第37話 休日の午後
テッサは何も言わずに笑って、蜂蜜の壺を取りに厨房へ戻っていった。
「配達ですか?」
俺が聞くと、クロエは長靴の先を見下ろした。
「夜明け前に一つね。ロッシュの親父に急ぎだからどうしてもって言われて、北の区のパン屋に粉を二袋届けた」
札の騒ぎのとき、帳面を見せてくれた、窯番の老人の店だ。
「パン屋さんに粉を届けて、別のパン屋さんで朝ごはんですか?」
テッサが蜂蜜の壺をクロエの前に置きながら聞いた。
「あそこの店は、城に納める分しか焼いてない。座るところもないしね」
戻ってきたフィンが、クロエの前のパンをのぞきこんだ。
「クロエも、耳が好きなの?」
「固いほうが好き。歩きながら食べやすいしね」
「おれと同じだ!」
フィンが勝ち誇ったようにロガーを見る。ロガーは白い中身を、前足で少しだけ自分のほうへ寄せた。
「私は、歩きながらは食べません」
クロエが、蜂蜜の壺の木のスプーンをくるりと回してパンに付ける。口の端が、わずかに上がっている。
戸口が、もう一度開いた。
今度はガルドだった。卓まで来ると、空いた椅子にどっかりと腰を下ろした。
「……追い出された」
「どこからですか?」
「保守小屋だ。顔を出したら、若いのに言われた。『親方は今日は休みでしょう。北の外壁の分は、俺たちで回しますから』だとよ」
「いい職人さんたちですね」
「半人前どもが、生意気言いやがって」
テッサがガルドの前にも椀を置くと、ガルドはパンを三つ続けざまに平らげ、大きく伸びをして立ち上がった。
「湯屋へ行ってくる……休みってのは、こういうもんなのか?」
そう言って、ガルドは戸口を出ていった。
テッサが、裏口から顔をのぞかせた。腕に、乾いた手ぬぐいの束を抱えている。
「ナオトさん。洗い物、まだ出してないでしょう? 今日はよく乾くから、敷布のついでに洗っちゃいますよ」
「じゃあ、お願いします……それと、これなんですけど」
俺は上着の袖をまくって、シャツの肘を見せた。テッサが近づいてきて、裂け目に指先を当てる。
「あらあら。繕っておきます……ナオトさん、シャツは何枚お持ちでしたっけ?」
「これを入れて、三枚です」
「三枚!」
「毎日あちこち走り回る人が、三枚じゃ足りませんよ……ついでに言うと、洗濯の石鹸も、これで最後なんです。いつも買っていた石鹸屋さんが、最近港からの荷物が遅れているらしく、在庫切れみたいで、どこか、ほかに――」
「おはようございます」
そのとき戸口から、リシアの声がした。
いつもの紺のコートではない。薄黄色のブラウスに、淡い灰色の短い上着。腰の杖だけは、いつものとおり差してある。
「リシアさん。今日は、院で仕事は?」
「今日は、何もありません」
「ネネも誘ったんですけど、試験室で、記録鏡の裏板を外していました。『休みの日は、好きなことをしていい日ですよね』って」
「ネネらしいですね」
言いながら、俺も笑ってしまった。きっと今ごろ、レンズを額に押し上げて、裏板の溝に顔を近づけている。
リシアが、俺の肘の裂け目と、テッサの抱えた手ぬぐいを見比べた。
「何か、ありましたか?」
「シャツが一枚だめになりかけてるのと、洗濯の石鹸が切れそうなんです」
「石鹸なら、院の洗濯場が頼んでいるお店があります。東の市場の奥です……ご紹介しましょうか?」
言ってから、リシアはテッサのほうを見て、言い足す。
「あの、テッサさんが、そのお店でよければですけど」
「助かります。院の洗濯場が使うなら、きっと間違いないわ」
テッサが頷いた。
「洗濯用の、獣脂の石鹸を四つ。重いですけど、お願いできます?」
「はい。運ぶのは、俺がやります」
「シャツも買いたいので、古着屋さんも教えてもらえますか?」
「はいはい。もちろんです」
卓の角で、クロエがパンをかじりながら、ちらりとリシアを見た。クロエは何も言わず、蜂蜜をもうひとさじパンに垂らした。
「クロエさんは、どうしますか?」
「ここにいる。夜明け前から走って疲れた」
クロエは椅子の背にもたれて、足を前へ投げ出す。今日はもう、ここから動く気はなさそうだった。
「ロガーも来るか?」
「今日は、ここにいます。夕方に、テッサさんがパンをこねるところを見せてもらうので」
「それに、敷布が乾くところも、まだちゃんと見たことがありません」
「……見てて、面白いか?」
「分かりません。見てから決めます」
フィンが「おれも見る!」と手を挙げた。
俺は二階へ上がって洗い物を袋にまとめ、裂けたシャツも一緒に入れて、裏口のテッサへ渡した。代わりに、石鹸を入れて帰るための編んだ網の袋を受け取る。
戸口では、リシアが待っていた。上着の裾を指で一度直し、俺に気づいて手を下ろす。
「行きましょうか」
「はい」
戸口を出るとき、振り返った。
窓ぎわの卓で、クロエが日なたに目を細めている。ロガーはその向かいで、裏口の向こうの敷布を見ていた。厨房の窓からは、テッサの鼻歌が聞こえてくる。
「行ってきます」
誰にともなく言うと、厨房の奥から「いってらっしゃい」と返ってきた。




