11話 アルティーナ
「……前にも思ったけど、転移魔法って、少し酔うな」
胃の奥がふわりと浮くような感覚をこらえながら、俺は深く息を吐いた。
ちょっくらアルティーナまで肉の買い出しに行ってくる——そうマツナたちに告げ、俺はシズナの転移魔法で街の外縁へと移動していた。
魔法の光が消えた瞬間、乾いた風と雑草の匂いが肌を叩く。
「……まるで、ベルリンの壁だな」
思わず漏れた言葉に、シズナが首を傾げる。
目の前には、街を囲う本来の城壁とは別に、荒野との間を断ち切るように築かれた巨大な壁があった。
それは単なる防壁というより、世界と世界を分かつ境界線——拒絶の意志そのもののように見えた。
「ベルリンの……壁、ですか?」
「俺のいた世界にも、あれと同じような壁があったんだよ。人を分けるための壁だ」
「……この壁も、人族が数百年かけて築いたと聞いています」
「よほど荒野が嫌いなんだな」
「嫌う、というより……恐れているのだと思います」
シズナの視線は、壁の向こう——死の荒野へと向けられていた。
ロックバードだけではない。
死海の影響を受け、あの荒野には巨大化した魔物が数多く生息している。
この壁は、それらの脅威から街を守るための、いわば最後の防波堤だ。
「……このまま街に入れるのか?」
「はい。ただし——私が鬼人族だと知られれば、無事では済みません」
「……対策は?」
「関所の方に、少し“握らせる”必要がありますね」
賄賂か。
思わず眉をひそめるが、同時に疑問も浮かぶ。
「そんなに簡単に、受け取るものなのか?」
「この辺りは、死の荒野が近いこともあって……人族の犯罪者が多く集まっていますから」
なるほど、と納得がいった。
普段から賄賂を受け取り、目をつぶり、危ない連中を通している。
だからこそ、彼らにとってそれは“日常”なのだ。
どこの世界にも、腐った部分はある。
安全の皮を被った、澱みのような場所が。
「……通っていいぞ」
関所に立つ、いかにも不機嫌そうな顔をしたおっさんは、袖の下をちらつかせた瞬間、まるで別人のように表情を緩めた。
笑顔とともに、あっさりと通行を許可する。
シズナの言った通りだった。
これでは、犯罪者が集まるのも無理はない。
本来、この街で真面目に暮らしている住人からすれば——たまったものではないだろう。
俺は壁の内側へと足を踏み入れながら、胸の奥に小さな苦味を残したまま、街の喧騒へと身を投じていった。
「にしても……臭うな」
口をついて出たその一言は、決して比喩ではなかった。
城を追い出され、行く当てもなく王都を彷徨っていた時にも感じたことだが――この世界の街は、総じて鼻を刺す。空気そのものが淀み、湿り気を帯びた腐臭が、肺の奥にまでまとわりついてくる。
「うわ……汚い」
思わず声が漏れた。
道と呼ぶにはあまりに粗末な地面。その隅には、無遠慮に捨てられた汚物の山があった。舗装などされているはずもなく、踏み固められた土に染み込んだそれが、強烈な悪臭を放っている。
――そういえば、中世ヨーロッパでは、汚物を桶ごと窓から放り捨てていたという話を聞いたことがある。
この世界の文明水準は、どうやらその程度なのだろう。
いや、それ以下かもしれない。
臭い。汚い。不衛生。
こんな環境で人が密集して暮らしていれば、疫病が蔓延するのは時間の問題だ。下水も整備されていない街など、病の温床に他ならない。
――この街の統治者は、一体何を考えているのだろう。
そんな疑問が浮かぶが、答えは期待できそうにない。
街には活気がなく、人々の顔はどれも疲弊しきっている。一言で表すなら、陰気。どんよりとした空気が、街全体を覆っていた。
長居したくない。
そう、直感的に思わせる場所だった。
さっさと肉を買って、さっさと帰ろう。ここに留まる理由は、何一つない。
「……あれ?」
歩きながらふと気づく。先ほどまで、確かに隣を歩いていたはずのシズナの姿がない。
「何をやってるんだ?」
視線を巡らせると、少し離れた場所で立ち止まっている少女の後ろ姿が目に入った。
深くフードを被った、見慣れた外套――シズナだ。
「――――」
背後から近づき、声をかけようとした。
だが、その直前で、喉が凍りついた。
彼女の視線の先。
そこには、鉄の檻があった。
檻の中には――怯えた目をした、魔族の子供たち。小さな体を寄せ合い、外の世界を見上げるその姿は、あまりにも痛ましい。
シズナは、ただ黙ってそれを見つめていた。声も出せず、身じろぎもせず――まるで、時間が止まってしまったかのように。
「……行こうか」
「……はい」
短い返事だった。
その声に、張りはなかった。
仕方がなかったとはいえ――いや、仕方がなかった、などという言い訳で済ませていいはずがない。
人族の街へ、シズナを連れてきてしまったことを、俺は今さらながら激しく後悔していた。
人族と魔族が争い続けてきた世界。その歴史を思えば、どちらか一方が虐げられる構図など、容易に想像できたはずだ。
それなのに俺は、あまりにも浅はかだった。
