第27話 通行札
俺はクロエの札を、倉の脇の戸の前でネネに渡した。
「失礼しまーす」
ネネは胸ポケットから魔導レンズを抜き、札を目の高さに掲げた。表は十七という数字。裏返すと、板の縁に沿って細かな溝が並んでいる。深いもの、浅いもの、間隔もまちまちだ。
「数字は、人が読むための飾りですね。台が読んでいるのは、この縁の刻印です。聖印みたいな、魔力のこもった印は、どこにもありません」
東門で回収した青い魔石には、院の聖印があった。この札には、それすらない。
「同じ溝を、別の板に入れたら?」
「同じ札になると思います」
ネネは即答して、ちらりとリシアを見た。レンズを持つ指が、そわそわと動いている。
「……試してみても、いいですか?」
ロッシュは額の汗を前掛けで拭い、しばらく唸ってから頷いた。
「……皆さんの見ている前でなら。やってください」
ネネは道具袋をかき回して、手のひらほどの銅の端切れと、つまようじほどの細いノミを取り出した。
端切れを戸口の段に置き、レンズを片手に、クロエの札と見比べながらノミを当てていく。こつ、こつ、と小さな音がした。指だけが迷わず動く。
最後に、端切れの角を一つ斜めに切り落とした。ノミの先で、表に小さく「試」と刻む。
「これで、こっちが試しの写しだって、誰が見ても分かります」
まず、クロエの札をくぼみに当てる。かちり、と錠が外れ、戸の内側の黒い板に白い字が一行浮かんだ。
――十七番。
ロッシュが戸を閉め直し、次にネネが写しを当てる。
かちり。
同じ音がした。板に、もう一行。
――十七番。
「……同じだ」
ロッシュの声がかすれた。
クロエは、板の二行をじっと見ていた。顔の色は変わらない。けれど組んだ腕の指先が、上着の袖に食いこんでいた。
そのとき、大扉の陰から番頭のトムが顔を出した。帳面を小脇に抱えたまま、クロエを見るなり眉をひそめる。
「獣人の札を、うちの戸で試すんですか。獣が触った札なんて、信用できませんよ」
「トム。今は、この人たちに調べてもらっている」
ロッシュがたしなめても、トムは引かなかった。
「夜の倉に入ったのも、札を持ち出したのも、どうせ鼻の利く奴でしょう。獣の仕事ですよ」
クロエは、トムのほうを見なかった。耳だけが一度そちらへ向き、すぐに落ちた。
「……そう思いたいなら、思っていればいい」
この店では、獣人の運び手だというだけで、真っ先に疑いが向くようだ。
「札の溝の話をしてるんです。獣人かどうかは、関係ないでしょう」
ネネが、むっとしたように言い返した。トムは鼻を鳴らして、大扉の陰へ戻っていった。
「複製でも、開くんですね」
俺は言った。
「板には、札の番号と時刻が残ります。でも、その札を誰が当てたかは残らない」
持ち主の出入りが分かる、という触れこみだった。だが、この台が確かめているのは札の溝だけだ。同じ溝なら、誰が当てても同じ番号になる。溝の形さえ写せれば、端切れと小さなノミがあれば、腕の良い職人でなくても同じ札が作れる。
「入る人に、帳面へ自分で名前を書いてもらうほうが、まだ手掛かりが残ります。筆跡を比べられますから」
「北の取引先は、持ち主の出入りが分かる、と」
「正確に言うと、札の溝が分かるだけです。札の持ち主まで分からないので、説明どおりの品ではありません……言いにくいですけど、騙されたんだと思います」
前の世界で見てきた仕組みが、ふと頭をよぎった。何でもIT化をして、IT化そのものが目的になったシステム。誰が何を確かめるのかという本質を置き去りにしたまま、画面の上では仕様どおりに動いている。
この世界でも同じだった。
ロッシュは、台を見下ろした。
「贈り物だと言われて……普通なら、うちの店が一年かけても買えないような魔導品を、その何分の一かの値で譲ってもらったんです」
これほどの装置を、どうしてそこまで安く譲ったのか。引っかかったが、今は消えた樽のほうが先だ。
「台を購入したときの書類は、残っていますか? 院への届けに添えて提出したいです」
リシアが聞くと、ロッシュは帳場にあると答えた。台の裏にも、作った工房の印が打ってあるという。
ネネは、クロエの札をもう一度レンズの下へ戻した。その手が、ふと止まった。
「……あれ? 刻印の奥に、白いかすが残ってます。粉じゃない。粘土、かな」
