第五章・引き金魚・その四
フグ目モンガラカワハギ科モンガラカワハギ属。
夏場の繁殖期に一部のフグ目特有の産卵場を作り、テリトリーに近づく者を排除しようと体当たりする習性がある。
フグ目の例に漏れず、硬く重い骨格と鋭い嘴を持ち、誘導ミサイルのように突進するダイバーの天敵。
しかも景清が遭遇したのは、モンガラカワハギ属の中でも最大級のゴマモンガラであった。
「しまった……‼」
正体を見極めようと翡翠の近くに引き寄せたのが裏目に出た。
黒と白と黄色で彩られたゴマモンガラは魔海の側面を飛び出して、景清たちのいる翡翠の左舷飛行甲板に向かって一直線に飛んで来る。
魚長は約五十メートル、重量は二千トンに及ぶだろう。
だが蕃神にとってはたかだか二キロ、百円ショップで売っているダンベル程度の重さしかない。
「伏せろ小雨!」
景清は甲板から足を浮かせ腕を突き出し、ゴマモンガラを肘で受け止めた。
地面に組み伏せる合気の技は使えない。
足を浮かせたのは、接地していると翡翠に二千トンの衝撃が及ぶからである。
蕃神の力があっても、間接的に触れると二キロが二千トンになってしまうので、風圧を利用して袖をまくった。
ゴマモンガラの尖った嘴を避け、肘で腹部を滑らせる。
岩肌のような鱗が乙女の柔肌を擦過し、鑢のようにガリガリと削って行く。
そして肘が棘のような腹ビレに達した時、景清は全身に力を込めてゴマモンガラを跳ね上げた。
「あとは頼む!」
だが格納庫上の抄網媛は対応しきれなかった。
剣舞で大型悪樓の取り込みが可能となった抄網媛だが、玉網媛のようにコンマ数秒で取り込み儀式の効果を及ぼすのは無理がある。
『まかせちょき!』
甑が指で刀印を組んで格子状に切り、ゴマモンガラの魂魄を縛って空中に固定させた。
『でもわっちじゃそんにゃに保たんにゃ!』
しかしその時、すでに抄網媛の剣舞がゴマモンガラを捕らえていた。
演目は前回と同じ【八幡公】である。
結髪軍に従うて 弓箭雄なり……
身動きの取れなくなったゴマモンガラが、翡翠の直上で変化を始めた。
煙と共に小さくなり、宝珠と化して落ちたところを甑が受け止める。
『びっくりした……甑ちゃんがいなかったら間に合わなかったよ』
無事に儀式を終えてホッとする抄網媛。
甑の魂縛がなければ、ゴマモンガラは放物線を描いて翡翠を飛び越し、本物の海に向かって真っ逆さまに落ちていただろう。
そして弥祖皇国ではまだ潜水具や潜水艇が発達していないため、海底に落ちた宝珠の回収は不可能である。
『やっぱりわっちがいちゃ方がいいにゃ! ずっとお姉にゃまのお傍にいるにょにゃ!』
この機を逃さず抄網媛に抱きつく甑。
『うんまあ大手柄だったね……ところで先生、大丈夫?』
着地まで考えていなかった景清は背中から甲板に落ちていた。
もちろん受け身は取っている。
「かすり傷だ。いや少し切ってるな……ん?」
血まみれになった景清の腕を見た小雨が青ざめていた。
「……………………」
「無理して喋らなくていい」
口をパクパクさせる小雨の頭を優しくなでる景清。
正直なところ、ここで小雨が言葉の一つも発すれば大団円だったのだが、いくら異世界でも、さすがにそんな都合のいい話は転がっていないだろう。
「先生、魔海が消滅します」
和真部に言われて目を向けると、魔海が光の粒子となって崩壊を始めていた。
「やっぱりあれ一尾だけだったみたいですね」
「モンガラが卵を守って他の魚を追い払っていたおかげだな。まあその卵は幻影だったようだが」
卵の悪樓など、どうやって捕獲すればいいかわからない。
『……撤収! みんな艦内に戻って! 先生の治療をしないと!』
抄網媛が格納庫の上で艦内電話を取り出し、しきりに喚いている。
おそらく軍医を呼び出しているのだろう。
「……この傷、痕が残りますね」
ベルトポーチからロープを取り出し、景清の止血を始める和真部。
興奮で痛みはあまり感じない。
いや熱い。
「たぶん残らんよ。元の世界に帰れたらの話だがな」
召喚されたのは魂魄の一部のみで、現在の肉体は海水でできた仮のものである。
蕃神は生きてさえいれば、帰れさえすれば、たとえ手足を失っても、あとでどうとでもなってしまうのだ。
ただし景清には、その帰れる保証がない。
「帰れなかったらどうするんですか」
この体と傷痕を一生背負う破目になるかもしれない。
「わからん事を今から考えても始まらん。それに嫁に行く気もアテもない」
なぜなら妻子持ちだからである。
「もし帰れなくても、あっちの僕がどうとでもしてくれるさ」
小雨の頭をなでながら達観する景清。
元の世界に残された肉体には、普段通り生きて行けるだけの魂魄が十分に残されているので、異世界で得た記憶がないだけで、小雨と華鐘の面倒くらい普通に見れるはずだ。
「少しは自分の心配をしてください!」




