12話 不可視の壁
アルティーナから戻って、十日ほどが過ぎた。
村は表向き、平穏を取り戻している。
畑は順調に実り、井戸の水は澄み、朝夕には鬼人族たちの笑い声も聞こえる。
だが、その穏やかさの底に、一つだけ沈んだ影があった。
――シズナだ。
あの日以来、彼女は明らかに元気を失っていた。無理に笑おうとするが、その笑顔はどこか遠い。理由は、分かっている。
檻の中に閉じ込められていた魔族の子供たち。そして、彼らを救おうとして、荒野流しにされた一人の人間。手を伸ばしながら、何も掴めなかった記憶が、彼女の胸に棘のように刺さったまま抜けずにいるのだろう。
俺自身も、同じ棘を抱えている。
――あの時、少し無理をしてでも。
――何か、できたのではないか。
そう考える自分を、どうしても否定しきれない。
「あの子は、まだ幼いのです」
黙々とトマトを収穫する俺の隣で、マツナが静かに言った。
しわの刻まれた手つきは確かで、赤く熟れた実を一つひとつ、慈しむように籠へ入れていく。
「リョウジが、気に病むことではありません」
その声音は、諭すようでいて、どこか自分自身にも言い聞かせているように聞こえた。
アルティーナから戻ったその日の夜。
祖母であるマツナは、すぐに孫娘の異変に気づいた。隠し立てするべきではないと判断し、俺は街で見た光景を、包み隠さず話した。
マツナは、何も言わずに聞き終えたあと、ただ一度だけ目を閉じた。
その沈黙の深さが、彼女の人生を物語っていた。
――この世界では、救えないもののほうが多い。それを、彼女は知っている。
「村長! 大変だぞ!」
不意に、空気を切り裂くような声が早朝の村に響いた。
「森の方から、ゴブリンが攻めてきた!」
恒例となった朝の収穫作業を、村人総出で行っている最中だった。
物見櫓で見張りを務めていたホムラが、声を張り上げている。
身長百七十を超える長身に、鍛え上げられた肢体。鬼人族の若き女戦士――ホムラ。シズナと共に仲間たちを率い、この地まで逃げ延びてきた、紛れもない実力者だ。
鬼棒を握らせれば鬼神のごとく。
だが一方で――
「……頭が、あまり良くないのが玉に瑕、なのです」
以前、マツナがそう評したのを思い出す。“考える前に殴る脳筋娘”。評価としては、なかなかに辛辣だ。
だが、その声がいま、確かに村に迫る危機を告げている。
平穏の下に潜んでいた現実が、ついに牙を剥いた。後悔に沈む暇すら、もう与えてはくれないらしい。
俺は籠を足元に放り出し、息を切らせながら物見櫓へと駆けた。
嫌な予感が、背骨を這い上がってくる。胸の奥が、じくりと痛む。
「――な、なんだ……あの数は……っ!?」
思わず声が裏返った。
黒い森が、蠢いている。いや、正確には――森の闇そのものが、こちらへと溢れ出してきていた。
それは、影だった。
幾重にも重なった、黒い影の群れ。
やがてそれが“影”ではなく、“個”を持った存在だと理解した瞬間、血の気が引いた。
――ゴブリンだ。
百を超える数。
否、ざっと見ただけでも、それ以上いる。
しかも、俺の知っているゴブリンとは、決定的に違っていた。
アニメやゲームで見てきたゴブリンは、緑色の小柄な魔物で、どこか滑稽で、数で押してくる雑魚敵――そんな印象だったはずだ。
だが、眼前のそれらは違う。
背丈こそ人間より低いが、全身は筋肉の塊。皮膚は煤を塗り込めたような漆黒で、光を吸い込むように鈍く艶めいている。獣じみた前傾姿勢で、無言のまま進軍してくるその様は、戦場を知る兵そのものだった。
先頭に立つ一体に、思わず息を呑む。
そいつは―― 身の丈を優に超える大剣を、肩に担いでいた。
剣、というよりは鉄の塊だ。
刃と呼べる部分がどこにあるのかすら怪しい。あんなもの、俺なら持ち上げることすら夢のまた夢だ。
「まずいぞ、村長!」
いつもは豪胆な彼女の声が、明らかに震えている。
