第39話 帰る場所
帰り道、市場の角で、甘い匂いがした。
屋台の鉄鍋で、ねじった小麦の生地を揚げている。揚がったそばから蜂蜜をたらりとかけていた。
俺が足を止めると、リシアも止まった。
「一つずつ、どうですか?」
「……はい」
油の染みた紙に包んでもらって、歩きながら食べた。外はかりっとしていて、中は柔らかい。蜂蜜が、指に垂れる。
リシアは少しずつかじりながら、屋台の並ぶ通りを眺めていた。
「院の近くにも、こういう屋台はあるんです。でも、一人だと、なかなか寄らなくて」
「分かります。一人だと寄りにくい店ってありますよね」
俺は、最後のひと口を口に放りこんで、指の蜂蜜をなめた。
「今度は、ネネも誘いましょうか。ネネなら、三つは食べそうです」
リシアの足が、ほんの一瞬だけ遅れた。
それから、すぐに追いついてきた。
「ネネなら、四つくらいいけそうです」
そう言って、リシアは笑った。
石鹸の包みを抱えなおす音が、かさりと鳴った。
麦灯り亭に戻ったのは、日が少し傾きはじめたころだった。
表の戸からではなく、裏庭へ回る。
裏庭では、敷布の取りこみが始まっていた。
クロエが、物干しの紐から洗濯ばさみを外している。外した敷布の端を、フィンが両手で受け取って、籠へ落とさないように抱えていた。
フィンの抱えた敷布の端が、地面に垂れかけた。クロエが黙って手を伸ばし、その端を持ち上げる。
「土に、つく」
「わ、わかってる!」
クロエの尾が、ゆっくり一度だけ揺れた。
ロガーは、裏庭の隅に伏せた空の樽の上に座っていた。
ロガーが、こちらに気づいて顔を上げた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
答えてから、喉の奥で言葉が引っかかった。
前の世界で、ただいまは、明かりの消えた部屋に向かって言う言葉だった。返事が来たことはない。
「敷布は、乾いたか?」
「はい。日が真上に来たころ、いちばん大きくふくらみました。風が止むと、しぼみます。また風が来ると、ふくらみます」
「……見てて、面白かったか?」
ロガーは、少しだけ考えた。
「はい。少しだけ」
厨房の裏口から、テッサが出てきた。手を前掛けで拭きながら、俺の肩の網の袋を見て、目を丸くする。
「あら、重かったでしょう……まあ、いい石鹸。灰がよく効いてるわ」
「院の洗濯場が使っているお店だそうです。それと、これを」
俺は小さな紙の包みを差し出した。テッサが紐をほどくと、薄紫の石鹸が出てくる。花の匂いが、ふわりと広がった。
「シャツを繕ってもらうお礼です」
「まあ……ありがとうございます」
テッサは石鹸を鼻に近づけて、目を閉じた。
「お店の手洗いに置こうかしら……いえ、これは、私が使います。もったいなくて、なかなか減らないでしょうけど」
テッサは石鹸を包み直して、前掛けのポケットにしまった。それから、物干しの端に掛けてあったシャツを一枚外して、俺に差し出す。
今朝のシャツだった。右の肘に、同じ色の布が小さな四角に当ててある。
「洗って、乾いてから繕いました。もう少しは着られますよ」
「ありがとうございます」
「新しいのは、何色にしたんです?」
俺が紐をほどいて見せると、テッサは藍のシャツを手に取って、俺とリシアを見比べた。
「あら、いい色……ナオトさん、灰色ばかりでしたものね」
リシアが、なぜか空のほうを見た。
籠いっぱいの敷布を抱えて、クロエとフィンが裏口から入っていく。リシアもそのあとに続いて、裏口の段を上がった。
段の上で、クロエが一度だけ振り返って、リシアに小さく聞いた。
「……楽しかった?」
「え? ……はい。石鹸屋さんで、ナオトさんが、手を洗う石鹸で敷布を洗おうとしてしまってーー」
リシアは、また思い出したように笑いだした。クロエは「そう」とだけ言って、敷布の籠を抱え直した。
窓ぎわの卓に戻ると、フィンが杯を運んできた。湯気の立つ、薄い香草の茶だ。
俺の前と、リシアの前と、クロエの前。ロガーの前には、浅い皿。
「あとの二人の分は、帰ってきたら出すって、母さんが」
フィンはそう言って、厨房へ駆けていった。今度は、途中で歩く速さに戻した。
帰ってきたらーー
湯屋のガルドも、試験室のネネも、夜になればきっとここへ来る。この卓へ、帰ってくる。
窓から差す光が、卓の上を少しずつ伸びていった。
厨房から、テッサが明日の分のパンを捏ねる音が聞こえてきた。




