第7話 先生は天才魔術師
鐘が八つ鳴り終わるより早く、リシアは麦灯り亭の戸口に立っていた。
「おはようございます。行きましょう」
挨拶もそこそこに、くるりと背を向ける。うなじで束ねた亜麻色の髪が、歩くたびに背中で小さく跳ねた。
朝の王都は、昨日の夕方とはまるで違う顔をしていた。通りの両側で店が戸板を外し、八百屋が籠を並べ、パン屋の窯から煙が上がっている。噴水の広場では、水汲みの女たちが桶を並べて噂話をしていた。
すれ違う人が、ちらちらとリシアを振り返る。紺のコートの胸元には、青い糸で王立魔術院の印が縫い取られていた。振り返られるのは、たぶんコートのせいだけではない。朝日を受けた横顔は、門の前で見たときよりずっと涼しげだった。
噴水の縁を通り過ぎるとき、水面に二人の姿が映った。紺のコートの魔術師と、村でもらった着古しの上着の男。水面の男は、記憶にある自分より、ずっと若く見えた。目の下のくまも、額のしわもない。この世界で目を覚ましたときから、体がやけに軽いとは思っていた。
ただ、並んで歩くと釣り合わないことだけは、よく分かった。
「北門までは、歩いて半刻です」
二人は、青い屋根の大きな建物、王立魔術院の前を通り過ぎ、北へ延びる坂道を上っていった。半刻を少し過ぎた頃、坂の上に、城壁が見えてきた。東門と同じ、分厚い城壁をくり抜いたトンネル。アーチの形も、門柱の模様も、ほとんど見分けがつかない。朝の荷車が、ごとごとと列をつくって中へ吸いこまれていく。
「おや、天才の魔術師さんじゃねえか」
門の脇から、白髪まじりの門番が手を上げた。リシアは一瞬だけ口の端を下げて、それから丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、ディルクさん。今日は点検の日ではないんですが、少し見せてください。こちらは、院の調査に協力してもらっている方です」
俺が木の札を見せると、門番は「へえ」とだけ言って持ち場へ戻っていった。
「……天才、って呼ばれてるんですか?」
「呼びたい人が、呼んでいるだけです」
リシアはそれ以上何も言わずに、城壁の根元にしゃがみこんだ。東門で見たのと同じ、錆の浮いた鉄の蓋。鍵を回すと、ぎい、と同じ音がした。
中の石の洞にも、青銅の伝令の輪が三つ。刻まれた字は「西、東、塔」。
「西門側と東門側、それから北防衛塔から届くものを受ける伝令の輪です」
奥へ目を凝らした。どの伝令の輪にも、ときどき、ごく淡い光が脈を打つように通うだけだ。東門の、北門側と塔の伝令の輪と同じ光り方で、金色はどこにもない。
「三つとも静かです。東門の閉じる術式が来ていなかった二つと同じです」
「これで正常な門の動きが、分かったということですね?」
「そうです。この動きでないものは、異常ということです」
「それで、次は?」
リシアはそう言って、動きを書き留めていた手帳から、俺に目を戻した。
「閉じる術式を、外から門へ送れるのは何ですか?」
「各門の防衛塔と、それから点検具です。魔術師たちが、『安全』か『危険』かを門や塔へ送る魔道具です」
「その点検具で、わざと閉じる術式を送ってみたことは?」
「あります。毎月一台ずつ、決まった手順で試しています。一度も、門が誤った動作はありません」
「その試験を、俺にも見せてもらえますか? 正常に閉じるとき、何が送られるのか確かめたいんです。東門用と、別の門の点検具も比べてみたいです」
リシアは、少し考えてから頷いた。
「院の試験室に、本物と同じ動きをする、小さな門の模型があります。許しが出れば、そこで試せます」
麦灯り亭に戻ったのは、昼を少し過ぎたころだった。テッサが窓ぎわの卓に、豆のサラダとパンを二人分並べてくれた。フィンが水差しを運んできて、真剣な顔でリシアの杯に水を注ぐ。
「ありがとう。上手ね」
フィンは得意げに胸を張って、厨房へ戻っていった。
俺はパンをちぎりながら、リシアに聞いた。
「東門を開けたとき、リシアさんの手から、腕より太い流れが出てるのが見えました……あれ、どれくらいの魔力なんですか?」
「普通の魔術師なら、一人では一度に流せない量です」
「それだけ流して、制御はできるんですか? 他の術式に影響はないんですか?」
「そこが、いちばん難しいところです」
リシアはスプーンを置いた。藍色の瞳の奥に、ぽっと灯りがともったようだった。
「たくさん流すだけなら、力任せでもできます。でも、流しすぎれば、門は『誰かにいじられている』と思って、また閉じるかもしれません。だから、開ける術式の形に沿わせて、あふれないように流しこむんです」
両手を卓の上に出して、見えない門柱に手を当てる仕草をする。
「封じのくさびも同じです。ちょうどいいと、くさびの刻印が、ぼうっと淡く、揺れずに光る。ちらちら揺れたら弱すぎ。あのとき北門側の光が一瞬止まったのは、強すぎたからです。教本には書いてありません。何度も点検で差しているうちに、覚えたんです」
言葉が、どんどん速くなっていく。
「それから、魔防壁が薄れても、消えきるまではあの子を呼ばないって決めていて――」
そこまで言って、リシアは、はっと口をつぐんだ。
「あ、すみません。こんな話、つまらないですよね」
「いえ。天才って言われる理由、よく分かりました」
「……今さらですか?」
少しむっとしたように言う。たぶん、普段から言われている言葉なのだろう。
「魔力の多さにも驚きましたけど、説明が上手なんです。俺は魔法を使えないのに、何が難しくて、どう工夫したのかが分かりました。そういうことを、ちゃんと分けて話してくれるんです」
リシアは、ぽかんと口を開けた。唇が二、三度動いて、止まる。
「そんなふうに、言われたのは……」
小さな声で言いかけて、目をそらした。その目が、卓の上の椀に落ちる。豆の煮込みから、もう湯気が立っていなかった。
「あ。……冷めてる」
「話に夢中でしたね」
「あなたが、聞くからです」
「すみません。面白かったので」
「だから、そういうことを……っ」
リシアの耳が、みるみる赤くなった。厨房の窓から、テッサが顔を出す。
「温め直しましょうか?」
「い、いえ、大丈夫です! 冷めてもおいしいので!」
リシアは、慌ててスプーンを動かしはじめた。
食べ終わると、俺は懐から紙を出して、卓に広げた。
「さっきの話でありましたが、門は、ちょっとした魔力の加減で変化が生じるようです。なら試験でも、一つずつ確認しないとならないですね」
「私が南門側の伝令の輪だけを封じて、北門側と塔には触らなかったのと、同じですね」
「そうです……リシア先生が仰る通りです」
「先生はやめてください」
そう言いながら、リシアは炭筆を取って、紙の余白に三行書き足した。
――試験室の模型の使用許可。
――東門と南門の、予備の点検具を一台ずつ。
――点検具の扱いに慣れた者を、一人。
「最後のは?」
「試験室で、点検具の扱いを任されている子がいるんです。腕は確かなんですけど……少し変わっていて」
「変わっている、というと?」
「会えば分かります」
書類入れを抱えて立ち上がったリシアは、戸口で一度だけ振り返った。
「ごちそうさまでした。冷めても、おいしかったです」
厨房の窓の向こうで、テッサが「また来てくださいね」と笑った。




