第32話 アジトはここかい?
クロエが麦灯り亭でシーサーズの卓に座るようになり、四日が過ぎた。
その朝、リシアは院から戻るなり、卓に木の札を一枚置いた。表に青い印が焼きつけてある。俺が最初にもらったのと同じ札だ。
「院から、クロエさんに正式に仕事を依頼します」
クロエが、札を手に取り見つめながら言う。
「これで私もシーサーズの一員ってことだね?」
「そうです。一緒の頑張りましょう」
クロエは札を上着の内側へしまった。
リシアは、ガルドのほうへ顔を向けた。
「外壁の図と鍵は、保守班と院の係に引き継ぎ終わりました」
「職人どもは、もう北の外壁から線を追いはじめてる。何か月かかるか分からねえがな」
ガルドが、パンをちぎりながら言った。
「クロエさんは、明日から私と一緒に来てください。院と保守班の連絡係をお願いします」
「分かった」
黒灰色の耳が、ほんの少し前を向いた。
昼の客が引きはじめたころ、麦灯り亭の戸が、半分だけ開いた。
戸口に、日に焼けた四十過ぎの男が立っていた。くたびれた上着に、御者がよく巻く厚手の襟巻き。帽子を両手で握りしめ、食堂の中を見回している。
「いらっしゃいませ。お食事ですか?」
厨房の窓から、テッサが顔を出した。
「い、いや……ここに、その、シーサーズのアジトってのがあるって聞いて」
残っていた客が何人か振り返った。男は、しまった、という顔をした。
ネネが、目を輝かせて俺を見た。俺は首を振った。仕事部屋なら院にあるし、ここは宿だ。けれど、町ではそういうことになっているらしい。
「ロッシュ商会の荷を運んでる御者仲間から、聞いたんだ。倉の荷を盗られて、運び手の獣人の娘が疑われてたのを、ここの連中が晴らしてくれたって……」
男の目が、卓の角に座るクロエで止まり、慌てたように視線を逸らす。
テッサが前掛けで手を拭きながら出てきて、男の顔と帽子を一度だけ見た。
「あなた。鍋を見ていてくださいな」
ブルーノが黙って厨房へ入り、鍋の柄をつかんだ。
「フィン、お客さんのお勘定をお願い」
「はーい」
テッサは、男の肩にそっと手を添えた。
「ここでは、話しにくいでしょう。上のお部屋が空いてますので、どうぞ」
二階の、いちばん奥の部屋だった。俺の部屋の隣で今日は空き部屋のようだ。
テッサは茶を置いて、何も聞かずに下りていった。
男は寝台の端に浅く腰かけ、茶の杯を両手で包んだまま、口を開かなかった。入ったのは俺とリシアとクロエ、それに俺の足もとのロガーだけだ。ネネとガルドは、廊下に残った。
「ナオトといいます。こちらはリシアさんと、クロエさん。王立魔術院の仕事で、門や道具の困りごとを調べています」
「……ヤンだ。荷馬車の御者をやってる。東の市場の商会を、いくつか掛け持ちで」
ヤンは、杯の縁を見つめたまま言った。
「脅されてるんだ。金を払わねえと、俺のことを雇い主たちに知らせるって……」
懐から、折りたたんだ紙を一枚出した。二日前の朝、家の戸の下に差しこまれていたという。
リシアがヤンの許しを得て受け取り、読んでから、俺にも見せた。
――夜目のきかない御者のことを、雇い主に知られたくなければ、銀貨三十枚を用意しろ。三日後、夕方の鐘のころ、北の区の古い洗い場。三つ目の洗い桶の下に置け。
その下に、一行だけ、引用のように書いてあった。
――日が落ちたら、手綱はペーターに
ヤンの指が、杯を握りしめ、俯いたままゆっくりと話しだした。
「俺は、日が落ちると、目がきかなくなる。三年くらい前からだ。夕方の鐘を過ぎると、道の端も、馬の頭も、灰色に溶けちまう。
商会の連中は、夕方に出す荷も多い。夜目がきかねえ御者なんか、誰も雇わねえ。うちには、死んだ姉貴の息子がいる。ペーターって、十七の。あいつを一人前の御者にしてやるまでは、仕事をなくすわけにいかねえんだ。
それで、日が落ちたら、手綱をペーターに任せていた。誰にも言わずに。その言葉は、俺がいつも口に出して、自分に言い聞かせてたんだ。聞いてたのは、ペーターだけのはずだ」
ヤンは、ようやく顔を上げた。目の縁が、赤かった。
「あいつが、誰かに漏らしたとしか思えねえ……でも、聞けねえんだ。聞いたら、何かが壊れちまう気がして」
リシアが、何か言いかけて、口を閉じた。クロエは窓の脇の壁にもたれたまま、ヤンを見ていた。
しばらく沈黙が続いたあと、俺はヤンに聞いた。
「ヤンさん。その言葉は、口に出して言うだけでしたか?」
「……え?」
「どこかに書いたり、残したりしたことはありませんか? それと、最近、売ったり譲ったりした物はありませんか?」
ヤンは、ぽかんと俺を見た。それから杯を卓に置いた。
「……鏡だ」
「鏡?」
「記録鏡。親方から譲ってもらった古い型の魔導品のやつだ。字を書くのが遅えから、荷の行き先を、朝、あれに吹きこんで覚えてた。夜は明日の道順と……そのあとに、いつも言ってたんだ。日が落ちたら、手綱はペーターに、って」
「十日前に、売った。目の薬代が足りなくて。東の市場の古道具屋に……でも売る前に、ちゃんと消した。鏡を伏せて、縁を二回叩いた。何も映らなくなったのも、確かめた」
リシアが、俺を見た。俺は頷いた。
「ペーターさんを疑う前に、その鏡を調べさせてください。消したはずの記録が、本当に消えていたのか」
ヤンは俺の顔を見ていたが、やがて息を吐いた。握りしめていた帽子が、膝の上で緩んだ。
「……頼む。あいつを疑ったままじゃ、飯の味もしねえんだ」
「廊下の仲間に、鏡のことだけ伝えてもいいですか? 古い道具を調べるのは、得意なやつがいるんです」
ヤンが頷き、俺は戸を開けた。廊下の長椅子で、ネネが顔を上げる。
「古い型の記録鏡を消したそうなんだ。確かめたい」
「それなら、院の試験室に一枚あります。記録鏡の種類少ないので、たぶん同じ型です」
俺の足もとで、ロガーが首をかしげた。
「鏡も記録をするんですか?」
「映ったものと、声をね。ロガーとは、少し違うけど」
ネネが答えると、ロガーはヤンのほうを見上げた。
「鏡に残っていたのなら、ペーターさんが話したのではないかもしれませんね」
ヤンは、しばらくロガーを見下ろしていた。それから頷いた。
ネネは、もう階段を下りかけていた。
「院まで、鏡を取りに行ってきます!」