ネネが札を傾けると、溝の底に、ごく細い白い筋が見えた。
「私は粘土なんか触っていない」
クロエが、低く言った。ロッシュが、奥の棚を振り返った。
「白い粘土なら、うちの倉にある。樽の口を封じて、商会の印を押すのに使う粘土です。毎日、誰かが練っています」
「クロエさん。札を手放すことは、ありますか?」
「昼の休みに、裏の井戸で手を洗う。そのあいだ、札は詰め所の釘に掛けておく。濡れると錆びるから。みんな、そうしてる」
「詰め所には、誰が出入りしますか?」
「倉で働く者なら、誰でも」
ロッシュが、口を引き結んだ。
昼のあいだ、札は誰の手も届く釘に掛かり、樽の封の粘土もすぐそばにある。札が使われたからといって、持ち主が使ったとは限らない。
リシアが言った。
「倉の中のことは、ロッシュさんと院で確かめます。問題は、詰め所に誰がいたか、粘土を扱うのは誰かです」
俺は、クロエに向き直った。
「クロエさん。消えた荷の行き先を、追ってもらえませんか?」
灰色の目が、わずかに見開かれた。
「……私に?」
「札が使われたことと、クロエさんが盗ったことは、別の問題と思います。札は昼のあいだ釘に掛かっていて、誰でも使えたんですよね?」
俺は続けた。
「八つの小樽を夜のうちに運び出したなら、荷車が要ります。夜に通れる裏道を知っているのはクロエさんしかいません」
番頭が、帳面を抱えて戻ってきていた。
「獣に追わせるんですか。疑われている獣に。正気ですか」
「トム!」
ロッシュの声が、倉に響いた。トムは肩をすくめて、帳場のほうへ消えた。
クロエは、すぐには答えなかった。
倉の戸口の柱に背を預け、視線を荷揚げ口のある裏の路地へ流した。
「……信用してるの? 私を」
「信用というより、証拠から判断しました。荷車の轍、荷揚げ口の粘土、路地に残った足跡。そういう証拠は、嘘をつけません。荷車が使われているなら轍や車輪の跡が残っているはずです」
「……私が逃げたら?」
「あなたの靴跡が残ります。それを追えばいい」
クロエは、ほんの少しだけ口もとを緩めた。それから、表情を戻した。
「……言ったでしょ。黙って待つのは、性に合わないって」
「パン屋の帳面は、俺たちが調べます。クロエさんは、荷の跡を追ってください」
「前にも、獣人だからって盗みの疑いをかけられたことがあった……そういうものだと思ってた」
それ以上は言わず、何があったのかも、俺は聞かなかった。
「だから、証拠で確かめるんです。あなたの言葉より、証拠を見せた方が早いです」
クロエは、答えなかった。ただ、柱に沿って垂れていた尾が、一度揺れた。
しばらくして、クロエは柱から背を離した。
「……夕方までに、行き先の当たりをつける。そっちは、パン屋を見てきて。北の区の、青い屋根の角の店。じいさんは耳が遠いから、大きな声で」
言い終えたときには、もう戸口の外にいた。足音はしなかった。
北の区のパン屋は、坂の途中の角にあった。
窯の熱が流れてくる。粉まみれの老人が耳に手を当てて俺たちの話を聞き、奥から分厚い帳面を持ってきた。
「クロエなら、来たよ! 一昨日の晩、粉を二袋!」
老人が開いたページを、ロガーが読み上げた。
「一昨日の日付です。ロッシュ商会、粉二袋、運び手クロエ。夜の鐘より二刻のち。受け取りは窯番さんです」
「何十年パンを焼いていると思っているんだ。間違えやしない!」
老人は胸を張った。
帳面に書かれた時刻は、夜の鐘より二刻のち。倉の板に残っていたのと同じ時刻だ。北の区から倉までは、歩いて半刻かかる。
「前後の日のページも、見せてもらえますか」
俺が頼むと、老人は眉を上げた。
「いいとも。毎晩、同じように書いてる」
前の日も、その前の日も、同じ筆跡で、同じように時刻が書かれていた。クロエの名もあった。改ざんと思われる跡は、どこにもなかった。
リシアが老人に頭を下げ、俺達はパン屋を後にした。
「クロエさんは、あの時ここにいた……なら、十七番の札を使ったのは、クロエさん以外です」
俺は、そう言って空を見上げた。空が赤くなり、夕方の鐘が鳴りはじめていた。
東の市場へ坂を下りると、途中の角でクロエが壁にもたれて待っていた。俺たちの足音に、黒灰色の耳が先にこちらを向いた。
「当たりがついた」
クロエは、それだけ言って、坂の下を顎で示した。




