「みんな、よく聞くんだ! ――今すぐ、これをあの群れの中に投げ込むんだ!」
切羽詰まった声が、戦場めいた空気を切り裂いた。
彼女たちの前で籠を下ろし、俺は中身をさらけ出す。真赤に熟したトマトの山。その中央から、ひときわ巨大なトマトを掴み上げた。
もはや規格外と言っていい程の大きさ。
両手で抱えるほどの、いびつなハート型のトマト。
俺はそれを、ホムラの胸元へと突き出した。
「……」
ホムラは一瞬、言葉を失った。
視線がトマトへ落ち、次に、ゆっくりと俺の顔へ戻る。
そこに浮かんでいるのは、戦士の覚悟ではない。純然たる困惑だ。
それは彼女だけではなかった。
北側でしんがりを務める覚悟を決めていた三人の女戦士たちも、同じように目を丸くしている。
結界が砕ける寸前のこの局面で、なぜトマトなのか。
そう顔に書いてある。
「リョウジ様……いまは、トマト合戦をしている場合では――」
堪えきれず、シズナが声を上げた、その瞬間。
「――そうか!」
ホムラが、突然叫んだ。
棍棒の石突を地面に叩きつけ、土埃を舞い上げながら、目を見開く。
「ダークゴブリンどもは腹を空かせ、飢えと怒りで正気を失っている! 村長は……食糧を与えることで、あの狂乱を鎮めようとしているのだな!」
「なるほどネ。満腹作戦というわけネ」
「確かに、理屈としては通っているっす」
「さすがですわね。人族でありながら、わたくしたち鬼人族の中にハーレムを築こうとするだけはありますわ」
――全然違う。
心の中で即座に否定する。
というか、最後のやつ。
さらっととんでもないことを言わなかったか?
喉まで出かかった抗議を、俺は無理やり飲み込んだ。
今は訂正している場合じゃない。
名誉の回復も、誤解の解消も、全部あとだ。
目の前には、結界を砕こうとするダークゴブリンの群れ。
一秒の遅れが死に繋がる。
「……ち、違うけど、説明している時間はない!」
俺は歯を食いしばり、籠を指差した。
「いいから投げろ! 全力で! ――信じてくれ!」
賭けだ。
だが、ここまで来て、引き返すという選択肢はもう存在しなかった。
全力で投げ放ったトマトは、弧を描いて宙を翔け、不可視の壁を越えた。
真赤なトマトがダークゴブリンたちの足元へと転がる。
――だが。
誰一人として、それに手を伸ばそうとはしなかった。
むしろ、ざわりと空気が揺れ、彼らは一斉に後ずさる。
まるで正体不明の呪物でも目にしたかのように、トマトを中心に円を描くような空白が生まれた。
……え、そんな警戒する?
頭の中で思わず突っ込む。
この世界にトマトは存在しないのか? いや、鬼人族が普通に食べている以上、それはない。
まさか、爆弾か何かだと思われているのか?
「見ろ! あいつ……トマトに手を伸ばしたぞ!」
ホムラの鋭い声に、はっとして視線を向ける。
一体のダークゴブリンが、周囲を気にしながら、両手でそれを掴み上げていた。
喉が鳴る。
その仕草ひとつで、彼らの飢えがありありと伝わってきた。
「――食べるな!」
低く、重い声。
今にもかぶりつこうとしていたその手を制したのは、群れの先頭に立つ、鉄塊の大剣を担いだダークゴブリンだった。
「……でも、これ、うまそうだぞ?」
「毒を盛っているのだろう。くだらん真似をする」
毒、という言葉に過剰反応したのか。
トマトを掴んでいたダークゴブリンは、乱暴にトマトを地面へ叩きつけた。
赤い果肉が潰れ、汁が弾ける。
彼らは牙を剥き、喉の奥から唸り声を上げる。
それは怒りというより、疑心と飢餓が入り混じった獣の声だった。
「毒なんて入っていません!」
シズナが声を張り上げる。
「そうだ! 我ら誇り高き鬼人族が、そのような卑怯な真似をするものか!」
ホムラも続く。
確かに毒は入っていない。
――毒は。
だが、そんなことを言葉で説明したところで意味はない。
なんとか一口だけでも食べてもらわなければ、ただトマトを投げただけで終わってしまう。
「リョウジ様!?」
俺はダークゴブリンたちに見せつけるように、トマトへ勢いよくかぶりついた。
瑞々しい酸味と甘みが、口いっぱいに広がる。
あえて大げさに咀嚼し、飲み込む。
「安心しろ! 毒なんて入ってない!」
そう叫び、食べかけのトマトを再び群れの中へ放り投げた。
「ダクネ! あいつ……食ったぞ」
「毒入りじゃないのか?」
「……食っていいのか?」
ざわめきが、確実に変質していく。
ダクネと呼ばれたダークゴブリンの長は、しばし沈黙したまま、潰れたトマトと俺を交互に見比べていた。
やがて、低く唸るように言う。
「……オレが毒味をする。オレが食って、生きていたら――食え」
仲間を制し、自ら危険を引き受けるその態度に、思わず目を見張る。
敵だ。
だが、ただの蛮族ではない。
理性と、責任を持つ“長”としての矜持が、そこには確かに存在していた。
やはり、通常のゴブリンとは違うのか。
ダクネは、潰れて泥のようになったトマトを、ためらいもなく片手ですくい取った。
赤黒い果肉と汁が指の隙間から滴り落ちるのも構わず、そのまま口へと押し込む。
「……うぅっ!」
咀嚼して、ほんの一瞬。
ダクネは背を丸め、腹の底から絞り出すような呻き声を上げた。
「ダクネ!」
「まさか……毒か!?」
「あの野郎……騙しやがったな!」
「卑怯者だ!」
周囲のダークゴブリンたちがどよめく。
剣を構え、身構える者すらいた。
――やばい。
一瞬、血の気が引く。
毒なんて入っていないはずなのだが――
次の瞬間。
「うまぁああああああああああいっ!!」
天地を震わせるような咆哮が炸裂した。
ダクネは、手にしていた鉄塊の大剣を取り落とし、眼を見開いたまま天を仰ぐ。
その表情は、怒りでも狂気でもない。
紛れもない――歓喜だった。
「な、なに……?」
呆然とする俺たちをよそに、ダクネは膝をつき、地面に広がった潰れたトマトへと顔を埋める。
赤い果肉を、土ごと掻き集め、夢中で口へ運ぶ。
まるで何日も水を与えられなかった獣が、ようやく泉に辿り着いたかのように。
「うめぇ……甘ぇ……生き返る……」
その光景を目にした瞬間、堰が切れた。
「お、おい! 本当にうまいのか!?」
「どけ! 俺にも食わせろ!」
「待て! それ俺のだ!」
ダークゴブリンたちが、一斉にトマトへ殺到する。
もはや敵意も警戒もない。あるのは、剥き出しの食欲だけだ。
「うげぇっ!?」
トマトを取り損ねた数体が、血走った眼でこちらへ突っ込んでくる。
――まずい!
