第20話 北国エルゼン
院長は杖をついて立ち上がり、机の右脇を回って、窓の横の地図の前へ歩いた。
現在地である王都ヴァルディアは、地図の真ん中より少し下にある。まわりは、畑を示す淡い黄色の平野だ。東には海があり、港町ベルナの名が小さく書いてあった。北へ延びる街道は、等高線の詰まった山地へ入る。二つの山のあいだの細い谷を抜けると、その先は高原だった。高原のあちこちに、つるはしを交差させた小さな印が散っている。
谷の出口に、四角い印が一つ。
「北の高原は、エルゼンという国じゃ」
院長の杖の先が、つるはしの印を一つずつ叩いた。
「いい鉄と銅、ミスリルが出る山を、いくつも持っておる。掘るだけでなく、溶かして鍛える腕もいい。その鉄や銅、ミスリルを積んだ荷車が、この谷を下って南へ来る」
「ミスリル、ですか?」
俺が聞き返すと、リシアが答えた。
「魔力をよく通す金属です。魔導線の芯や、点検具の中で魔力を伝えるところに使います。魔力を逃がさずに通すには、ミスリルが最適なんです」
杖が谷道を下り、黄色い平野の上で止まった。
「ヴァルディアは、麦が採れる。港もある。麦と、ベルナに着いた海の品を積んだ荷車が、同じ谷を上って北へ行く。向こうにも畑や羊はおるが、冬が長く、畑が少ない。町や鉱山で働く者を養う麦は、秋のうちに運びこんでおかんと足りなくなる。大きな荷車が一年じゅう通れるのは、この谷くらいじゃ。ほかの峠は細くて、冬には雪で通れなくなる」
「こっちの麦を、向こうが頼ってるってことですか?」
「それだけなら、話は簡単なんだがな」
答えたのは、ガルドだった。腰の工具袋を、太い指で叩く。
「このノミも、ハンマーの頭も、北の鉄だ。地下の魔導線の芯にするミスリルも、半分以上は向こうから来る。こっちの山でも掘れるが、量が足りねえし、質も落ちる。海の向こうから買えば、高くつくうえに、船を待たなきゃならねえ」
「北からの荷が止まったら?」
「鉄が値上がりする。ミスリルの荷を何か月も待つ。そのあいだ、魔導線が直せねえし、魔導具の工房も手が止まる」
俺は、地図の谷道を見た。
この谷を閉じれば、エルゼンは麦に困る。けれど、ヴァルディアは鉄とミスリルに困る。
「谷を閉じて向こうを困らせても、こっちも困るんですね」
「そうじゃ。だから、どちらも本気では閉じたがらん」
院長が言った。
「こちらが荷改めを厳しくして、税を足せば、向こうは鉄の荷を絞って、値を上げてくる。そういう押し合いを、もう何十年も続けてきた。小競り合いになって、停戦して、また商いに戻る」
「それでも、砦は譲れないんですか?」
院長の杖が、谷の出口の四角い印に戻った。
「この砦を抜かれたら、向こうの兵は、この平野へ下りてこられる。見てのとおり、畑と町が広く散らばっていて、守る壁がない。だから、こちらは砦を譲れん」
杖が、谷を北へ上っていく。等高線の詰まった、細い登り道だ。
「でも、砦から北へ攻め上がるのも、簡単じゃない。この細い登り道に、兵と、兵の食べる麦を積んだ荷車を、長い列にして押しこまねばならん。上では、向こうが待ち構えておる」
杖が、また谷を下って、砦で止まった。
どちらの国も、谷の出口の砦を巡って押し合いを続けている。
ガルドが、髭の奥で低く唸った。
「うちの職人にも、谷の砦で壁を積んだ奴がいる……普段は、向こうの商人も税を払って通ってる。こっちの鍛冶屋は、向こうの鉄がなきゃ仕事にならねえ」
「うむ。仲が悪くても、商いは続くもんじゃ」
院長は、地図から振り返った。
「ここひと月ほど、エルゼンへ向かう荷の周りで、妙な知らせが続いておる。荷を扱う倉の道具が、急に動かなくなった。荷車の留め金が外れた。一つひとつは、ただの故障に見える。じゃが、重なるのが気に入らん……東門は、港で積み替えて北へ運ばれる荷が、いちばん多く出ていく門でもある」
部屋が、しんとした。
ネネが俺を見た。リシアは、地図の谷道から目を離さない。
「エルゼンの仕業だと、お考えですか?」
俺が聞くと、院長はまっすぐこちらを見た。
「疑っておる。証拠はないがね」
「東門について、確実に言えるのは、誰かが点検箱に魔石をつないだ、というところまでです。誰なのかは、まだ分かりません」
院長は、少しだけ眉を上げた。それから、頷いた。




