第3話 封じのくさび
「届き続ける、閉じる術式を止める前に、中が本当に危険なのか確かめます」
リシアは鍵を握ったまま、顔を上げた。鼻のすすは、きれいに拭き取られている。日はもう高い。石畳の照り返しがじりじりと暑く、縄の外からは、相変わらず不満の声が上がっていた。
「門は、中に危ないものがいると受け取って閉じています。本当にいるなら、止めるわけにも、開けるわけにもいきません」
リシアは道具入れから、編み棒ほどの細い銀の棒を一本抜いた。
「魔導針です。魔物や呪いの気配に近づくと、先が震えます」
彼女は魔導針を魔防壁に近づけ、入口の端から端まで、ゆっくりとなぞっていった。それから城壁の根元に沿って、左右へ十歩ずつ。縄の外の人々の視線が、銀の針先に集まる。針先は、一度も震えなかった。
「おおい、上から何か見えるか!?」
オットーが、城壁を見上げて声を張った。三階建ての家ほどの高さの城壁の上から、兜の衛兵が身を乗り出す。
「何もねえ! 外の街道も、北門のほうも南門のほうも、静かなもんだ!」
俺もトンネルの中へ目を凝らした。透きとおった二枚の魔防壁。天井の見張りの魔石に、うっすらと通う青。真ん中では、男の子が干しあんずを両手で持って、小さくかじっている。
見慣れない流れは、どこにもない。
「俺の目にも、変わったものは見えません」
「魔導針にも、何もかかりません。……ただ、針に引っかからない危険もあります」
「俺の目も同じです。見えないからって、ないとは言えません」
ここで確かめられる範囲には、危ないものは見つからない。
縄の内側で、父親がずっと拳を握っていた。日に焼けた、がっしりした身体だ。荷を担ぎ慣れた太い腕に、街道の土埃が白くこびりついている。
俺は、その隣に立った。
「閉じる直前のこと、覚えてますか?」
「門番が『次!』って呼んで……あいつが、真っ先に駆けこんだ。俺は荷車の柄を持ち上げようとして……そしたら、アーチの縁が白く光った」
それから、声が急に硬くなった。
「……あいつが、何かしたせいなのか?」
「違います」
俺ははっきり言った。
「魔導針にも、城壁の上の見張りにも、危ないものは見つかっていません。それに、閉じる術式は今も外から届いています。あの子のせいではありません」
父親の拳が、少しだけゆるんだ。
門柱の前へ戻ると、リシアが鉄の蓋の前にしゃがんでいた。手のひらを二枚並べたくらいの大きさで、赤茶けた錆が浮いている。金色の筋は、その縁の隙間から走り出てくる。
「開けます。急ぎの処置です」
鍵を回すと、錆びたちょうつがいが、ぎい、と鳴った。
ひやりとした湿った空気と、苔の匂いが流れ出てくる。中は、拳が二つ入るくらいの、石の小さな洞だった。奥の壁に、緑がかった黒色の青銅の輪が三つ、横一列にはめこまれている。指輪を大きくしたような形で、上に、すり減りかけた字が一文字ずつ。
「北、南、塔」
リシアが、指でなぞりながら読み上げた。
「伝令の輪です。魔導線を使って伝わる魔力や術式を受け取ります」
三つの伝令の輪から、糸のように細い魔導線が、城壁の奥へ延びている。北と塔には、ぽつり、ぽつりと、淡い青い光が決まった間で通うだけだ。向こうとこちらで、まだつながっているかを確かめ合っているような光り方だった。
金色は、南から来ている。
「南」の字の下の伝令の輪の奥から、金色の筋が走ってくる。輪をくぐり、蓋の隙間から外へ抜けて、石畳の継ぎ目を門柱まではっていく。
「南門側の伝令の輪です。金色は、全部あそこから来ています」
「南門の誰かが、送ってるってことですか?」
「分かりません。南門側の魔導線を通ってきた、ということだけです」
俺は少し考えてから、言った。
「三つとも、いったん止められませんか? 外から届くものを全部止めて、門が落ち着くか見るんです。落ち着けば、原因は外だと分かります」
「できません」
即答だった。
「三つ全部を止めたら、この門は外からの危険に無防備になります。北門のほうで魔物が出ても、東防衛塔が異変に気づいても、ここへは届かない」
リシアは、膝の上で拳を握った。
「あの子を早く出したいのは、私も同じです。でも、そのために、ほかの人を危険にさらすことはできない」
言い返す言葉は、なかった。
俺が考えていたのは、原因を突き止めることだけだった。前の世界でいえば、通信不通の原因を探すために、外からの危険な通信を止めるファイアウォールを停止するようなものだ。調べるには手っ取り早いが、守りはがら空きになる。
「……そうですね。すみません」
「止めるのは、南門側の伝令の輪だけにします」
リシアは道具入れから、小指ほどの銀の金具を取り出した。先が細く尖り、表面に細かな刻印がびっしり入っている。
「封じのくさびです。伝令の輪に差しこむと、その輪から届くものを止められる。北門側と東防衛塔の伝令の輪は、そのまま。見張りの魔石も生きている。本当に中で何かあれば、門はちゃんと閉じます」
くさびを伝令の輪へ近づけようとした手に、俺は声をかけた。
