第35話 ヤンとペーター
古道具屋の戸には、鍵がかかっていた。衛兵がザイツの腰から鍵を取り、戸を開ける。店の中は、暗く静まっていた。
ネネがレンズの光を、足もとと棚だけに向けた。帳場の後ろの棚。その二段目に、古い型の記録鏡が一枚、布もかけずに置いてあった。
柄の付け根の縁に、馬のひづめのような形の欠けがある。
「……俺のだ」
店の戸口で、ヤンが呟いた。
衛兵が鏡を手に取り、ネネの差し出した小箱へ、縁に触れ再生されないように慎重に入れた。
リシアと衛兵が、引き出しや二階や物置を見て回った。記録鏡は他にも何枚か出てきたが、ヤンの声は出てこなかった。
「私たちが見た範囲では、写しの鏡は洗い場で押さえた一枚だけです。ほかの場所に隠していないかは、詰め所で改めて聞いてもらいます」
北の区の衛兵の詰め所は、坂の上の、石造りの小さな建物だった。
奥の小部屋に、記録係の年配の衛兵が一人。机の上に、二つの小箱が並べられた。原物の記録鏡と、洗い場で押さえた手鏡がある。
部屋に入ったのは、ヤンと年配の衛兵、リシアとネネ、それに俺だけだった。ほかの皆は、廊下の長椅子で待っている。
年配の衛兵が、全員を見渡し言った。
「脅しの証として、何が残っていたかを確かめて書き留めます。聞くのは、この部屋の者だけ……よろしいか?」
ヤンは唇を引き結んで、頷いた。
ネネが、原物の裏板の縁に指先を当てた。鏡の面がかすかに揺れ、色の抜けた影と、かすれた声が浮かぶ。
「――明日は、麦を西の倉へ。昼までに……日が落ちたら、手綱はペーターに」
ネネは、そこで指を離した。手鏡も同じ一行を確かめて止める。
記録係は、再生された言葉を紙に書きヤンに署名を求め、ヤンはそれに署名をする。
「証拠はこれで足りる。鏡の中身は、持ち主に返そう。消すなら、ここで消していい」
ネネが写しの手鏡を伏せ、青い魔石を押さえて三十数えた。もう一度裏板に流れを送っても、手鏡の面は何も映さなかった。
「写し方は、これで読めません」
原物の記録鏡を、そっとヤンの前へ押しやった。
「こっちは、ヤンさんの鏡です。消すなら、ヤンさんの手で」
ヤンは、しばらく鏡を見下ろしていた。親方から譲られた、ひづめの形に欠けた鏡。
ヤンは鏡を両手で取り上げて、一度だけ表に返した。くすんだ面に、日に焼けた自分の顔が映る。それから伏せた。太い親指を、縁の青い魔石に乗せる。
「一、二、三……」
ヤンは声に出して、数えはじめた。数えるたびに、親指に少しずつ力がこもっていく。
俺は、インスペクトで裏板を見ていた。溝の奥を巡っていた淡い流れが、端のほうから、ひとつ、またひとつと細くなっていく。二十七のところで、最後の流れが消えた。ヤンは、三十まで数えきってから、指を離した。
「魔力の流れは、見えなくなりました」
俺が言うと、ネネが鏡を受け取り、縁を触り再生する。鏡の面は、揺れもしなかった。
「……声が出ません。消えていますね」
ネネが鏡を返すと、ヤンは長い息を吐いた。
「……親方にも、教えてやりたかったな。伏せて叩くだけじゃ、足りねえって」
「これから誰かに鏡を譲るときは、伏せて、魔石を押さえて三十数えてください。知らない人に売るときは、特に」
ネネが言った。ヤンは、鏡を胸に抱えて頷いた。
ザイツが聞いたことまで、消えたわけではない。けれど、ヤンが売った記録鏡も、脅しに使った手鏡もここにあり、ザイツは衛兵の手の中だ。もうヤンは脅迫されることはないだろう。
麦灯り亭に戻ったのは、夜の鐘の少し前だった。
戸を開けると、カウンターの端に、ひょろりとした少年が一人座っていた。十七くらいだろうか。御者の襟巻きを、ヤンと同じように首に巻いている。
「……おじさん!」
少年が、椅子から跳び下りた。
「どこ行ってたんだよ。この何日か、ずっと変だったじゃないか。夕方になると、黙ってばっかりで……」
「ペーター……ちょっと、こっち来い」
ヤンは少年の腕を取り、階段の下の隅へ連れていった。俺たちの卓からも、二人の横顔が見えた。
帽子を取って両手で握る。それから、その手を少年の頭に置いた。低い声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
「……悪かった。お前を、疑いかけた」
「え?」
「俺の夜目のこと、誰かにばれてた。お前が漏らしたんじゃねえかって、一瞬でも思っちまった……違った。俺が売った鏡から、漏れてたんだ」
ペーターは、ぽかんと叔父の顔を見上げていた。口をとがらせた。
「……おじさんのことなんか、誰にも言うかよ」
「ああ。分かってる。すまなかった」
ヤンは、ペーターの頭をくしゃくしゃにかき回した。ペーターは嫌そうな顔をしながら、手を払いのけなかった。
「商会の親父たちには、俺が自分で話す。夜の荷は、お前に手綱を任せてるって……それで仕事が減ったら、減ったときだ」
「減らないよ。俺はもう一人で、夜道も走れる」
ペーターが、胸を張った。二人は、そろってこちらの灯りのほうへ戻ってきた。
テッサが、小さな卓へ、椀を二つ運んできた。
「さあ、座って。今日の煮込みは、胡椒が効いてますよ」
ヤンとペーターが、並んで腰を下ろした。ヤンはスプーンを取り、しばらく湯気を見つめて、一口すくった。
「……味がする」
ぽつりと、そう言った。
ペーターが、なんだそれ、という顔でヤンを見た。ヤンは答えずに、二口目をすくった。三口目も、四口目も。止まらなかった。
俺たちの卓にも、椀が運ばれてきた。卓に置かれるより先に、クロエが小さく鼻を鳴らした。
「胡椒のほかに、月桂樹……それと、玉ねぎを焦げる手前まで炒めてる」
「当たりです。よく分かりますね」
テッサが、目を丸くして笑った。
六つの椀が、卓に並んだ。
クロエが、着古した前掛けを畳んで膝に置き、尾を椅子の脇へ流した。
「その前掛け、似合ってましたよ」
ネネが言うと、クロエの耳がぴくりと動いた。
「変装しただけ」
「洗い場の人に、本気で洗濯を頼まれてましたよね?」
「……頼まれた。断れなかった」
リシアが、スプーンを持ったまま吹き出した。
ロガーが、卓の縁から顔を出した。隣の卓のヤンを眺めてから言う。
「ヤンさんは、洗い場にいたときより顔色がいいですね。たくさん食べています」
「そうだな。一件落着だ」
ガルドが、パンをちぎりながらガハハと笑う。
フィンが、空いた皿を抱えて通りかかり、ふと足を止めた。
「ねえ、お母さん。ここって、アジトなの?」
「宿ですよ」
テッサは笑って、フィンの頭を撫でた。
「でも、困った人が来たら、シーサーズに相談しましょうね」
隣の卓で、ヤンがおかわりの煮込みを頼んでいた。ペーターが、呆れたように笑っていた。




