第五章・引き金魚・その三
翡翠の前檣楼から左舷の飛行甲板に出ると、陸野女子高校釣り研究部の一同は、すでに神楽杖を持ち、悪樓釣りの準備を終えていた。
前回参加した元・海釣り研究会の部員たちはその日の夜に、元・川釣り部の二人と景清は昨晩選んだ、専用色の巫女服を着用している。
部長の榎原はオレンジイエローの袴を。
副部長の和真部はターコイズ、支室はレモンイエロー。
そして小雨はベージュ。
「うん、やはりうちの娘が一番似合ってるな」
ちなみに景清はマーカライトの上衣とミストグリーンの袴。
まるでワークウェアのようなカラーリングだが、これは好みではなく、教師らしい色を探した結果である。
「……………………」
「先生、小雨がおかんむりです」
無言の娘に代わって通訳してくれる和真部。
「それは見ればわかる」
「先生の巫女服が地味すぎると嫌がってます」
「それもわかっている。だが勤務中は作業衣を着るクセが抜けないんだ」
そもそも小雨がベージュを好むのは、ベージュを好む景清とペアルックをしたいがためであった。
勤務中に親子でペアルック……想像するだけで怖気が走る。
「アテが外れてヘソを曲げてますね」
小雨はプリプリしながら地団太を踏んでいる。
「それも知っての上だ。そもそも遠目で識別するための色分けだ。ダブってはいかんだろう」
「身長差と体形でわかると思いますが……小雨、今日はダメだって」
「……む~っ、むうっ」
納得はしていないが諦めてくれたらしい。
「先生、近日中のペアルックデートを提案します」
「プライベートなら受けよう。ただしベージュ限定だ。ピンクとか着せられては堪らん」
「ごめん小雨、計画は失敗だったよ」
「……………………」
とんでもない陰謀が進行中だったらしい。
『みんな何か見える~?』
前檣楼と後檣楼の間にある格納庫の上から抄網媛の通信が入った。
ふり向くと抄網媛の隣には三線を構えた甑がいる。
どうやら取り込み儀式の伴奏を引き受けてくれたらしい。
「いや、肉眼ではさっぱりだ」
景清はただ無駄話をしていた訳ではない。
喋りながらも左舷に見える魔海を観察し、ポーチから単眼鏡を取り出して準備をしていたのだ。
「隣の胴乱に濾光器が入ってるから使うといいよ」
「わかった」
単眼鏡に魔海専用のフィルターを装着する。
「こそこそ見える気はするが……あまり役には立たんな」
釣り用の偏光サングラスで海中を覗くのと一緒で、見えているのかいないのか、よくわからない。
「宝珠の用意できてます。みんなで魚を放り込んではどうでしょう?」
榎原が提案する。
「いや、中に何がいるかわからん。刺激しないように僕だけでやってみよう」
景清は神楽杖に宝珠を装着、小型のカサゴを投げて様子を見る事にした。
「妙に狭いな。岩礁だらけだ」
海底を持つ今回の魔海は、小さい上に障害物がやけに多い。
そのくせ岩の隙間にいるはずの悪樓がまったく見当たらないのが不自然である。
「これは……とんでもないのが潜んでいそうな気がするな」
「先生、魚の目はアテになりません。隠れてる悪樓が見えないだけかもしれませんよ?」
和真部は、それこそアテにならない単眼鏡で景清の魚を追っている。
「魚眼は視界が広いがピント機能がないからな。だが、これみよがしに単独で泳ぐ小魚を見逃すマヌケな捕食魚ばかりとは思えん」
「側線に反応ありませんか?」
蕃神は神楽杖を通して、宝珠の魚と感覚器官を共有できる。
しかしパッシブソナーに相当する魚類の側線は、人間が持っていない機能なので、直接感じ取る事ができず、カサゴの感情から反応を察する程度が限界であった。
「ない。少なくとも近くには何もいないらしい」
規模が小さいせいか、高速で泳ぐ回遊魚は存在しない。
ヒラメでもいるのかと思ったが、海底に砂地がなかった。
魔海特有の幻影を含め、小魚が一尾もいないのは不気味ですらある。
『大物一尾だけなら中心にいるんじゃない?』
「たぶんな。だが幻影すら見当たらないのはおかしい」
抄網媛の提案に疑問を呈する景清。
魔海には幻影がつきもので、周囲の岩礁や海藻もその一種なのだが、前回のように小魚の幻がまったくいないのは不自然である。
大物悪樓が存在するなら、その餌になるような魚が、たとえ幻影であってもいるはずなのだ。
『魚類じゃない可能性は?』
「甲殻類や多毛類なら単独で棲息するとは思えん。何匹かいるはずだ」
景清はしばし沈黙して作戦を練り直す。
「まさかナマコの悪樓って事はないだろうが……うかつには動けんな。だが隅をうろうろしても始まらん。もう少し奥に行ってみよう」
相手が単独あるいは少数なら、他の部員たちを偵察に参加させても、無駄に警戒心を煽るだけである。
そして悪樓が食欲を失ったら釣りにならない。
結局、景清は本来の方針通り、自分だけで偵察を続行する事にした。
『先生、こう言っちゃなんだけど、ちょっと慎重すぎない?』
「教師として安全性を確かめる必要がある。ここは抄網君が思っているより遥かに物騒な海域だぞ?」
『いやまあシイラは怖かったけどさ、魔海の上にいない限りは大丈夫だと思うんだけど?』
「そこが根本的に間違っている。北方なら海流の関係で回遊魚が豊富と相場が決まっているが、亜熱帯や熱帯域は、見た目の派手さとは真逆で、上層のプランクトンが少ない砂漠のような海域だ。そして貧弱な栄養源は海底に沈み、多様な根魚が僅かな養分を求めて狂暴化する」
『狂暴化……ねえ』
「特に大型のハタ類が厄介だ。場所によってはヒットした魚に食いついたサメを奪う超大物が現れたりもするぞ」
『ハタってカサゴ目だっけ? 他には危ない魚はいる?』
「正直言って僕たちは関東……温帯の釣りしか経験がない」
『でも知識はあるんでしょ?』
「釣りに関してはな。だが海底の様子はあまり知らないんだ」
魔海の中心域に向かうカサゴの目から、海底の様子が景清に伝わって来る。
「ダイビングの映像では魚の本性などわからん……貝殻の破片が多いな。他には珊瑚と海藻にイソギンチャク……これも幻か。近くに貝類を食べる何かがいるのは間違いなさそうだ」
ベラの仲間やイシダイなど、貝殻を砕く頑丈な歯を持つ魚は多い。
「そろそろ中心に……ん?」
視界の隅で何かが動いた。
岩礁に紛れてよく見えないが、急速に接近しつつある。
「……まずい撤退するぞ!」
景清はカサゴを反転、尻をまくって逃げに入る。
『宝珠に戻せばいいじゃん!』
カサゴは景清が命ずれば瞬時に神楽杖へと戻ってくる。
「それでは正体が掴めん! 見極めてから回収する!」
翡翠のいる方向に向けてカサゴを全速で泳がせる景清。
喰わせて釣ってしまえばいいとも思ったが、正体不明の悪樓は殺気立っている割に食欲が感じられず、接近しても飲み込んでくれるとは思えない。
鈎さえかかれば背がかりでも釣れるかもしれないが、バラすとあとが面倒だ。
「確か夏から秋にかけてダイバーが……しまった!」
慌ててカサゴを宝珠に戻す景清であるが、一足遅かった。
魔海の側面から飛沫を上げて飛び出す巨大な悪樓。
「モンガラだ!」




