第40話 港町ベルナへ
休日から二日たった朝、俺は藍のシャツに袖を通して階段を下りた。
窓ぎわの卓では、クロエが角の椅子で固いパンをかじっていた。ロガーはその向かいの座布団の上にいて、ネネは湯気の立つ杯を両手で抱えている。
戸口が開き、リシアが入ってきた。紺のコートの襟元まで留めて、院の印章を押した書状を手にしている。
「おはようございます。院から新しい仕事の知らせです」
座る前に、リシアは書状を卓の真ん中に置いた。
「ベルナの治癒院から、ゆうべ遅くに院へ知らせが届きました。院から納めた治癒の魔石に、効かないものがあるそうです」
卓のまわりが、静かになった。
治療師はヒーラーと呼ばれ、魔石の力を解放し治癒の魔法を使うことできるらしい。この王都でも治癒院はいくつもあった。
「魔石が反応せず、治療の順番を待つ人が増えています。神殿の治癒師たちが、ほかの手当てでしのいでいると」
ネネの杯が、卓の上でかたりと鳴った。
「ベルナの治癒院……それ、私が魔石を調整したやつだ」
ネネは杯を置き、膝の上で両手を握った。
「そうです。でもネネを疑っている訳ではありません。出荷時の試験で異常はありませんでした」
リシアはそう言ったが、ネネは俯いたままだ。
俺は、試験室の治癒の魔石を思い出していた。開門の術式を写すと実際に門を開けられた魔石だ。また今回も何か脆弱性があるのではないだろうか。
「院長から、私たちへの正式な依頼です。ベルナに行って調べてほしいと」
「どうして、俺たちに?」
「ネネは、治癒の魔石を調整しています。それに、東門で魔石を使った問題も解決しました。院長は、それで決めたそうです」
ガルドがパンをちぎる手を止め、クロエは残りを口へ放りこんだ。
「ベルナなら、荷馬車で丸一日だな。北の外壁は、若いのに任せる。どうせ親方は、来るなと言われてるしな」
「荷車なら、ロッシュの親父が出してくれるはずだ。御者は任せて」
ロガーが、卓の縁から顔を上げ、ガルドに言った。
「私も行きます。港も、海も、まだ見たことがありません」
「遊びに行くんじゃないぞ」
「分かっています。見てみたいんです」
ロガーが猫のように伸びをした。
「リシアさん、正しく動作する治癒の魔石は院にあるでしょうか?」
「ええ、ありますけど」
「一個持って行きましょう。動作しない魔石と比べる時に、正しい治癒の魔石が必要です」
みんなは一度解散し、昼の鐘がなった時に麦灯り亭に再集合することになった。
俺は、ブルーノから旅用の大きめのカバンを借り、シャツと下着を放り込み、食堂から表に出た。
ロッシュ商会の荷車にラバが一頭。帆が付いた荷台には、全員が座れるベンチと荷物置き場があり、全員乗り込んだ。
クロエが、御者台に座り手綱を引くと馬車がゆっくりと歩き出した。
東門の出口で、オットーが片手を上げた。
「ベルナか。潮風で、のどをやられるなよ」
「行ってきます」
門を出てしばらくは石畳が続き、やがて車輪の跡が刻まれた土の道に変わった。荷車は思っていたよりずっと揺れた。俺は荷台の縁をつかみ、腰の位置を何度も直した。
「ナオト、荷物に背中を預けて、膝を少し曲げて。揺れに逆らうと、夕方には腰がやられるよ」
御者台のクロエが、前を見たまま言った。手綱を片手に持ち、もう片方の手でパンをちぎっている。
「クロエさんは、慣れてますね」
「荷を運ぶのが仕事だったから。この道も、何度も通っている」
言われたとおりにすると、揺れが体の芯から少し逃げていった。隣では、ネネが荷物の袋に頭をのせて、もう寝息を立てていた。
道の両側には、刈り入れの済んだ麦畑が続いていた。昼は道端の井戸でラバに水を飲ませ、俺たちも干し肉とパンで腹を満たした。
日が傾きはじめたころ、クロエが顔を上げた。
「潮の匂い」
俺には、まだ何も分からなかった。
それから半刻ほどで、風の中に塩気と、濡れた木と、魚の匂いが混じりはじめた。丘を一つ越えると、急に視界が開けた。
海だった。
夕日を受けて、一面が金色に揺れている。その手前に、灰色の屋根がひしめく港町が広がっていた。町の奥の小高い丘には、白い壁の建物が二つ並んでいた。
「あれが、神殿と治癒院です」
リシアが指さした。ロガーが道具袋の上で立ち上がり、「……大きいです。どこまでが、海ですか?」と聞く。
「どこまでも、だよ」
ネネが目をこすりながら起き上がって、答えた。
荷車は、港へ下る長い坂に入った。
坂を下りきると、ベルナの町に入った。石畳の道が、海へ向かって何本も延びている。両側の家は、どれも低い灰色の屋根で、軒先に網が干してあった。潮と魚の匂いが、路地の奥から流れてくる。桶を担いだ男たちが、荷車とすれ違うたびに道の端へ寄った。
桟橋には船が並んでいた。夕方の荷揚げは、ほとんど終わっていた。
宿は、港の角にあった。二階建てで、軒の低い建物だ。宿の主人が戸口から顔を出し、ラバを裏の馬屋へ回すよう、顎で示した。
一階の食堂で、焼いた魚と潮の味のスープが夕食で出た。ネネは「ベルナのお魚、おいしいです!」と声を上げ、クロエに「静かに食べな」と言われて、肩を縮めた。
部屋は二階に二つ取った。荷を置くなり、ネネが窓へ飛びついた。
「見てください! 海が見える!」
ロガーは寝台に飛び乗り、枕を抱えて転がった。クロエは靴を脱ぎ捨てて、そのまま寝台に寝そべる。
リシアが、階段を上がってきて部屋の入口で足を止めた。
「はい、そこまで。明日は治癒院へ行きます。夜は早く休んで、気を引き締めてください」
まるで、修学旅行の引率の先生だ。ネネが「はーい」と首をすくめ、ロガーが寝台から飛び降りた。




