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第28話 盗品の行方

 坂を下りきった角で、クロエは壁から背を離した。


「東の市場の外れに、貸し荷車屋がある。一昨日の晩、夜の鐘のあとに手押し車を借りて、夜明け前に返しに来た男がいた。珍しいから、親父が覚えてた」


 クロエは、自分の長靴の先を見下ろした。うっすらと、赤い土がついている。


「車輪に、赤い泥がついてたって。西の市場の、なめし革屋の並びの泥。あそこは、染め汁で土が赤い……それと、借りた男の爪の間が白かった。乾いた土みたいだったって」

「樽の封の、粘土……」


 ネネが、はっと顔を上げた。


「倉で封の粘土を練るのは、ヨルグ。昼の休みに、詰め所の釘のそばで練ってるのも、あいつ。このひと月、新しい長靴を履いて、酒場のつけも払ったって噂だった」


 リシアが頷いたが、俺ははっきり言った。


「それだけでは、ヨルグさんが盗った証拠にはなりません」

「分かってる。だから、見に行く」


 クロエは、東の市場のほうを振り返った。


「ヨルグは、夕方の鐘で倉を上がる。荷がまだ町にあるなら、様子を見に行くはず……尾行の経験は?」

「ありません」

「なら、私から二十歩離れて。私が止まったら、必ず止まる」


 それから、クロエは俺の足もとのロガーを見て言った。


「あんたは高いとこにいて。あいつの近くでは、しゃべらないで」

「分かりました。近くでは、野良猫のふりをしています」


 ネネが、俺の袖を引いた。


「私、ガルドさんを呼んできます。荷車を止めることになったら、ガルドさんの力が必要ですよね?」

「頼む。見つけたら、西の市場の入口で待っててくれ」


 ネネは頷いて、南へ走っていった。

 夕方の鐘が鳴り終わるころ、ロッシュ商会の脇の戸から、がっしりした男が出てきた。

 日焼けした太い腕に、前掛けの跡が白く残っている。新しい長靴が、夕日を受けて光っていた。ヨルグだ。


 男が西へ歩きだすと、クロエも歩きだした。黒灰色の耳も尾も人ごみに紛れ、見分けにくくなる。急いでいないのに、男との距離はまったく変わらない。

 クロエから二十歩離れて、俺とリシアは続いた。ロガーは、その先を塀の上から進む。

 ヨルグは、西へ向かう通りの途中で、酒場に入っていった。

 クロエは向かいの屋台でりんごを手に取り、俺たちはほかの屋台をのぞくふりをした。


 ロガーは、酒場脇の塀の上で前足をたたみ、尾を体に巻きつけて目を半分閉じている。店先のランタンの色にまぎれて、耳の縁の淡い光はほとんど目立たない。

 酒場から出てきた酔客が、ちらりと塀を見上げた。


「なんだ、野良猫か」


 それだけ言って、通りへ出ていく。ロガーは、ひげ一本動かさなかった。

 しばらくして、ロガーは塀の上を伝い、屋台の裏まで戻ってきた。そこで初めて、小さく口を開く。


「ヨルグは、まだ酒場の中です。私が見ていた表の戸からは、出てきていません」


 ヨルグが出てきたのは、鐘ひとつぶんほど経ってからだった。空はもう、藍色になりかけている。


 ヨルグは、また西へ歩きだした。なめし革屋の並びへ下りる分かれ道で、荷車が二台すれ違い、車輪とラバの体が通りをふさいだ。その荷車が通り過ぎたとき、ヨルグの姿はどこにもなかった。