一秒でも早く、この街から離れたい。
そう思い、買い出しを急ぐ。
「……随分と買い込んだな」
「はい」
返事はあるが、心はここにない。
あの檻を見て以来、シズナの様子は明らかにおかしかった。無理もない。俺だって、胸の奥に黒い塊を抱えたままだ。
早いところ、人通りの少ない路地に入って―― マツナたちが待つ村へ、すぐにでも転移してしまおう。
そう思った、そのときだった。
「おい、早くしろ!」
「あっちだ、あっち!」
街の中央広場。
そこに、不自然な人だかりができている。
何かあったのだろうか。
好奇心が首をもたげたが、すぐに押し殺す。
――今は、野次馬になっている場合じゃない。
そう判断した、はずだった。
「……行ってみましょう」
「……ああ」
促したのは、シズナだった。
その声は低く、だが確かな意志を帯びていた。
「すまない、少し通してくれ」
人混みをかき分けながら、前へ進む。はぐれないよう、シズナの手を強く握る。その細い指先が、微かに震えているのが分かった。
やがて、広場の最前列へと辿り着く。
そこでは―― ガラの悪そうな男が、憲兵たちに取り押さえられていた。
「なにしやがんだぁっ! 離しやがれ!」
モヒカン頭の男が、獣のように吠える。
三人がかりで組み伏せられているが、それでも抵抗をやめない。
一目で分かる。チンピラか、盗賊崩れ。
だが、その目は異様なほど真っ直ぐだった。
「オレが何したって言いやがんだぁっ!」
「奴隷逃がしは大罪だと言っているだろうが!」
「何が大罪だぁっ! 何の罪もねぇガキどもを檻に閉じ込めて、こき使うほうが、よっぽど大罪じゃねぇかっ!」
「貴様……それでも人間かっ!」
「どの口が言ってやがるっ! てめぇは知ってんのか!? ここのクソ領主はなぁ、魔族の女を犯すだけ犯して、飽きたら……いたぶりながら殺すんだぞ!」
広場が、ざわめく。
だが、誰も声を上げない。
「だ、黙れっ! 奴らは卑しき魔族の血を引く悪魔だ! 当然の報いを受けているにすぎん!」
「何が報いだぁっ! ふざけんじゃねぇ!」
その瞬間―― 俺の手を握るシズナの指に、ぐっと力がこもった。
「……!」
フードに隠れて表情は見えない。だが、彼女が誰を見ているのかは、分かっていた。
「何やってんだ、てめぇっ!」
次の瞬間。
モヒカン男が、こちらを見た。
いや――正確には、シズナを見ていた。
「こんなところに居るな! 早く逃げろ!」
叫び声が、広場に響く。
――気のせい、ではない。
明確に、彼女に向けられた言葉だった。
「――っ」
シズナの手が、さらに強く握られる。骨が軋むような感触に、思わず息を詰めた。
鬼人族の少女。見た目はか弱くとも、その膂力は人間とは比べものにならない。
……正直、ただのサラリーマンである俺の手には、少々――いや、かなり堪える。
それでも、俺はその手を離さなかった。離してしまえば、きっと――何かが、決定的に壊れてしまう気がしたからだ。
「あの人は……どうなるんですか?」
憲兵に挟まれ、引きずられるように去っていく男の背中を見つめたまま、シズナが小さく問いかけてきた。
その声には、怒りも非難もない。ただ、答えを知ってしまう覚悟だけが滲んでいた。
俺は、言葉を探す。
だが――見つからない。
「荒野流し、だろうな」
代わりに答えたのは、すぐそばで成り行きを眺めていた男だった。まるで天気の話でもするかのような、淡々とした口調だった。
「……荒野流し、ですか?」
「お嬢ちゃん、知らねぇのか。この街じゃ、重罪人は“死の荒野”に放り出されるのさ。絞首だの斬首だのは、まだ慈悲がある。あそこじゃな、雨も降らねぇ、草一本生えねぇ乾ききった大地を、死ぬまで彷徨わされる」
男は肩をすくめる。
「いつ魔物に喰われるか分からねぇ恐怖と、渇きと孤独を味わい続ける。――まさに、生き地獄だ」
胸の奥が、冷たく沈んだ。
街と荒野の境には、あの世界を断ち切るかのような壁が築かれている。ひとたびその向こうへ放り出されれば、二度と戻ることは叶わない。
仮に奇跡的に生き延び、反対側へ辿り着いたとしても、そこは魔族の領域。人族が迎え入れられることは、決してない。
――つまり、死刑だ。
「……リョウジ」
視線を感じ、顔を向ける。
見上げてくるシズナの瞳と、まっすぐに目が合った。
言いたいことは、痛いほど分かる。彼女は、あの男を助けたいのだ。檻の子供たちを思い、叫び続けた――あの不器用な正義を。
だが。
俺には力がない。権力も、影響力も、武力もない。ただの異世界から放り出された、余命宣告付きの一般人に過ぎない俺には――何もできない。
「……すまん」
それしか、言えなかった。
「……いえ」
シズナは、ゆっくりと首を振った。
「私も……無理を言ってしまいました。どうか、忘れてください」
そう言って微笑もうとするが、その笑顔は、ひどく脆く見えた。
こうして―― アルティーナでの、はじめての買い出しは、胸の奥に、重く澱んだものを残したまま、終わりを迎えた。




