第23話 麦灯り亭のシーサーズ
麦灯り亭の戸を開けると、焼けた肉の匂いが押し寄せてきた。
まだ夕方の鐘の前なのに、奥の窓ぎわの卓には白い布が掛けてあった。杯が五つと、ロガーのための浅い皿が一枚、もう並んでいた。
「おかえりなさい」
厨房の窓から、テッサが顔を出した。
「オットーさんが、さっき来てくれたんですよ。東門が元どおりになった、今夜はお祝いにしようって」
カウンターの端で、オットーが制服の上着を椅子に掛け、ジョッキを持ち上げてみせた。
「門が戻った祝いだ。俺のおごり……と言いてえところだが、今月は厳しい」
「言うだけかよ」
ブルーノが笑いながら、樽の栓をひねった。
フィンが大皿を両手で抱えて出てきた。こんがり焼けた鳥が一羽、香草と一緒に載っている。皿が傾いて、ブルーノが後ろから支えた。
「ぼくが運ぶって言ったの」
「ああ。落とさなかったな」
卓に大皿が置かれると、ネネがさっそく身を乗り出した。
「皮、ぱりぱりしてる……!」
「先に座りなさい」
リシアに言われて、ネネは椅子に飛びついた。当たり前のように俺の右隣だ。リシアは少し間を置いてから、俺の左に座った。ロガーは、座布団を重ねた椅子へ跳び上がった。杯に麦酒が注がれ、ロガーの皿には水が張られる。
リシアが、膝の上の小さな革袋を卓に置いた。紐をほどくと、金貨が五枚、布の上に転がり出た。ちゃり、と小さな音がした。卓が一瞬静かになった。
「……本物の金貨、見たの初めてです」
ネネが、ささやくように言った。
ネネは目を丸くして、金貨を指でつついていた。ガルドは興味なさそうに鼻を鳴らしたが、袋の口を閉じる手つきは慎重だった。リシアは黙って、金貨の位置を並べ直している。
俺は、一枚つまみ上げて考えた。前の世界の金にすると、いくらになるのだろう。宿の部屋代と食事代が、何か月分も払えそうな額だ。数十万円か、それ以上か。
「院長の言ったとおり、これは今回の褒美です。これからの仕事の費用は、別に出ます」
リシアが、俺を見た。
「ナオトさん。配分は、どうしましょう?」
「一人一枚ずつでいいと思う。俺たち五人で」
リシアが、金貨を一枚ずつ五人の前へ置いていった。
最後の一枚を、ロガーの前へ寄せた。
「これは、ロガーの分です」
「私の、ですか?」
ロガーは、小さな金色の一枚を、しばらく眺めていた。
「何に使えばいいのか、分かりません」
「今すぐ決めなくていいよ」
ロガーは少し考えてから、俺を見上げた。
「では、決めるまで、ナオトが預かっていてください」
「ああ、分かったよ」
俺は、ロガーの金貨を受け取り、上着の左の物入れへしまった。
ガルドは、自分の金貨を指でつまみ、革の小袋へ落とした。
「職人どもの飯と、傷んだノミの替える」
俺は、自分の前の金貨を一枚つまみ上げた。
院からの日ごとの報酬で、部屋代と食事代は払えていた。けれど、これは自分の手で稼いだ、まとまった金だった。
「テッサさん。部屋代、先の分まで払っておいてもいいですか? 俺と、ロガーの分」
「まあ……じゃあ、受け取っておきます。でもこれじゃ多すぎなので、出ていくときは、ちゃんと言ってくださいね」
テッサは金貨を前掛けの物入れにしまった。出ていく予定なんて、ない。そう言いかけて、やめた。
鳥が切り分けられ、パンと煮込みが回ってくる。
ブルーノが、自分の杯を持って卓の端に腰を下ろした。
「で、院の仕事ってのは、何をするんだ?」
「門や設備が、誰かにおかしくされてないか調べるんです。見つけたら元に戻します」
「へえ……それ、何屋って言やいいんだ?」
フィンが、空いた皿を抱えたまま、俺を見上げた。
「お兄ちゃんたち、何屋さんになったの?」
答えに詰まった。院の部署だが、院長は名前までは付けていかなかった。
「魔術院でもねえ、保守班でもねえ、門番でもねえ」
ガルドが、パンをちぎりながら俺に言った。
「ナオト。俺達、何屋なんだ?」
「何屋って言われても……」
俺は少し考えた。
「俺の故郷には、こういうときに動く専門のチームがいたんです。事故や攻撃の原因を調べて、被害が広がるのを止めて、元へ戻す。CSIRTと呼んでいました」
「しーさーと?」
ネネが、首をかしげた。
「シーサー?」
リシアまで、首をかしげた。
「違います。シーサート」
「シーサー」
ロガーが言った。
「私の古い記録にあります。南の島々に伝わる、家や門を災いから守る獣の名前です」
ちょっと待て。この世界にはシーサーもいるのか?