 分かれ道から細い路地が三本、暗がりへ延びていた。どの口にも人が行き交い、干した革が揺れている。ヨルグの背中は、どれにも見えない。

 リシアが、俺の袖をつかんだ。


「……消えた?」


 俺にも分からない。インスペクトでも、人ごみに消えた一人は探せない。ここで見失えば、荷はどこかへ運ばれていく。

 クロエは分かれ道の真ん中で足を止め、路地の奥から吹く風へ鼻先を向けた。

 革の匂いと染め汁の酸っぱい匂い、屋台の焼き串の煙が混ざっている。その中から何かを嗅ぎ分けたのか、クロエは三本目の路地へ顔を向けた。


 迷いのない足取りで、もうその路地へ入っていた。そこの路地は、路地の土が、赤かった。

 干し棚の向こうに、がっしりした背中が見えた。

 ヨルグだった。


 クロエが肩越しに、指を一本立て俺達に合図を出す。

 俺たちは路地へ入り、干し棚の陰でクロエに追いついた。


「どうして、三本目だと?」

「封の粘土と、長靴に塗った脂の匂いがした」


 クロエは前を見たまま、声を落として続けた。


「倉で三年、毎日すれ違ってる……革の匂いの中でも、あいつのは分かる」


 路地の両側には、なめし革を干す棚と低い倉が並んでいる。

 奥の板張りの小屋の前で、ヨルグが錠前を開けていた。小屋の中から灯りが漏れ、男の声が二つ聞こえる。

 戸が閉まった。

 クロエは、小屋脇の雨水の樽に片足をかけたと思うと、直後に低い屋根の上にいた。

 屋根をはうように進み、板の隙間に顔を寄せる。頭の上の耳が、中の声のほうへぴたりと向いた。

 隣で、リシアが息を詰めているのが分かった。

 やがてクロエは音もなく屋根から下り、干し棚の陰へ戻った。


「樽が八つ。麦の穂を丸で囲んだ焼き印。ロッシュ商会の印だ。毎日運んでる樽だから、見間違えない」


 息ひとつ乱れていなかった。


「中に、ヨルグと、知らない男が二人。荷車に、もう半分積んである。『西門が開くころ、買い手の荷車が市場の外で待ってる。朝の鐘が鳴る前に、ここを出る』って」

「今夜のうちに、動くつもりですね」

「町の外で買い手の荷車に積み替えられたら、行き先を追うのは、ずっと難しくなります」


 リシアは路地の入口で遊んでいた男の子に小銭を握らせた。手帳を一枚破って持たせ、西門の詰め所まで走ってもらう。

 塀の上から、ロガーが干し棚の陰へ下りてきた。


「ネネとガルドを迎えに行ってきます」


 小さな声でそれだけ言って、ロガーは来た道を駆けていった。


「でも、衛兵が来るまで、待ってくれるとは限りません」

「なら、止めるしかないね」


 クロエの指が、地面の赤い土に短い線を描いた。小屋。曲がり角が一つ。もう一つ。その先の、西の街道へ出る道。


「荷を積んだ車なら、表じゃなくて裏の道を使う。二つ目の角は壁と壁の間が狭く、荷車が必ず遅くなる。私は屋根を伝って、その先へ回り、前を塞ぐ」

「一人でですか?」

「前は、私一人のほうが早い。後の道は、あんたたちが塞いでほしい」


 ちょうどそのとき、路地の入口に、ロガーを先頭にしたネネとガルドの影が見えた。ガルドは、ハンマーを腰に下げたままだった。


「話は、走りながら聞いた。盗人の荷車だな」


 ガルドはクロエを上から下まで一度だけ見て、短く聞いた。


「あんたが、クロエだな? 俺はどうすればいい?」


 クロエは、少し意外そうにガルドを見た。それから、小屋の戸の脇の暗がりを指した。


「そこから荷車が出てきたら、後ろから追って。リシアも」


 それから、なめし革屋の二階へ上がる板の外階段を指す。


「ナオトは、あの上。一つ目の角と表の通りが、両方見える。車がどっちへ行ったか、叫んで」

「私も行きます」


 ネネが言った。ロガーは、もう一つ目の角の塀へ歩きだしていた。


「もし、細い路地に逃げたら、猫のふりをして追います」


 クロエは一瞬だけ笑顔を見せてから頷き、雨水の樽に足をかけた。次の瞬間には、屋根の影に溶けていた。

 外階段の上から見下ろすと、路地は干し棚の影でいっそう暗かった。

 小屋の戸の隙間から、灯りの筋が一本、赤い土の上に落ちている。

 その筋が、ふっと太くなり 戸が、内側から開きはじめた。

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