次の瞬間。
ドォォオオオオン!!
不可視の壁が、彼らの体を叩き返した。
鈍く、重い衝撃音。
だが、結界に走る亀裂は、もはや隠しようもなく広がっている。
ミシ……ミシ……と、嫌な音が空気に混じる。
限界が近い。
このまま数に任せて突っ込まれれば、時間の問題だ。
「――トマトを投げろ!!」
俺は叫んでいた。
結界が壊れる前に、ありったけのトマトを、あの群れの中へ叩き込むしかない。
「ダメだ、村長! トマトの数が足りない!」
ホムラの叫びが、嫌というほど現実を突きつける。
百を超えるダークゴブリンの群れに対し、俺とシズナが小屋から抱えてきたトマトは、四十にも満たない。
まだ小屋には在庫がある。あるにはあるが――取りに戻る時間など、どこにも残されていなかった。
「や、やばいぞ……」
「リョウジ様、下がってください!」
シズナが叫んだ、その刹那――
――パリィン!
硝子が砕けるような、甲高くも不吉な音が空気を引き裂いた。
「「「うぉおおおおおおおおおおおっ!!」」」
不可視の壁――結界が、ついに破られた。
堰を切った濁流のごとく、雄叫びを上げながら雪崩れ込んでくるダークゴブリンの群れ。
地鳴りのような足音。剥き出しの牙。飢えと興奮に歪んだ眼。
シズナは短刀を抜き放ち、ホムラたちも歯を食いしばって前に出る。
だが――
いくら鬼人族が戦に長けていようとも、六十を超えるダークゴブリンを、たった四人で食い止められるはずがない。
万事休す。
そう、完全に諦めかけた――その時だった。
「――鎮まれぇええええええええええっ!!」
雷鳴のような、いや、それ以上の声が荒野に轟いた。
次の瞬間。
まるで糸を断たれた操り人形のように、ダークゴブリンたちの動きが一斉に止まる。
ざわ……ざわ……と波打つように群れが割れ、モーゼの海割りを思わせる光景の中から、一体のダークゴブリンが姿を現した。
赤く染まった口元。
小さくも、筋骨隆々とした体。
ゆっくりと、しかし確かな威圧を伴って歩み寄ってくるその姿。
――ダクネ。
トマトで口の周りを真っ赤に染めた、ダークゴブリンの長だった。
「……え?」
次の瞬間、ダクネは俺の目前で、膝をついた。
そして、深く――深く頭を垂れる。
あまりにも予想外の行動に、今にも斬りかかろうとしていたシズナも、棍棒を構えていたホムラたちも、言葉を失う。
俺も一瞬、全身が硬直した。
だが、すぐに気を取り直し、ダクネへと視線を向ける。
――鑑定。
【ダクネ 種族:ダークゴブリン 状態:魅了(小)
死海の森で進化を遂げたゴブリン族の戦士長。ゴブリン族とは思えぬ膂力を誇り、その大剣は一振りで頑丈なオーガの骨すら断ち斬る】
鑑定結果を確認し、俺はようやく息を吐いた。
効くかどうかは、正直なところ賭けだった。
だが――
どうやら、俺はその賭けに勝ったらしい。
荒野を揺るがした咆哮も、結界を砕いた剣も、いまはただ、赤い果実の前にひれ伏している。
「とりあえず、仲間に武器を収めるよう伝えてくれないか。腹が減っているなら……食糧なら、多少は分けられる」
そう言うと、ダクネはゆっくりと顔を上げた。
次の瞬間、俺はわずかに目を見張る。
意外にも――いや、場違いと言うべきか。
その口元には、争いの気配とは程遠い、どこか幼さを残した白い歯がのぞいていた。
その不釣り合いな笑みが、この場に張りつめていた殺気を、ほんのわずかに和らげる。
だが、油断はできない。
魅了が解ければ、状況は一瞬で地獄へと引き戻されるだろう。




