第38話 石鹸と藍のシャツ
「大通りより、こっちのほうが近いんです」
麦灯り亭を出て少し歩いたところで、リシアが細い路地を指さした。
家と家のあいだを、石段が下っていく。両側の窓から窓へ紐が渡してあって、前掛け、子供の上着、継ぎの当たった敷布など、色とりどりの洗い物が風に揺れていた。
石段の途中の低い塀の上で、灰色の猫が一匹、腹を空に向けて寝そべっていた。
リシアが、足を止めた。
「あ、ロガー……じゃないですね」
自分で言って、自分で吹き出す。
「ロガーは、あんなふうにお腹を見せて寝ません」
「見たことないですね……本人に言ったら、『見せる理由がありません』って言いそうです」
「言います。絶対に言います」
リシアは、口もとを押さえて笑った。猫は片目だけ開けて俺たちを見て、また閉じた。
東の市場の奥へ入ると、空気の匂いが変わった。
灰を溶かした汁を煮る、鼻の奥がつんとする匂い。その下に、獣脂の重い匂いと、干した香草の匂いが混じっている。
石鹸屋は、その通りのいちばん奥にあった。開け放した店先に、切り分けた石鹸がレンガのように積んである。
奥から、袖をまくった太った女の人が出てきた。
「おや、院のお嬢さんじゃないか。今月の分は、まだ先だろう?」
「今日は、私用なんです。こちらの方の宿で使う、洗濯用の石鹸を」
「ああ、そうかい」
女の人は、俺を上から下まで一度だけ見た。
店先の棚で、レンガのような石鹸の隣に、薄紫色の小さな石鹸を見つけた。手に取ると、花の匂いがした。
「これ、いい匂いですね。これにしましょうか」
「旦那、そりゃ顔と手を洗う石鹸だよ」
女の人が、腰に手を当てた。
「それで敷布を洗ったら、宿の客がみんな、花畑で寝てるような匂いになっちまう。値段も、洗濯のやつの五倍はするよ」
「……五倍」
俺は、薄紫の石鹸をそっと棚へ戻した。
隣で、リシアが袖で口を押さえていた。とうとう声を立てて笑いだした。
「ご、ごめんなさい。ナオトさん、すごく真剣な顔で、匂いをかいでいたから……」
「前にいたところでは、石鹸は用途が書いてある紙に包まれていて、匂いはなかなか嗅げないもんでしたらから」
「紙に包まれていたの?」
「はい。ですので、匂いは想像するしかなかったんです」
女の人も笑いだした。
「洗濯はこっち。獣脂と灰の、いちばん普通のやつだ。泡は少ないが、汚れはよく落ちる」
灰色がかったレンガのような石鹸を四つ包んでもらう。思っていたより重く、網の袋に入れると肩に食いこんだ。
俺は、もう一度だけ、薄紫の石鹸の棚を見た。
「……それと、この小さいのを一つ、別に包んでもらえますか?」
「おや。顔を洗うのかい?」
「宿の人に渡したいんです。シャツを繕ってもらうので」
リシアが、俺の顔を見た。それから、ふわりと笑った。
「いいと思います。テッサさん、冬になると手が荒れるって、前に言っていましたから」
女の人は、薄紫の石鹸を薄い紙でくるんで、紐で十字に縛ってくれた。小さな包みは、リシアが持つことになった。
古着屋は、市場の大通りへ戻る途中の、屋根つきの通りにあった。
軒から渡した竿に、上着やシャツが何十枚もぶら下がっている。繕いのきちんとしたものが多い。
俺は、まず灰色のシャツを手に取った。丈夫な麻で、色が濃い。
「これなら、汚れが目立たなくていいですね」
「ナオトさん、今の上着も灰色ですよね?」
「はい」
「下に着ているシャツも、灰色でしたよね?」
「……はい」
言われてみれば、三枚のシャツはどれも灰色か、それに近い色だった。
リシアは竿のシャツを一枚ずつ指先でめくり、途中で手を止めて一枚を外した。
深い藍色のシャツだった。襟の縫い目がまっすぐで、袖口に小さな木のボタンがついている。
「こういうのは、どうでしょう?」
「……少し、明るくないですか?」
「明るくないです。藍は、落ち着いた色です」
リシアはシャツを広げ、一歩近づいて俺の肩に当てた。
近かった。リシアの指先が、俺の肩の上で止まった。
リシアは、ぱっと手を引いて、一歩下がった。
「か、肩幅は……合っていると、思います」
声が、少しだけ高い。
見ると、リシアの耳の先が赤くなっていた。長いこと服を選んでいたから、暑くなったのだろうか。
藍は、リシアの目の色に近かった。だから、この色が似合うかどうかを、よく知っているのかもしれない。
「じゃあ、これにします。リシアさんの見立てのほうが、確かそうなので」
「……そうですか」
リシアは、それだけ言って、台の上のシャツの山へ目を落とした。口もとが少しゆるんでいた。
結局、藍のシャツと、白のシャツを一枚ずつ買った。テッサが「白っぽいのも一枚は」と言いそうな気がしたからだ。灰色は、もう三枚ある。
店の主人が、二枚をまとめて紐で縛ってくれた。




