第34話 古い洗い場
北の区の古い洗い場は、坂の下の小さな広場に面していた。
太い石の柱が、平たい石の屋根を支えている。壁は奥の一面だけで、残り三方は広場へ吹き抜けだ。腰の高さの長い石の洗い桶が並び、奥の壁の獅子の口から細い水が流れ落ちていた。
金を置くように指定されたのは、表から数えて三つ目の洗い桶の下だった。その位置から逃げ道になりそうなのは、奥の壁の端の、低い木の戸が考えられた。
俺はインスペクトで周りを見渡したが、石の重さが見えるだけで、魔法の反応は無かった。
「ヤンさんは、袋を置いて、ここへ戻るだけでいいです。相手が来ても、近づかないでください」
「……分かった」
ヤンは、銀貨の袋を握りしめていた。中身の半分は、ただの小石だ。
三つ目のすぐ手前では、クロエが布を洗っていた。薄汚れた前掛けを締め、布を洗っている。
ほかの皆も、それぞれの場所で待機していた。
夕方の鐘が、坂の上の塔から鳴りはじめた。
洗い物をしていた女たちが、籠を抱えて一人、また一人と帰っていく。最後に残ったのは、クロエだけになった。
ヤンが、三つ目の洗い桶に歩み寄った。桶の下の石の台の隙間に、袋を押しこむ。
言われたとおり、俺の柱のところまで戻ってきた。
しばらく、水の落ちる音だけが続いたが、突然クロエの耳が、すっと奥の戸のほうへ向いた。
一拍おいて、戸が、きい、と鳴った。
クロエが読んだとおり、入ってくるのは奥の戸からだった。戸の向こうでは、ガルドが空の木箱の陰にしゃがんでいるはずだ。
入ってきたのは、頭巾をかぶった男だった。両手に木の桶を一つずつ提げている。獅子の口の水を汲みに来た水汲みの男――そんなふうに見えた。
途中で一度だけ、頭巾の下の目が梁を見上げた。洗い籠の山を足場に、ロガーが上がった梁だ。そこで灰色の猫が一匹、目を細めていた。男はすぐに目を戻し、ロガーは耳一つ動かさなかった。
桶を提げた腕は、重そうに下がっている。
俺は、インスペクトで桶を見た。
取っ手にも、男の腕にも、重さの流れがほとんど通っていない。井戸の釣瓶を吊る綱なら、重さが灰色の筋になって下へ引いているはずだ。
――あの桶は、空だ。
俺は柱の陰で帽子を一度だけ取って、かぶり直した。決めておいた合図だ。広場の井戸のそばで、リシアが立ち上がる。仕事帰りの男のような上着の衛兵が二人、その横で腰を上げた。布を詰めた小箱を抱えたネネも一緒だ。
男は三つ目の洗い桶の前で足を止め、桶を置いた。台の隙間から袋を引き出し、それから、上着の内側に手を入れた。
袋を仕舞い代わりに出てきたのは、手のひらほどの小さな鏡だった。
男は、柱のところのヤンへ顔を向けた。頭巾の下から、墨の染みた指がのぞく。
「確かに、受け取った……ついでに、聞かせといてやる」
男の指が、鏡の縁を叩いた。かすれた声が、石の屋根に響いた。
――日が落ちたら、手綱はペーターに
男は、すぐに鏡の縁を押さえて声を止めた。
「来月も、三十枚。持ってこなけりゃ、これを商会の連中に聞かせる」
ヤンの肩が、びくりと跳ねた。
井戸のほうから、足音が二つ、洗い場へ入ってきた。上着を脱ぎ捨てた衛兵が、短い棒を構える。ネネも小箱を抱えて、そのすぐ後ろから走りこんできた。
「北の区の衛兵だ。今の、聞いたぞ。その袋と、鏡を置け」
男は袋を放り出し、奥の戸へ駆けだした。
戸が、外から開いた。ガルドの肩幅が、戸口をまるごと塞いでいた。
「おっと! 通さねえよ!」
ガルドが一歩踏みこむと、男は押し戻されて、三つ目の洗い桶のそばまで下がった。前には衛兵。後ろにはガルドがいて身動きがとれない。
男の右手が、小さな鏡を高く振り上げ、洗い桶の、角の石を見た。
「鏡を割る気です!」
俺が叫ぶより早く、隣の桶からクロエが跳んでいた。
濡れた布を放り、低い姿勢のまま一歩で男の脇へ入る。振り下ろされる手首を、下からつかんだ。
鏡が、男の指から離れた。くるくる回りながら、水を張った洗い桶のほうへ落ちていく。
衛兵の脇から、ネネが洗い桶の縁に身を投げ出し、両手で鏡をキャッチした。角の石まで、指一本ぶんだった。
男が、空いているほうの手で、足もとの空の桶を、柱のそばのヤンめがけて、力まかせに投げつける。
俺はヤンの腕を引いた。二人で、柱の陰へ倒れこむ。
桶が柱の石にぶつかって割れ、木の破片が足もとに散った。
柱の陰から顔を上げると、男がもう一つの桶をつかみ上げるところだった。腕を大きく後ろへ引く。
その向こう、広場の入口に、リシアが杖を構えて立っていた。杖の先の青い魔石が、男に向いている。
風が、洗い場を横切った。
並んだ洗い桶の水面が、端から端までいっせいに波立つ。振りかぶった男の手から、桶がもぎ取られるように消えた。桶は宙を回り、奥の壁の獅子の口の下の水溜めへ落ちて、白い水しぶきを高く上げた。
その隙にクロエが、一瞬で男までの距離を詰め手首をひねった。男の体が半回転して、膝が石の床に叩きつけられた。
「動くと腕をへし折るよ」
衛兵が駆け寄り、男の手首に縄をかけた。頭巾が外れる。五十過ぎの痩せた男だった。
「古道具屋のザイツです」
クロエが、前掛けの紐をほどきながら言った。
洗い桶の水面が、ようやく静かになっていく。リシアが杖を下ろし、広場の入口から歩いてきた。
ヤンは、柱の陰に座りこんだまま、動けずにいた。
俺はヤンの横に座った。
「ヤンさん、けがは?」
「……なんとも、ねえ」
俺の袖をつかんだ指に、まだ力が入っている。
ネネが、小さな鏡を持って、こちらを振り返った。
「鏡は割れてないです。……縁には触ってません。叩いたら、また声が流れちゃうので」
「この鏡は、このまま衛兵さんに渡してください」
リシアがそう言うと、衛兵の一人が頷き、鏡を受け取った。放り出された銀貨の袋も、拾い上げて別の布に包む。
ロガーが、梁から床へと下りてきた。衛兵の一人が、ぎょっとしてロガーを見下ろす。
「猫? お前ずっと見ていたのか?」
「はい。この人は、三つ目の洗い桶の下から袋を取り出して、小さな鏡の声を聞かせました。そのあとで、『来月も、三十枚』と言いました」
衛兵は、ロガーが喋るのが信じられないのか、なんども瞬きをしている。
縄をかけられたザイツが、床に膝をついたまま吐き捨てた。
「……古い鏡には、客がうっかり残したもんが入ってる。脅したのは、今度が初めてだ」
「ヤンさんが売った鏡は?」
リシアが聞いた。ザイツは、顔をそむけ言った。
「帳場の後ろの棚だ……写しは、その手鏡一枚きりだ」
「詰め所へ行く前に、店を見せていただけますか? ヤンさんの鏡を見せてください」
洗い場の屋根の向こうで、空が赤から藍へ変わりはじめていた。




