九話
「本来であれば貴殿が一生触れる事はない御方をお連れしているのです……もっとまともな入室の仕方があったのでは?」
シフィ先生はいつも声を荒げない。
けれど、それは穏やかであるという意味ではなく、静かにその冷たい眼差しと冷ややかな声でタナトスを居抜く。
私の知る優しい教師として触れあってくれた姿は何一つない。こういう時に実感してしまう。
今のシフィ先生は私の先生としてでなく、この国の宰相の顔をしていた。
あれから。
許可証がなければ城のいたる所に設置されている魔道具によって迷わされて衛兵の詰め所に行きついてしまうはずなのに、やっぱりタナトスは誰ともすれ違うことなく……というか、私を抱えたまま壁を駆け上がって三階の宰相室に窓から侵入を無事に果たしていた。いや、これって、無事って言って良いのか分からないけど。
「え、というかタナトス、シフィ先生のこっちの部屋知ってたんだね」
シフィ先生はこの国の宰相だ。当然、その地位に見合うだけの屋敷を持っているけれども、その役柄の多忙さから城の中にも自室を与えられている。けれど、本来であれば森で質素に生活する事を好むエルフという種族の血がそうさせるのか、それとも喧騒を好まないシフィ先生の好みなのか……シフィ先生は、書庫という名の物置として使われていたこの部屋を気に入って、勝手に自室としていろいろ使い勝手が良いようにしていた。
残業という言葉がこの世界にあるのかどうか分からないけれど、毎日シフィ先生は十七時にはきっかりと仕事を終える。終わってなくても仕事場を出る。そうしないと、部下が帰れないでしょうと当たり前のように言うのだ。なんて良い上司。前世でこんな素敵な上司に出会えていたら、私の喪女っぷりも違っていたかもしれない。いや、本当に喪女だったのかどうかはわからないけれども。
今も仕事をしていたんだろう。
申し訳程度に揃えられた応接用のソファとテーブルの上には何もなく、執務机の上には数えたくない程の書類の山。
約束も何もなく、仕事の邪魔をしてしまったと罪悪感を抱く私とは別に、タナトスはズカズカと踏み行って先生の目の前まで行くと、ぽいっと。それはもう簡単に。まるで缶ジュースでも投げ渡すかのような気軽さで私を落とした。
「へ?」
先生は予想していたのか、きちんと私を受け止めてくれていて、たいした衝撃を感じることもなく先生の腕の中に収まる。
今までにないこの距離感ゼロの密着と、それによってふんわりと香る森の薫り……先生の匂いにカチン、と体が固まった。
「連れ出されましたか」
「えっと、その……ごめんなさい」
私が悪いわけではないと思うのだけれど、先生にそんな風に言われてしまうとつい謝罪の言葉が出てしまう。
これはもう、長年の生徒と教師っていう関係故だと思う。
「こういうのに向いてるのは宰相サマでしょ? というか、教育係ならきちんとしとけよ。今回のはあんたのせい……どうすんの? アザゼル様んとこに隠す? それか、仕舞い込む? それするくらいなら俺が貰うけど」
「まさか。どちらも致しません。姫に落ち度はないのですから……あちらが頭を垂れるべきでしょう。ルナティナ姫、貴方は常に選択権を手にしているのです。選ばれる側などありえない」
どかりと我が物顔でソファに座ったタナトスに目を細めながら、私が裸足なのに気付いた先生はそのまま私を膝の上に乗せた状態で器用に上着を脱いで私をくるむと、そっと抱き上げてタナトスの向い側に座らせてくれた。
先生も一緒に座ると思ったけれども、先生は私の横に立ったまま、どこまでも冷たくタナトスを見下ろす。
「何も焦る必要はないでしょう。必要かどうかを姫君が判断すればそれで終了です」
「ルナティナの決定に向こうが素直に従うとでも? 相手は竜族なんだぜ?」
「それでも、決められるのは姫君です。私は姫君の意見を尊重するのみです」
最初は納得いかなさそうに話していたタナトスだけれども、途中で言い淀んだと思ったら何故か納得してしまった。
シフィ先生の声のトーンは変わらない。それでも、きっと何か感じる物があったんだろう。
私? 私は怖くてタナトスを真っすぐに見つめるだけだ。
横にいる先生の顔なんて見れないし、見たくない。
「ということで、姫君。ノア・メレクフォレットについてはどこまで?」
「あ、はい。えっと、ユウリュウ国宰相の息子です!」