「門を守るなら、ちょうどいいじゃねえか」
ガルドが、にやりと笑った。
「じゃあ私たち、シーサーズ?」
ネネが、両手をぱんと叩いた。
「いや、だから、シーサーじゃなくて――」
「シーサーズ!」
フィンが、皿を抱えたまま叫んだ。ブルーノが「いいじゃねえか」と杯を掲げる。
「シーサーズ……私は、その名前が好きです」
ロガーが、確かめるように繰り返した。
「門を守る獣、なんですよね?」
リシアが、杯を両手で包んだまま言った。
「悪くないと思います」
みんなが、俺を見た。
「……もう、それでいいです」
ネネが「やったあ」と跳び上がり、手帳のいちばん新しいページに大きく書いた。シーサーズ。
院の正式な名前じゃない。ただの、五人のあいだの呼び名だ。
夜が更けるにつれて、食堂は客で埋まっていった。
リシアが、俺の空いた杯に麦酒を注いだ。
「……今日は、ありがとうございました。院長の前で、私たちの仕事も、ちゃんと話してくれて」
「話したのは、本当のことだけです。俺一人じゃ、何も見つかりませんでした」
リシアは杯の縁を見つめて、小さく笑った。耳の先が赤い。
「ナオトさん、ナオトさん。私にも注いでください」
右からネネが杯を突き出してくる。
「ネネは、もう三杯目でしょう」
「先輩だって、ナオトさんに注いでもらってないじゃないですか。ずるいです」
「ずるくありません」
俺はネネの杯に、半分だけ注いだ。
ブルーノが、杯を置いて身を乗り出した。
「そうだ、ナオト。院の仕事をするなら、いつか話を聞いてやってほしい相手がいる。俺の仕入れ先の、商会の親父だ。倉の荷の数が、たまに合わねえってこぼしててな」
「盗まれた、ってことですか?」
「本人も、まだ分からねえらしい。院や軍に届けるか迷ってるってさ。急ぎの話じゃねえが、あんたらなら、話くらい聞いてくれるかと思ってな」
「院の仕事にできるかは、私から確かめましょうか?」
リシアが言った。
「話を聞くだけなら、すぐにでも。ブルーノさんから、先に伝えておいていただけますか?」
「おう、ありがてえ。明日の仕入れのついでに言っとく」
フィンが、ロガーの隣の椅子の背に寄りかかり、顔をのぞきこんだ。
「ロガーちゃん。さっきの金貨、何に使うの?」
「まだ、決めていません。決めるまで、ナオトに預けてあります」
ロガーは、フィンに向き直った。
「決めたら教えますね」
テッサが、焼きたてのりんごの菓子を運んできた。甘い匂いが、卓の上に広がる。
俺は甘い匂いを嗅ぎながら、腹が減ったらみんなは、ここに帰ってくると思った。




