第26話 ロッシュ商会
神託で図面――前の世界で言うところのネットワーク構成図を作成した日の午後から、外壁沿いの見回りが始まった。
南の五つの口は俺たちが、北と東と西は院の点検の係とガルドの職人たちが、図面を持って回った。翌日の昼までに外壁はひと回りし、どの口にも知らない魔石はつながっていなかった。
使われなくなった点検箱や小部屋が、図の四角い印のとおりあちこちに残っていた。中に人がいないのを確かめ、線には触らず錠だけを掛けた。壁や床を剥がし、解体して塞ぐのは、保守班と院のこれからの大仕事だ。城下町や城の下は、まだほとんど手つかずだった。
図と鍵を職人と院の係へ預け、見回りは一区切りになった。
俺とリシアとネネは、麦灯り亭で昼食後のお茶をすすっていると、裏口からブルーノが顔を出した。
「おう、帰ってたか。ロッシュの親父から返事が来た。今日の午後なら、倉にいるってよ」
三日前の夜に言っていた、仕入れ先の商会だ。倉の荷の数が、たまに合わないという。
ブルーノは声を落とした。
「それがな。一昨日の晩、たまにどころじゃなくなったらしい。胡椒の小樽が、八つまとめて消えた」
「八つ、ですか」
「胡椒は高えんだぞ。案内する。ちょうど、豆を受け取りに行くところだ」
ロッシュ商会は、東の市場の外れにあった。
通りに面した店先には、麦や豆の袋が口を開けて並んでいる。その裏に、店とつながった石造りの二階建ての倉があった。正面の両開きの大扉は内側からかんぬきがかかり、出入りは脇の小さな戸だけだ。
その戸の横の柱に、腰の高さの石の台がはめこまれていた。上に、手のひらほどの丸いくぼみがある。
「札読みの台です」
出迎えた男が言った。四十過ぎで、腹の出た男だ。店主のロッシュだった。
「あんたが、魔導院のナオトさんかい?」
俺は魔導院と言われ、とっさに返事ができなかった。
「シーサーズです!」
ネネが、元気いっぱいに答えた。
リシアが小さく息をつき、ネネの肩に手を置いた。
「失礼しました。魔導院のリシアとナオトとネネです」
ロッシュは腰から薄い銅の板を外して、くぼみに当ててみせた。かちり、と戸の錠が鳴る。板には、数字が一つ刻まれているだけだった。
インスペクトで見ると、札が触れた瞬間、くぼみの底から細い流れが札の縁をなぞり、柱の奥へ走った。縁の刻印を読んでいるらしい。
「魔道具です。誰の札が、いつ当てられたかは、中の板に残ります。北の取引先が『贈り物だ』と言って、安く譲ってくれたんです。持ち主の出入りが分かるから、見張りを立てる手間が減る、と」
「魔道具が悪用されたのなら、院が調べる理由になります。届けは、私から出しておきます」
ロッシュはほっとしたように息を吐き、戸の中へ俺たちを招いた。
倉の中は、ひんやりとして、麦と香辛料の匂いがした。
袋と樽の列の間を、荷車一台ぶんの通路が正面の大扉から裏の荷揚げ口まで延びている。荷揚げ口は裏の路地に面し、今は板戸が下りていた。
通路の右手の奥、床の埃に、丸い跡が八つ残っていた。
「一昨日の夕方、数えたときにはありました。翌朝には、なかった。大扉はかんぬきがかかったまま。錠が外れていたのは、脇の戸だけです」
ロッシュは脇の戸の内側を指さした。黒い石の板に、白い字が何行も並んでいる。その一行で、指が止まった。
『十七番。夜の鐘より二刻のち』
ロガーが、俺の足もとから板を見上げた。
「一昨日の夜に当てられた札は、それ一つだけです。前の行は夕方で、あとの行は朝の鐘のあとです」
「十七番は、誰の札ですか?」
「……クロエの札です」
ロッシュの声が、少し重くなった。
積み上げた麦袋の陰から、女が一人出てきた。
二十代の半ばくらいだろうか。黒髪の上に、黒灰色の三角の耳が二つ、ぴんと立っていた。黒革の上着の裾から、同じ毛並みの尾が覗いている。革の長靴で歩いてくるのに、足音がほとんどしなかった。
狼の獣人だ。
獣の耳や尾を持ちながら、人と同じように町で働き、暮らしている人たちを、この世界では獣人と呼ぶ。麦灯り亭にも、ときどき客として顔を見せる。
灰色の目が、俺たちを順に見た。頭の耳が、脇の戸と荷揚げ口へ一度ずつ向く。出口を確かめたように見えた。
「私の札だ。でも、私は盗ってない」
感情を表に出さない声だった。
「急ぎの小荷を、裏道を抜けて届けてもらっている運び手です」
ロッシュが言った。
「番頭のトムは、もう衛兵を呼べと言っています。ですが、クロエはこの三年、一度もミスはない。だから、ブルーノに相談しました」
クロエは腕を組んで、壁の板を見ていた。
「私の札が使われたのは、本当なんでしょ? だから、疑われるのも分かる」
「その時間、クロエさんはどこにいましたか?」
灰色の目が俺の方を向いた。
「北の区のパン屋。窯番のじいさんに、粉を二袋届けてた。夜の鐘より二刻のちなら、ちょうど窯に火を入れてる頃……受け取りの帳面に、じいさんが時間を書く。私が頼んだわけじゃない。そういう店なの」
北の区からこの倉までは、歩いて半刻はかかる、とブルーノが言った。
「札が当てられたのは、記録を見れば確かです。でも、誰の手が当てたのかは、板には残りません」
俺はロッシュに言った。
「とりあえず、そのパン屋に行きましょう」
「……それで、何か変わるの?」
クロエが、低く言った。
「帳面やおじいさんの証言を確認します。クロエさんの話が本当なら、次に調べるのは、札がどうやって使われたかです」
クロエは、しばらく俺を見ていた。それから、組んでいた腕をほどいた。
「なら、私も調べる。黙って待ってるのは、性に合わない」
「疑いが晴れるまで、倉には入れるなとトムがうるさくて……」
「入らない。外を調べてくる」
ロッシュが何か言いかけて、口を閉じた。
リシアが、ロッシュに向き直った。
「その前に、札を読む台と、この板を、もう少し詳しく見せていただけますか? それと、クロエさんの札も。持ち主が同意してくれるなら、ですけど」
クロエは、腰の革紐から薄い銅の板を外した。刻まれた数字は、十七。
少しためらってから、それを俺の手のひらに載せた。冷たい銅の板だった。