あとはストーカーとかストーカーとかストーカーとか。
内面というか、ゲームでの攻略対象情報としては敵意を向けられる中での攻略だから、ルナティナとしての立場ならそれはもう使い物にならない。
私の発言からシフィ先生は一拍間をおいて、以上ですか、と口を開いた。
すうっと不出来な生徒を見るように目を細められてしまって、ひぃっと背筋が伸びる。
慌てて頭の中をぐるぐると何か出てこないかひっかきまわして考えるけれど、それでもやっぱり、タナトスに教えてもらったロズアドの息子っていうのしか出てこない。
私が知ってるのは彼の攻略の仕方だけだ。それも、主人公としての。ゲーム画面で見たノアは、ルナティナに対してそれはもう砂糖菓子が蕩けるくらいの甘い目を向けていたから、ルナティナに対してはとても優しいんだろうけれども……出会いイベントを無視してから何年も過ぎている。
今の私にとって、それは使いものにならない情報だ。
「義理の息子だそうですよ。幼少期に引き取られたのだとか。ユウリュウ国は我が国と同じように実力主義ですからね。アレの血は引いていないようですが、育ての親がアレです。こちらの常識……そもそも、人間の常識など通用しないでしょう。ですから」
「は、はい」
「自分に正直でありなさい。ノア・メレクフォレットに対しても王族としての姫君で接すればよろしいかと。便利な手足が増えたくらいの認識で。いらなければさっさと処分してしまいなさい」
「え、あ、は、はい?」
「勿論、いらないと思ったのならば、貴方の剣や盾にきちんと伝えるように。ああ、私に言って頂いても構いません」
「へ?」
「自身の力を振るう良い練習となるでしょう。何事も初めは失敗がつきものです。そう気負わずにチャレンジしてごらんなさい」
「いえ、あの、私の……盾?」
「いるでしょう。貴方だけの盾が目の前に。真正面から殺り合っては能力で負けてしまうでしょうが……それならば、出会わなければ良いのです。そうでしょう?」
そう言って、流れるように冷たい視線をタナトスに向ける。
タナトスは面白くなさそうにシフィ先生を睨みつけるけれども、何も言わない。
剣は、言われなくても分かる。リオンだ。じゃあ、盾はタナトス? 盾が?
「ええっと、シフィ先生。タナトスは、友達なんですけど」
「は?」
シフィ先生の目が丸く見開かれるのと、ぶはっとタナトスが噴き出すのが同時だった。
シフィ先生は噴き出してお腹抱えてぷるぷるしだしたタナトスを汚い物を見るように一瞬だけ眉を顰めてから、私に向き直った。
「タナトスは姫君の盾でしょう?」
「タナトスに返せる物を私は持ってないの。タナトスは、リオンみたいに騎士じゃないでしょう?」
そこは間違えてはいけない。
タナトスはそれなりの好意があって私の側で過ごしているけれど、それでも主従関係を結んでるわけじゃない。
タナトスとは友達関係だ。それも対等な。
シフィ先生には、何言ってんだお前、みたいな目で冷たくみられたけれど、主張を替えるわけにはいかない。
タナトスは私の手足ではないのだから。
「と、姫君は仰っていますが、タナトス?」
「あ? 俺に振るか? まあ確かに、金銭での契約やワンコみたいに騎士の誓いなんてのもしてないが……まあ、そうだな。ルナティナの言う通り友達だよ。俺の唯一無二の宝だ」
にんまりと、猫が目を細めるようにしてタナトスは笑う。
それを不機嫌そうにシフィ先生が見返す。
けれど、それ以上何も言うつもりはなかったようで、シフィ先生は溜息を一つ吐いて私へと視線を戻した。
「ノア・メレクフォレットですが、恐らく謁見の申し込みをしてくるでしょう。まだ私の元へは届いていませんが、すでになされているかもしれませんね」
「えっと、それはユウリュウ国の宰相の名で、ですか?」
「確実に通すならばそうするでしょう。まあ、それは良いのです。姫君の気持ちが固まったのならば、さっさとお会いして首輪を付けてしまえばよろしい。もし伴侶として気に入ったのならば、一番最初に私に知らせてくれると助かります」
「は、伴侶、ですか」
「姫君ももうすぐ成人ですからね。国内に限らず他国からも見合いの話は届いています。今は王の元で止まっている状態ですが……クルシュ姫の件もありますからね。まあ、姫君が竜族に嫁ぐのも、一番平和な形なのかもしれません。ですが、何度も言いますが選択権は姫君の手の中ですよ」
