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第36話 麦灯り亭の休日

 目を開けると、黒ずんだ梁が二本、頭の上を渡っていた。

 窓の板戸の隙間から、朝の光が細く差しこんでいる。

 ここは麦灯り亭の二階の、俺の部屋だ。


 この世界にも曜日の概念があり、今日は、日曜だった。戸を叩く院の使いも、門から走ってきた伝令もいない。床板の下から、皿の触れ合う音と誰かの笑い声が聞こえてくるだけだ。

 日は、もうずいぶん高いらしい。

 起きなければならない理由が思いつかなかったが、身体を起こした。


 椅子の背に、ゆうべ脱いだシャツが掛けてある。袖を通そうとして、手が止まった。右の肘に、指が二本入るほどの裂け目ができている。洗い場で、ヤンさんと柱の陰へ隠れた時にできたのだろう。

 裂け目を内側へ折りこんで、上から上着を羽織った。


 階段を下りると、パンの匂いが濃くなった。

 朝のピークは過ぎ、客は数名ほどしかいない。厨房の窓から湯気が上がり、裏口は開け放してあった。その向こうで、干したばかりの白い敷布が風にふくらんでいる。


 窓ぎわの卓では、フィンとロガーが向かい合っていた。

 フィンは椅子に膝立ちになって、卓に頬杖をついている。ロガーは座布団を重ねたいつもの椅子で、前足をそろえて座っていた。二人の間に、丸いパンが一つ、半分に割って置いてある。


「ねえ、ロガーは、パンの耳と中、どっちが好き?」

「中です。耳より柔らかくて好きです」

「えー? 耳がいちばんおいしいのに」


 フィンは、耳だけをちぎって自分の口へ放りこんだ。

 ロガーは、白い中身のほうを前足で少し引き寄せてから、フィンを見上げた。


「フィン。私が下りてきたとき、パンはもう焼けていました。いつ作っているんですか?」

「夜だよ。母さんが、夕方に粉と種をこねて、布をかぶせとくの。朝になると、ふくらんでる」

「寝ているあいだに、ふくらむんですか?」

「そう。おれが起きるころには、もう窯に火が入ってる」


 フィンが得意そうに胸を張る。

 ロガーは、パンの断面を見ていた。白い中身に、細かな穴がいくつも開いている。


「では、この穴は、夜のあいだにできたんでしょうか。今朝、テッサさんが丸めていた生地は、もうふくらんでいました」

「……そうなの?」

「私も、分かりません。こねるところは、まだ見たことがないので」


 フィンはパンを持ち上げて穴をのぞきこみ、椅子からぴょんと跳び下りた。


「母さんに聞いてくる!」


 駆けだしかけたところで俺に気づいて、くるりとこちらを向く。


「あ、お兄ちゃん。おそよう」

「……おはよう」

「父さんが、今日はお兄ちゃんたち、お休みだって言ってた。ほんと?」

「ほんとだよ。今日は、何も頼まれてない」


 フィンは「ふうん」と言って、厨房へ駆けていった。厨房の窓の向こうから「走らないの」と声が飛び、足音が少しだけ遅くなる。

 俺は、ロガーの向かいに腰を下ろした。


「ロガーは、いつから起きてたんだ?」

「窯に火が入る少し前からです。テッサさんが、ふくらんだ生地を丸めるところを見ていました」

「面白かったか?」

「はい。テッサさんは、はかりを使いません。手でちぎって丸めるだけなのに、どれも同じ大きさになっていました」


 それは、俺も知らなかった。この宿で何十回も食べてきたのに。

 厨房から、テッサが籠と椀を持って出てきた。前掛けの裾に粉がついている。その後ろに、フィンがくっついていた。


「おはようございます、ナオトさん。よく眠れました?」

「はい……寝すぎたくらいです」

「休みの日は、それでいいんですよ」


 テッサは笑って、温め直したパンと赤茶色の豆の煮込みを俺の前に置き、ロガーのほうへ向き直った。


「パンの穴のこと、フィンに聞かれました。ロガーさんが言ったんですって?」

「はい。夜のあいだにできたのか、分からなかったので」

「当たりですよ。種が、夜のあいだに少しずつ息をするの。その息が、中にたまって穴になるんです」

「種も、息をするんですね」


 ロガーの耳が、少しだけ前を向いた。


「こねるところも、見てみたいです」

「夕方に、明日の分をこねますから。見に来ていいですよ。でも粉の中には、入らないでくださいね」

「入りません」


 真面目に答えるロガーに、テッサは目を細めた。

 俺は、パンをちぎって煮込みに浸した。豆が崩れかけるほど柔らかい。


 戸口の戸が開いた。

 入ってきたのは、クロエだった。濃い色の革の上着の肩に、朝の冷えた空気をまとっている。長靴の先が、少し濡れていた。

 クロエは食堂をひと目見回すと、まっすぐ窓ぎわの卓へ来た。隣の卓から椅子を一脚引いて、卓の角、戸口の見える側へ据える。そこに腰を下ろし、尾を椅子の脇へ流した。

 俺がそれに気づいたときには、クロエはもうテッサのほうへ顔を向けていた。


「おはよう。パン二つ下さい。よく焼けてて、固いほうね」

「はいはい。いつものですね」


 テッサが、皮がいちばん厚く焼けたパンを二つ選んだ。


「それと……蜂蜜、ある?」

「ありますよ……クロエさん、甘いものもお好きなんですね」

「朝だけにしてるけどね」


 そう言いながら、クロエの尻尾が小さく揺れた。

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