「封じる前に、今の様子を書き留めておきませんか?」
「今ですか?」
「封じたら、動きが変わるかもしれません。封じたあとだけ見ても、何が変わったのか分かりません」
リシアは、ほんの一瞬だけ考えた。それからくさびを膝の布に置き、自分でも伝令の輪をのぞきこんだ。ゆっくり十数えるごとに、一本。金色が門柱へ潜るたび、二枚の魔防壁が白さを増す。男の子が、そのたびにびくりと肩をすくめた。
「十数えるごとに、一度。ずっと同じです」
「昼過ぎ。南門側の伝令の輪から、十数えるごとに一度。金色が届くたびに、魔防壁が強まる」
リシアは短く書きつけ、手帳を閉じた。けれど、まだ封じのくさびには手を伸ばさなかった。
「もう一つ、決めておかないといけないことがあります。この伝令の輪を封じたら、南門やその周辺で本当に何か起きても、東門では分かりません」
「なら、兵に南門のほうを見張ってもらって、何かあったら知らせてもらえませんか?」
「見張りをどこに立てるか、どう合図するかを決めるのは、守備隊です。魔術院では決められません」
そのとき、縄の外の人々が左右に割れた。
城壁沿いの道を、南門のほうから馬のひづめの音が近づいてくる。その後ろから、歩兵が五、六人と、息を切らしたヨナスが続いていた。
「クラウス隊長だ」
オットーが、小さく言って背筋を伸ばした。
馬を降りたのは、四十代ほどの、背の高い痩せた男だった。短く刈った黒髪に、細い目。灰色のマントの下に、使いこんだ革の胸当てが見える。
「閉じた門の前で、魔術院の娘と、どこの馬の骨とも知れん男がしゃがみこんでいる。魔術院の仕事ぶりは見事なものだ」
リシアの肩が、ぴくりと動いた。けれど、何も言い返さなかった。
クラウスは、手にした紙をひらりと振った。さっきヨナスが持っていった、あの紙だ。
「子供が一人、けがなし。塔からも点検具からも開かず。理由は不明。欲しいのは兵と指揮官……魔術院の書き物にしては、要点がそろっている」
「書こうと言ったのは、この人です」
リシアが俺を見た。細い目が、俺の頭から爪先までをなぞった。
「何者だ?」
「旅の者です。ミヤモト・ナオトといいます」
「流れ者に門をいじらせるほど、魔術院は人手が足りんのか」
「いじらせてはいません。見てもらっているだけです」
リシアの声は平静だった。隊長は鼻を鳴らし、オットーに向き直る。
「オットー。何が分かった? 短く報告しろ」
「閉じる術式が、南門側の伝令の輪から十数えるごとに届いてる。塔が開けても、リシアの点検具で開けても、そのたびに閉じ直す。リシアが、南門側の伝令の輪だけ、封じのくさびで止めたいそうだ」
「封じれば、南門で何か起きても、東門では分からない。なら、東門にはどう知らせる?」
「魔導線の代わりに、人の目と足で」
俺が言った。
「南門とそのまわりを兵に見張ってもらって、何かあったら、旗か伝令で東門の城壁へ伝えてもらう必要があります」
「城壁の上の兵は、俺の兵だ。魔術院の都合で動かす駒じゃない」
クラウスは、俺を見もせずに言った。
それから一呼吸だけ黙って、城壁の上を見上げた。
「……だが、理屈は通る。いつまで封じるつもりだ?」
「原因が分かるまで、くさびは抜きません」
リシアが答えた。
「そのあいだは、ずっと代わりの見張りが要ります」
「いつまでか分からん、ということか?」
「はい」
「正直でいい」
隊長は、うしろの兵に向き直った。声が、急に速くなる。
「東の城壁に二人ずつ、南門のほうを向いた見張りを立てろ。問題が起きたら赤、異常なしなら半刻ごとに白。南門へ早馬を出し、南門とそのまわりを見張らせろ。向こうで何かあれば、城壁伝いに旗と伝令で東門へ回す。日が落ちたら兵を足して間隔を詰めろ。待っている者は北門へ回せ」
兵たちが、一斉に散っていった。
「オットー。東門はお前が仕切れ。魔術院との話もだ。南門のほうは、俺が見る」
馬の手綱を取ったところで、隊長はふとリシアを振り返った。
「おい、魔術院の娘。守備隊への報告書は、次も同じ書式で書け」
それだけ言って、馬にまたがった。ひづめの音が、南門のほうへ遠ざかっていく。
「ああいう人なんだ。口は悪いが、決めるのは早え」
オットーが肩をすくめた。リシアは、遠ざかる背中を見送っていた。
「……同じ書式、だそうです」
口元が、ほんの少しだけゆるんでいた。
しばらくして、東の城壁の上で、兵が二人、南門のほうを向いて立った。
さらにしばらくして、南の方角の城壁の上で、小さな白い旗が振られた。東の城壁の兵がそれを受け、こちらへ白い旗を振り返す。
「南門から合図! 向こうの見張りも立ったそうです!」
城壁の上から、声が降ってきた。リシアが頷き、膝の布から封じのくさびを取り上げた。
「南門側の伝令の輪を、封じます」
魔防壁の向こうで、男の子が立ち上がった。
父親が、両手を口に当てて叫んだ。
「もうちょっとだぞ! もうちょっとだからな!」
「うん!」
小さな手が、干しあんずの袋をぎゅっと握りしめた。