そう言って少しだけ寂しそうに笑って、シフィ先生はタナトスへと視線を戻す。
タナトスはなんとなく不服そうにしながらも、特に何かいうでもなく立ち上がってそのまま私を抱き上げる。
「タナトス?」
「裸足のまま連れてきちまったからな。そのまま正規のルートで返せないだろ?」
タナトスの言葉に、それもそうかと体の力を抜く。
シフィ先生へと振りむいたけれども、先生は私達なんて初めからいなかったかのように執務机に戻っていて、書類仕事を再開していた。
私達はここには来なかったし、私は部屋から出ていない。
そういうことだ。
「ありがとうございました」
お礼を告げたら、それを合図にするようにタナトスが散歩でもするような身軽さで窓を飛び越えて、そのまま下へと一気に駆け下りる。
一瞬覚悟するのが遅れて、ふぐっと変な声が出てきたけれども、悲鳴は上げずに済んだ。
慣れてしまった事に少しだけしょっぱい気持ちが湧きあがって来たけれど、そこは蓋をする。
きっと、考えてはいけないことだからだ。
タナトスの能力はやっぱり優秀で、薔薇園に入るまでに何人かとすれ違ったりもしたけれど、気付かれる事はなかった。
城の警備体制に若干の不安を覚えるけれども、それはタナトスだからだと目を瞑る。実力主義の国だけあって、人材派遣の国でもあるのだ。そんな中での城での勤めだ。非才では勤めあげることは出来ない。
「で、するの?」
「ん? んー、まあ、ずっと逃げてばっかは無理かなあと」
主語のない質問に一瞬クエッションが浮かんだけれども、すぐにさっきの続きだと思い至る。
出会ってしまったのだから、出会う前には戻れないだろう。
敵意を向けてくるゲームのノアしか知らないからなんとも言えないけれど、現実となった今のノアからは、もう逃げられないだろう。そんな気がする。
「俺とずっと一緒にいたら出来るんじゃないの」
「でも、だからってずっと一緒にいてもらうのも違うでしょう? タナトス、規則とか集団生活とか苦手でしょう。そういうの我慢して、城勤めするの?」
「はっ。まさか。でも、王女のルナティナなら、俺の力を得ていた方が何かと得なんじゃないかって聞いてやってんだよ」
「王女としてはそうなんだろうけれど、私自身としてはタナトスと対等でいたいんだよ。友達、いないの知ってるでしょ」
「うわー。なにそれ。寂しい奴」
「うるさいですー」
言って、お互い笑い合う。
タナトスとは対等でいたい。心からそう思う。
今はもうゲームのように殺されるとは思っていないけれども、それでも、まだそれはクルシュが幼いからじゃないかとか考えてしまう私もいるのだ。
だから私は動けない。
もしかしたら。ひょっとしたら。たらればがいくらでも思い浮かんでしまって、がんじがらめにされてしまう。それでも、リオンの気持ちを受け取った時にきちんと前を向くと決めたから。
私は私の最善を尽くそうと思う。
「ルナティナはさ、どうしたいの」
「え、長生きしたい」
とりあえず死なないよう頑張る。
それは、前世を思い出した頃からの目標だ。
ルナティナの人生には死亡フラグが多くて本当に大変なのだ。
私自身、もうルナティナとして違和感なく生きているし、今の私こそがルナティナだと胸を張って言える。だからこそ、自分を大事にしたい。悪役ポジションに立たされて恋愛のスパイスにされたあげく、処刑・追放・幽閉のバッドエンドな人生なんて絶対にごめんだ。
「ルナティナ、弱っちいからなあ」
タナトスに可哀そうな子を見る目で見られ、しみじみと言葉にされる。
言い返せる言葉を持たない私は、じとっと目で抗議をするくらいしか出来ない。
「それにルナティナは馬鹿だからな。俺以外に守られてるんじゃないぞ? 共倒れしか見えないから」
ほい、到着。
頭をわしゃっと撫でられて自室に下ろされる。
流石に言われ過ぎだろうと顔を上げれば、そこは風にはためくカーテンだけしかなくって、タナトスの気配が感じられない。
「お帰りなさいませ、ルナティナ様。次からはきちんとドアからお出掛けして頂きたいものですわ」
いつもと同じ鈴を転がした軽やかな声なのに、ちょっとだけ低くて。
スティは間違いなく普段と変わらない笑顔を浮かべているだろうけれども、それを見るのが少し怖くて、私はなかなか振りかえれずにいた。