「あれは……ダークゴブリンだ!」
「ダ、ダークゴブリン……?」
聞いたことのない名だ。
だが、説明など要らなかった。
――格が違う。
それだけは嫌というほど伝わってくる。ホムラの焦燥が、何よりの証拠だった。
「数も多すぎる……。正面からじゃ、持たん!」
櫓の木材を掴む指に、力が入りすぎて軋む。
戦えるわけがない。
俺は戦士でも、勇者でもない。
ただの病を抱えた一般人だ。
「――結界だ!」
叫ぶように言った。
「レタ! すぐに結界を張るんだ! 村に入れさせるな!」
ロックバードを阻んだ、あの不可視の壁。
あれなら、あるいは――。
〈村人以外の立ち入りを、禁止します〉
機械的でありながら、どこか頼もしい声が脳裏に響く。
「……頼むぞ……!」
祈るように呟いた、その瞬間。
黒い群れは、なおも速度を落とさず、こちらへと迫ってきていた。
「マツナさん! 子供たちを――村の子供たちを、すぐに安全な場所へ避難させてください!」
物見櫓の上から、声を張り上げる。喉がひりつくほど叫んで、ようやく声が届いた。
「承知しました!」
マツナの返事は短く、だが迷いがなかった。老いた身でありながら、非常時における判断と行動の速さは、さすが一族のまとめ役といったところだ。
俺は視線を巡らせながら、次々と指示を出す。村を囲うように、簡素な柵を設置していく。
木材とロープだけの、心許ない防御。
だが、無いよりは遥かにましだ。
――本当なら、アルティーナの城壁のような石造りの防壁が欲しい。だが、欲しいものと手に入るものは、いつだって別だ。
そして――
次の瞬間。
――ズゴォォオオオンッ!!
天地を叩き割るような轟音が、村中に響き渡った。
大気が震え、鼓膜が悲鳴を上げる。
物見櫓が、ぎしりと嫌な音を立てて傾いた。
ダークゴブリンの群れが、不可視の壁へと一斉に激突したのだ。
「……っ!」
思わず歯を食いしばる。
見えないはずの壁が、確かに“そこに在る”と主張するように、衝撃が波紋となって広がっていく。
「よ、よし……! 進行は、止められた……!」
胸の奥から、絞り出すように安堵の声が漏れた。
ダークゴブリンたちは、何が起こったのか理解できず、ざわついている。
見えない壁に阻まれ、前にも後ろにも進めず、苛立ちを露わにしていた。
再び突進を試みる個体もいたが、そのたびに弾かれる。
結界は、確かに機能している。
――そのはずだった。
「そこを退け」
低く、よく通る声が響いた。
鉄塊のような大剣を肩に担いだ一体のダークゴブリンが、群れを割って前へと歩み出る。
――長だ。
直感で、そう分かった。
周囲のダークゴブリンたちが、自然と道を空ける。力だけではない、圧倒的な“格”がそこにはあった。
長と思しきダークゴブリンは、不可視の壁の前で立ち止まり、宙へと手を伸ばす。
ぴたり。
何もない空間に、確かに“触れた”という感触があったのだろう。
その動きが止まる。
「……壁か。魔法による結界の類だな」
――バレた。
間抜けで知能の低い魔物などではない。冷静に、状況を把握し、分析している。
嫌な汗が、背中を伝った。
「……何をする気だ……」
長は、周囲の仲間たちを手で制し、後方へと下がらせる。
そして、肩に担いでいた大剣を、ゆっくりと横薙ぎに構えた。
「――まさか……!」
思考が追いつくよりも早く、
鉄塊が――振るわれた。
「――――っ!!」
梵鐘を巨大な撞木で叩きつけたかのような、凄まじい衝撃音。
爆風のような風圧が押し寄せ、俺は反射的に物見櫓の手すりにしがみついた。視界が揺れ、足元が浮く感覚に、内臓がひっくり返る。
そして。
何よりも、俺の目を釘付けにしたのは――
何もないはずの宙に。
ぱきり、と。
硝子が割れるような、細い亀裂が走っていたことだった。
――結界が、傷ついている。
その事実が、背筋を氷水でなぞられたかのような恐怖となって、全身を貫いた。




