第33話 フォーマット
ネネが院から持ってきたのは、手鏡ほどの楕円の鏡だった。くすんだすずの枠に柄がついていて、付け根の縁に小指の爪ほどの青い魔石が一つ。
「院の備品です。四十年くらい前の型。ヤンさんのと、同じですよね?」
「……ああ。親方のと、そっくりだ」
ヤンは作業台の端に立ったまま、鏡から目を離さなかった。
「録るものは、何でもいいんですけど」
ネネが鏡を構えると、机の上にいたロガーが、すっと前足をそろえた。
「私が試します。やってみたいです」
ネネが縁の青い魔石を押す。鏡の面が、水面のようにかすかに揺れた。
「今日は、晴れです。ネネが、勝手みんなのお菓子を食べました」
「それ、言わなくていいやつ!」
ネネが指を離して縁を一度叩くと、鏡の面にロガーの姿が浮かび、小さな声が繰り返された。インスペクトで見ると、縁には細い光の線が一本灯る。一本が、一つの記録の印らしい。
ネネは、鏡を作業台に伏せた。
「で、ヤンさんがやった消し方。伏せて、縁を二回」
こつ、こつ。
表に返すと、縁の光の線は消えていた。叩いても、面には何も浮かばない。
「……消えた。俺がやったときと、同じだ」
ヤンが、息を詰めて言った。
ネネが鏡を裏返して、銀色の裏板をこちらへ向けた。細い溝が、何本も刻まれている。
俺はインスペクトで溝を見た。表にはもう何も通っていないのに、溝の奥を淡い流れがまだ巡っていた。
「裏に、まだ流れが残ってる」
「やっぱり」
ネネがレンズを裏板にかざした。
「古い型は、板が表と裏の二枚なんです。録ったものは裏に刻まれて、表には目録が出るだけ。伏せて二回叩いて消えるのは、表の目録だけなんです」
ネネは、裏板の縁に指先を当てた。髪の毛ほどの細い流れが、溝の奥へ入っていく。インスペクトでみると、細い魔力を、細く、長く調整して操作しているのが、よく分かる。
そして、その魔力が奥の青い塊に到達すると、鏡の向こうから、かすれた声がした。
「……今日は……晴れ、です……」
ヤンが、帽子を握ったまま一歩後ずさった。顔から、血の気が引いていく。
「消したはずなのに!」
「ヤンさんの声は完全には消えていません」
ネネが指を離すと、声は消えた。
前の世界にも、似た話があった。中身を消したつもりでスマホやパソコンを手放し、残っていたデータを悪用される。データを消したはずだが、初期化状態に戻したり、フォーマットが不十分だったケースが多い。
「本当に消すには、どうするの?」
リシアが聞いた。
「底消しです。伏せたまま、縁の魔石をずっと押さえておく。三十数えるくらい」
ネネが鏡を伏せ、青い魔石に親指を乗せて数えはじめる。裏板の淡い流れが、端から薄れていった。三十まで数えると、完全に流れが消えていた。
「ヤンさんの鏡は、売ったあと、誰かが上から録り直していなければ、残っているかもしれません」
俺はヤンに向き直った。
「今のは、同じ型の鏡で試しただけです。ヤンさんの鏡に本当に残っていたのかは、その鏡を見つけないと分かりません。でも、ペーターさん以外にも、ヤンさんの声を聞いている人がいるんです」
ヤンは、唇を噛んで頷いた。
東の市場の古道具屋は、ロッシュ商会から通りを二本隔てた角にあった。
俺とリシアとヤンは、少し離れた果物の屋台の陰で待った。
古道具屋に入ったのは、クロエ一人だった。
濃い色の上着を脱ぎ、洗い場の女がよく着る、汚れた前掛けを締めて、空の籠を腕に下げている。耳も尾も隠していない。この市場では、獣人も珍しくないからだ。
四半刻ほどして、クロエが籠を下げて出てきた。屋台の前を素通りし、角を一つ曲がってから、俺たちのほうへ戻ってくる。
「安い手鏡がほしいって言って、棚を見せてもらった。帳場の後ろの棚に、古い型の記録鏡が一枚あった。柄の付け根の縁に、馬のひづめみたいな形の傷」
「俺のだ! 親方の馬に蹴られたとき、欠けたんだ」
「記録鏡を初めて見た何て言って、手に取らせてもらった。すぐ取り上げられたけどね」
クロエは、前掛けの紐をほどきながら、ヤンを見た。
「柄に、あんたの匂いが残ってたよ」
「……俺の?」
「さっき、上の部屋でずっと近くにいたから。馬と、手綱の革の脂と、目薬の草の匂い……店の親父の匂いに混じって、薄くだけど」
ヤンが、自分の手を見下ろした。
「匂いだけで、あんたの鏡だとは断言できないけどね。まず間違いないと思う」
前掛けから、いつもの革服に着替えながらクロエが言った。
「それと、店主はザイツ。五十くらいの、指にいつも墨のついてる男。私が棚を見てるあいだに、帳場の引き出しから手のひらくらいの小さい手鏡を出して、何か確かめてから、上着の内側へしまった。同じような、声が記憶できる魔導の手鏡かもね」
「魔導の手鏡なら、声の写しは取れます」
リシアが言った。
「鏡を二枚向かい合わせにして再生すれば、映ったものと声を、もう一枚へ録り直せます。院の記録係も、そうやって記録の複製をしていました」
ヤンが、はっと顔を上げた。
「なら、俺が店で自分の鏡を買い戻せば――」
「それだけでは、止まらないと思います」
俺は言った。
「写しがあるなら、原物を買い戻しても、脅しは続けられます。止めるには、脅している本人と、写しの鏡を、両方押さえないといけません」
ヤンの肩が落ちた。けれど、すぐに顔を上げた。
「……明日の夕方の鐘だ。洗い場に、金を置けって」
「ええ。そこで、押さえましょう」
リシアが、懐から院の札を出して見せた。
「北の区の衛兵の詰め所には、私から連絡します。お金を受け取るところを見届ければ、脅した証になります。ヤンさんには、洗い場まで来ていただくことになりますけど……」
「行く」
ヤンは、帽子を今度は頭にかぶり直した。
「俺のことだ。俺が行かなきゃ、話にならねえ」
クロエの耳が、角の向こうの古道具屋へ一度向いて、すぐに戻った。
「洗い場なら、知ってる。朝と夕方は、女たちでいっぱいになる場所だ。今夜のうちに、一回、見てくる」
そう言うと、クロエは音もなく駆け出して行った。




